3.再会


 放課後になって結論が出た。


「今日はダメだって」


 許可は出なかった。当然だ、と思った瞬間、『今日は』という言葉に引っ掛かりを覚える。


「でもね、明日は行ってもいいって!」

「待て。明日は土曜だ。休みの日に俺の家に来てどうする?」

「それはほら、朝言ったやつ」

「そもそも今日の放課後が駄目で、何故土曜に許可が出る?」

「はい証拠」


 と、スマホのラインの画面を見せてくる。そこには秋山と彼女の母親のやりとりがあった。


「……確かに許可は出ているが……」

「今日がダメだったのは、お父さんが早く帰ってくるから一緒に晩御飯食べよって事みたい」

「なるほど。いや、しかし」

「親が許してくれたならいいって言ったよね~?」


 胡乱な眼を向けられた。


「……分かった。だが、来るのは午後からにしてくれ。部屋の片付けもある」

「えっちな本とかあっても、あたしは気にしないよ? 高浪も男の子だもん」

「気持ちの問題だ。そんなものを野晒しにして女友達を家に上げるほど、俺は精神を鍛えていない」

「……ここ、ムキになって否定するトコじゃない?」

「知らん。とにかく午後から頼む。連絡をくれれば迎えに行く」

「は~い」


 喜色満面でスキップしながら部活へ向かう秋山を見送った俺は、そのまま電車に乗って帰路についたのだった。




 自宅であるマンションに帰宅した後、夕食の支度をしていると、めんつゆが底をついている事に気付いた。


「登板数の高さがアダになったな……」


 めんつゆとは万能の調味料だ。めんつゆとみりんと砂糖と味の素があれば大抵の煮物は何とかできる。


「面倒だが買いに行くか」


 ジーンズのポケットに財布とスマホを捻じ込んで部屋を出る。外はすっかり夜だった。

 外廊下を通ってエレベーターへ。一階のエントランスを抜けてオートロックを解除、外に出る。


 近場のコンビニへ出向くが──。


「品切れか」


 面倒だが、駅前のスーパーに行く事にした。

 駅の方面へ足を向ける。帰路についている会社員や学生達を中を縫うように進むと、駅施設が見えてきた。ところが踏切が下りている。

 このまま待つか。歩行者用の地下通路に行くか──そんな事を考えている時だった。


「………」


 横に立っていた女性が眼に止まった。

 長身で目立ったから、というのもある。目線の高さは身長百七十弱の俺とほとんど変わらない。スラリと長い手足に起伏に富む身体はパンツスーツがよく似合っていて、後頭部で結わえられた長い藍色の髪はふわりと背中に流れ、風に揺れていた。

 その髪の下にあったのは、美しく整っていた大人の女の顔だった。細い顎にすっと通った鼻梁。そして切れ長の瞳と薄い唇。化粧をしているかどうか、異性と付き合った事が無い俺には見当もつかなかったが、とても美麗な女性なのは確かだ。微かに甘い花の香もする。香水だろうか?

 単純に美しい人だから眼で追ってしまったのかとも思ったが。


(いや、違う)


 確かに視線を奪われてしまうほど美しい。

 けれどそれ以上に。


(目に生気が無い。視線は定まっていないし、顔色も青白い。微かに身体も揺れている)


 憔悴している。生気が乏しい。

 不躾である事を自覚しながら件の女性を観察してみる。すると、彼女が片足に何も履いていない事に気付いた。左足にはパンプスを引っ掛けているが、右足はストッキングの足が丸出しだ。スーツはどこかくたびれていて、髪も少し乱れた様子があった。


(まさか……暴行から逃げてきた!?)


 とも思ったが、服装に乱れは無い。息も乱れていないし、狼藉を働く男から逃げ出してきた、という風情ではなかった。

 その時、近くにある駅から電車の到着を告げるアナウンスが聞こえてきた。やがて夜の空気が震え出し、八両編成の巨大な列車が汽笛を鳴らしながら現れた。

 先頭車両の照明が見えた瞬間──。


「────」


 件の女性が動いた。

 ふらりと。

 一歩前へ。

 その横顔には何も浮かんでいない。

 美しく青白い顔に、電車の照明が深い陰影を刻むのが見えた。

 踏切は開いていない。カンカンカンと甲高い音を鳴らし立てている。

 女性がその中へ入るには三歩必要だろう。


「────」


 二歩目を踏み出した女性の手を、俺は迷わず掴んだ。

 女性がはっとして俺を見る。幽霊でも見たかのような顔で。

 次の瞬間、轟音と突風が俺達の頬を撫でつけた。踏切の向こう側を凄まじい質量が駆け抜けてゆく。

 半秒でも逡巡したら、一体どうなっていただろう。

 踏切が上がる。止まっていた車と通行人達が解放された濁流のように動き始めた。


「すいません」


 俺は一言詫びると、返事を待たずに女性を連れて歩道の隅へ移動する。

 大人しくついてきた女性と、握った彼女の手の小ささに密かにどぎまぎしつつ、何と言えばいいか迷って。その結果。


「この辺りにめんつゆが売ってる店、知りませんか?」


 努めて冷静に、訳の分からない事を言っていた。

 どうやら思っていた以上に、俺は混乱しているらしい。


「────」


 女性が口を開けようとする。けれど、開けられない。彼女の切れ長の瞳が、俺の胸元と足元の間を往復する。

 改めて声をかけようと思った時、その細く小さな肩が震えていた事に気づいた。

 俺が怖いのか、とも思った。突然どこの誰とも知れない男に手を掴まれて歩道の隅に連れ込まれて、めんつゆの販売店について聞かれたのだ。恐ろしいに決まっている。俺なら怖い。

 でも──。


「……ありが、とう……っ」


 目元に浮かぶ涙が俺への恐怖ではなく、安堵から浮かぶものだという事くらいは分かった。


「……いえ。こちらこそ、もしかすれば差し出がましい真似をしてしまったかもしれません」

「ううん……本当に、ありがとう。あん、たは……命のおんじ──」


 俺の顔を見てた瞬間、女性の言葉が途切れた。

 驚きで見開かれる目。小刻みに動く唇。静かに飲まれる息。 


「……あの、何か?」

「……り、つ?」

「え?」

「高浪、律……?」


 呆然と紡がれた疑問符。

 俺は何度も眼を瞬かせた後、思い切って聞いてみた。


「……彩姉?」



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