8.一難去ってまた一難
「はぁ……」
安堵の溜息をつき、通話終了をタップする。
はじめて、あの倉庫整理のバイト先に感謝した。あの経験が無かったら、この電話はできなかっただろう。
「り、律……」
彩姉が心配そうに声をかけてくる。
俺は彼女の手を取ると、その掌にスマホを置いた。
「退職は認められた。おめでとう、彩姉。これで無事無職だ」
「…………」
「彩姉?」
返事が無い。不安を覚えていると、彩姉は口辺を緩めて小さく笑った。
「無職になった事をお祝いされるなんて。ふふ、おかしっ」
「確かに普通に考えるとおかしいな。だが、ああいう人がいる職場から抜け出せたのなら祝うべきだと思う」
「……うん」
彩姉がゆっくりと肯いて。俺の手を、ぎゅっと握り返した。
強く。とても強く。そうして、まるで礼をするように頭を下げた。そのまま俺の手の甲に額に添えて、静かに嗚咽を漏らす。
「ごめん、怖い事をさせてごめんっ……!」
「俺がやりたいからやったんだ。彩姉が謝る事は何も無い」
「私がっ、私がしなきゃいけなかったのにっ! まだ高校生のあんたにっ、まだ子供なのにっ! それなのにっ……!」
「滅多にできない経験をさせてもらった。感謝しているくらいだ」
「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ、いっ……!」
正直、メチャクチャにテンパった。心臓は早鐘を打ちまくっているし、背中は変な汗でグッショリだった。
それでも平静を装っていられるのは、憧れの女性に格好悪いところを見せたくないから、というクソダサい理由。
そんな中でも、今の彩姉を慮る事くらいはできる。
どうしようか、と迷う。下手な事を言えば、彩姉をさらに傷つけるかもしれないが──。
「……彩姉」
「……うん」
「こういう時は謝られるより、ありがとうと言われた方が嬉しい」
彩姉がそっと顔を上げた。
眼は真っ赤で、涙と鼻水で酷い顔だった。
でも、生気を失った青白い顔よりも、ずっとずっと魅力的で生きた顔だった。
「う、んっ……ありがとう、律っ……!」
それからしばらく、彩姉はずっと泣いていた。
「……何も聞かないの?」
落ち着いた頃。しこたま鼻をかんだ彩姉が言った。
俺はコーヒーを用意しながら返す。
「何を?」
「私の仕事の事」
「聞いて欲しいのなら聞く。愚痴を吐きたいのならいくらでも聞く」
「…………」
「でも、そうじゃないんだろう?」
「……あんた、ホントに高校生? 私なんかよりずっと大人っぽいわ」
「やめてくれ。これはじいさんのトンデモ躾のせいだ。友達からも枯れていると呆れられているんだから」
「そんなに厳しかったっけ、権三郎さん」
「体罰の類は一切無かったし、言葉も優しかった。だが、それだけだったよ」
優しいと甘いと間違えない人だった。子供の頃はその躾ぶりによく泣かされたものだ。
「これからどうする?」
「……今は、ちょっと考えらんない……少し、休みたいわ」
「そうするべきだと俺も思うが、生活もあるだろう?」
衣食住の維持には金が要る。親父がこのマンションを借りてくれた時に費用を教えてくれたが、度肝を抜いた。
彩姉がどこに住んでいるか分からないが、仕事を辞めた以上、収入も無くなる。
「お金の事なら大丈夫よ。使う時間が無かったから、給料はほぼそのまま全部貯金してた。残業代は出なかったし基本給も低かったけど、それでも二年くらいはニートできると思う」
「なら安心だ」
そう思ったら、急に疲れがやってきた。さっきの電話は思った以上に精神的に来たらしい。
自分の分のコーヒーも淹れてテーブルに着く。彩姉にマグカップを渡すと、彼女は両の掌で挟み込むように受け取って、ちびちびと飲み始めた。
やがて、彼女がどこか上目遣いで、嬉しそうにはにかんでいる事に気づく。
「なんだ?」
「……嬉しいの」
「パワハラ会社を辞められたんだ。当然だろう」
「そ、そうじゃ、ない……それもあるけど、その……」
もじもじと肩を揺らして、顔の半分をマグカップで隠しながら眼を横に逸らし、呟くように言った。
「こ、こここここ、恋人って……言ってくれた事」
横髪の隙間から見えた耳が赤くなっていた。
「……他に何も浮かばなかったんだ」
言い訳のように、つい口走ってしまった。
頬が熱い。
「小さな時は、将来私と結婚するんだ~って言ってくれてたわよね~?」
「子供なら兄妹でもやるだろ、その手の会話」
「そうなの? 一人っ子だったので分かんないわ」
「俺だってそう……あぁ、いや。つまり俺にとって、彩姉はそのまま姉だったんだ」
「……今でも?」
「そうだよ」
「……なら、ホントに光栄」
そう言って彩姉は笑ってくれた。
ああ、やはりあなたは笑っていた方がいい。
「もう遅い。家は近いのか? 送っていく」
「……あの」
「ん?」
「泊まっていっても、いい?」
突然、そんな事を言い出した。
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