7.ブラック企業にさようなら
「ごちそう、さま」
「お粗末様でした」
お茶を飲み干して、お互いに頭を下げる。
ああ、懐かしい。じいさんの家で彩姉も交えてメシを食った時、いつもこうしていた。
「見事な食いっぷりだったが、そんなに腹が減っていたのか?」
炊飯器はカラだ。途中で足りなくなったので、早炊き機能を使って追加で二合も炊いた。
彩姉が恨めしそうに睨んでくる。
「あ、あんなに美味しい料理ができるようになったあんたが悪いのよ……っ」
「お褒めいただき恐縮だが、あんなもの誰でもできるぞ」
謙遜でもなく事実だ。適当に切った食材と必要な調味料諸々を耐熱容器に入れてチンすればいい。献立や好みによって変わる事もあるが、大抵はこれで終わりだ。ネットで公開されているレシピを厳守すれば誰だって作れる。
「そうかもしれないけれど……ホントに美味しかったのよ? それに、暖かいゴハンを食べたのも……ホント、久しぶりでさ。泣いちゃったくらい……」
彩姉が笑う。小さな弱々しい笑み。
少しの躊躇いの後、俺は訊ねた。
「日頃、何を食べているんだ?」
「……コンビニのゴハン。おにぎりとかサンドイッチとか。他には栄養補助食品?」
「山盛りカツカレーをお代わりしていた彩姉では満足できないのでは?」
「落ち着いて食べてる時間、無かったから」
「無かった、という事は、これからは落ち着いて食べられる時間はあるのか?」
「…………」
「……すまない、おかしな事を聞いた。答えなくていい」
俺にとって彩姉は、明るさの象徴だった。
弾ける笑顔。男子を蹴散らす活発さ。放っておけば何をしでかすか分からないハツラツさ。
小学校低学年の俺が思いつく下らないイタズラに正面から付き合ってくれた、威風堂々とした少女──それが森村彩音だ。
そんな彼女が、顔面蒼白で踏切に飛び込んだ。
「……ごめん、律」
「何故謝る?」
「気を遣わせて。私の方が九つも上なのに。ホント、ダサいとこ見せた」
その悄然とした物腰と口調、よれたスーツに体臭を気にする言動からして改めて考える必要は無い。彩姉は精神的にギリギリの瀬戸際まで追い詰められていたのだ。恐らくは仕事関係。SNSやドラマで見かけるような事態に陥っていたのか。
どちらにせよデリケートな話に違いない。昔良くしてもらったくらいの俺が立ち入っていい話ではないだろう。
そんな事は分かっている。分かっているが──。
「彩姉。俺にできる事は無いか?」
「…………」
「今みたいにメシを作るでもいい。部屋の掃除でも。俺にできる事ならなんでもやる。だから」
助けたいと思って何が悪い。昔、とても良くしてくれた人の窮地を、指を咥えて眺めているなんてできない。
「彩姉」
彼女は何も言わない。ポカンと俺の顔を見た後、下唇を噛み、軽く顔を伏せる。
無音。
やがて、バイブ音が鳴った。
俺のスマホではない。テーブルの片隅に置かれていた、彩姉のスマホだった。
「────」
彩姉の気配が変わる。頬が引き攣って、顔色が瞬く間に青白くなってゆく。肩も微かに震え始めた。
悪戯を親に見つかった子供のような、なんて次元ではない。
それでも彩姉はスマホに手を伸ばそうとして。けれど、なかなか手を出せなくて。
「取りたくない電話?」
彩姉が肯く。
「でも、取らなくてはいけない電話?」
躊躇うような間を置いて、再び彩姉が肯く。
通話を告げるスマホのバイブは止まらない。執拗なコール。
「スマホに触っても?」
三度、彩姉が肯いた。
俺は慎重に彩姉のスマホを手に取って画面を見る。
発信者名は『職場』と出ている。
コールは止まらない。
「留守番電話には?」
「……繋がる。でも、ずっとかけて、くる」
「応答拒否にしても?」
「……うん」
となれば応答するしかない。
けれど、今の彩姉に話させる事はできない。
彼女を追い詰めた原因が、この電話の向こう側にいる──恐らくそういう事なのだろう。
軽く深呼吸をする。
助けたいと思ったのだろう、高浪律。
