9.彩姉のヒミツ
「あの。私、ソファでいいんだけど」
「しばらく職場の床で寝袋生活をしていたと言っていたじゃないか。退職祝いだ、ベッドで眠ってくれ」
フラットにしたソファをマットレスに見立てて、寝床の準備を整える。
この部屋はバスルーム等の水回りと部屋が扉で仕切られている、極一般的な1DKの間取りだ。なので部屋は一つしかない。こんな場所で十六歳の男子と二十五歳の女性が一緒に寝るのは常識的観点からもよろしくはない。
突然のお泊まり宣言に、俺は猛烈に困惑した。まずいに決まっている。だが──。
「り……律」
「なんだ?」
「私、やっぱり迷惑? か、帰った方が」
「もう二十三時も回っている。この辺りは治安も良くないし、いくら近いからと言って、この時間に外を出歩くなんて論外だ」
「……ごめん……」
ションボリと肩を落としてしまう彩姉。
そういう顔をされるから、俺は家に帰るよう強く伝えられなかった。
「責めるつもりは無い。すまない」
疲れ切っていたこの人を、一人にする事ができなかったのだ。
社会倫理的には間違いなく良くない。けれど、今日くらいは構わない──と思いたい。
「……私の方こそ迷惑かけてホントにごめん」
「それは違う」
「え?」
「驚きはしたし戸惑っている。でもそれだけだ。迷惑なんて思っちゃいない」
「……ごめ──」
「さっきも言った。ありがとう、と言われた方が嬉しいと」
「……ん。ありがとう、律。明日はすぐに出て行くから」
「急ぐ事は無い。ゆっくりして、それから帰ればいい。彩姉はもう自由なんだから」
「……うん」
「じゃあ、明かりを消すぞ?」
「お願い」
リモコンで消灯すると、八㎡の部屋に夜闇が落ちた。
遠くで時々車の動く音がするが、他は何も聞こえない。
彩姉の静かな息遣いと、寝返りを打つ気配だけがある。
(……果たして俺は眠れるのか?)
という不安と微妙な罪悪感に襲われた。今朝、家に来て家事を手伝ってくれるという秋山の申し出を、『同年の男子の家に女子が一人で来るのは良くない』と断ったというのに。
まぁ事情が事情だ、と思うが。どうにも自分に言い聞かせている気がしてならない。
(これは意外と辛い)
そして眠れない。瞼を下ろしても眠気なんて一切やってこない。胸に手をやらずとも、心臓がいつもより早く心拍数を刻んでいるのが分かる。
寝返りを打ってどれくらい経ったか。ふと、ベッドの方から淡い光が見えた。スマホのバックライトだ。どうやら彩姉が寝る前スマホをいじっているらしい。
(そういえば……)
枕元に置いていたスマホを手に取って、ブラウザを立ち上げる。
アクセスした先はいつものweb小説投稿サイト。ログインして、お気に入りに登録している作品や作者の活動報告をざっくり洗う。
やがて目当ての作品に辿り着く。
(やはり更新は無しか)
現代恋愛ジャンルの『年下の幼馴染が私を好きすぎてスウェット姿でビールを買いに行けない』。通称『年下スウェット』。
連載開始当時は一日に三回は更新され、時にはランキングに載るほどの人気作だったが、いつからか更新頻度は下がっていって三カ月前から完全に止まってしまった。
その話に物語性は特に無いが構わなかった。完璧超人の申し子みたいなOLが、ズボラの権化である本性を隠して、年下の幼馴染の少年との関係性を少しずつ縮めて行くその過程が良かったのだ。
(もう、あの二人の日常にニヤニヤする事もできないのか)
これはもう諦めた方がいいかもしれない。暗い気持ちになりつつ、お気に入りから外すべく指を動かそうとした、その時だった。
(……活動報告が……更新されている?)
高頻度で更新されていた本編とは対照的に、作者の活動報告はほとんど更新されていなかったのに。
(件名は『お待たせしてしまっていて申し訳ありません』……更新されたのはついさっきだ)
俺は逸る気持ちを押さえて、『年下スウェット』の作者──YANEAさんの活動報告をタップした。
『ご無沙汰しています、YANEAです。三カ月も更新が止まってしまい、楽しみにしていただいた方々に申し訳ない気持ちでいっぱいです。仕事が忙しくて、お話を書く時間がまったく取れませんでした。ですが、今日で仕事を辞めて身体も心もお休みさせていただく事になりました。正直、このまま書き続けられるかどうか自信がありません。何をするにしても自信が持てないのです。小説を削除するかどうか、しばらく考えさせてください』
(そうか、小説を書く暇も無いほど忙しかったのか)
ならば更新が無かったのも理解できる。だが、後半が不吉というか不安を駆り立てられてしまう。特に『自信が持てない』という文脈には。それに──。
(彩姉の状況と似ているな)
ブラック企業なんて今日日珍しくもなんともない、とネットを見る限りは思う。
(だが……)
彩姉と再会した今日。三カ月も放置されていたweb小説の作者が、滅多に書いていなかった活動報告を更新した。内容は今日の彩姉そのまま。そして彩姉はさっきからベッドの中でスマホをいじくり回している──。
(ただの偶然なのか?)
そんな事を考えていたら、ドンドンとカーテンの向こう側が白みはじめて。
俺は、起きたらちょっとカマをかけてみるか、とぼんやりと考えながら眠りに落ちた。
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