「俺が出る」
「え」
「俺は対応する。実は去年務めたバイト先が酷いブラックでね。色々と見てきた」
「そう……だった、の……?」
「雇われる側を守る為の書類とか、その辺りは多少分かってるつもりだ。だから俺が出る」
「でも」
「彩姉、家に来る前に言ったじゃないか。『仕事はもうない』って。仕事、辞めたんだろう?」
「…………うん」
決まりだ。俺は腹を括ろうとして。
「このスマホ、通話内容を録音するアプリって入ってる?」
一旦、応答拒否をタップした。
準備を終えた頃、再びスマホが震えた。もちろん『職場』からだ。
軽い緊張で背中が硬くなる。これから話す内容もそうだが、彩姉に固唾を飲んで見守られている状況の方に、身が引き締まる思いだった。
スピーカーモードに切り替えて──彩姉の要望だ──応答とタップする。
『やっと出ましたか。いつまで待たせるんですか? いいご身分ですね』
重く鋭い男の声が飛んできた。同時にガチガチと不思議な音がする。彩姉だ。耳を塞ぎ、顎を震わせ、何かに耐えるようにガチガチと歯を鳴らしていたのだ。
予想が当たった。彩姉はブラック企業でパワハラを受けて神経を擦り減らしてギリギリの状態だったのだ。
俺はスピーカーモードから通常通話モードに切り替えて、スマホを耳に添えた。
「もしもし」
『……どちら様で?』
俺が声を出すと、電話の主は明らかに動揺した。まぁ電話をかけた相手が全くの別人だったのだから当然だ。
だが、動揺したのは俺もだ。色々準備するので頭がいっぱいで、自分の身分を考えていなかった。
真っ白になった頭の中に、僅かに浮かんだもっとも手っ取り早い選択肢を選ぶ。
「森村彩音の恋人です」
『……そうですか。森村さんに代わっていただけませんか?』
「お断りします。電車に飛び込もうとするほど衰弱してしまった彼女に対応させる訳にはいきません」
『……は? なんですかそれ?』
上擦る声。
「そのままです。何故そんな事をしようとしたのか、情けない話ですが俺にも分からなくて」
『ああ、ふむ……そうですか』
「とても普通ではない状態です。明日にでも心療内科に連れて行きます。つきましては、大変勝手ながら退職させていただきます」
『損害賠償』
「は?」
『社内規則で退職の時は三カ月前にその旨を報告しなきゃいけないんですよ。それをやらない以上、会社には迷惑がかかります。溢れた仕事を他の人間が処理しないといけない。残ってる仕事もある。取引先にも飛び火する。会社は損害を出す。それを賠償するのが筋というものでしょう?』
「雇用契約書は結んでいますか?」
『ウチ、そういうの無いんで』
ああ、あのバイト先と同じか。
なら、こういう時は──。
「では、労働条件通知書は? これは書面で出さなければならないもののはずです。雇用側が労働者へ交付する義務があります。無い場合は労働基準監督署に相談しなければならない事案です」
『……脅しですか?』
「一般的な対応かと。ちなみにこの会話は録音させてもらっています」
舌打ちが聞こえた。
ここまでかつてのバイト先と一緒だと笑えてくる。
『どうしても辞めたいというのなら構いません。しかし、代わりの人も見つかってない以上、残った社員に皺寄せが来てしまいます。これは酷いと思いますね。無責任です』
「代わりの人を見つける努力は会社側がすべき事でしょう」
『他の社員が可哀想だ』
「私にとって、顔も名前も知らないどこの誰かより彩音が大切です」
それは何一つ偽りの無い本音だった。彼女に良くしてくれた人もいたかもしれない。仮にいたとしたら感謝を禁じ得ない。けれど、これは譲れない。
再び舌打ち。
『分かりました。森村彩音さんの退職を認めます。もう二度と来てもらわなくて結構です』
「承知しました。それでは失礼しま──」
そこで電話は切れた。
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