2.登校時の日課


 あの夢のせいなのか、完全に寝坊してしまった。

 いつもより十五分ほど遅れて通学の電車に飛び乗り、一息つく。


(父さん達が連絡先を知っていれば良かったんだが……)


 祖父が住む田舎のご近所さんの電話番号なんて分かるはずもない。

 そもそも仮に今分かったとしても、連絡を入れられた彩姉──森村彩音は困るはずだ。


(俺の九歳上だったから、今は二十五歳か。気味悪がられるに決まっている)


 きっと俺の事なんて忘れているに違いない。そう思うと陰鬱になってくる。

 気分を変えようと、俺はポケットからスマホを引っ張り出した。ブラウザを立ち上げて、ブックマークからweb投稿サイトにアクセスする。

 高校に進学してから一ヶ月。通学時間の大半を占める電車の中で、俺はweb小説を読んで過ごす。

 無料で、かつ手軽に読めるweb小説は暇潰しにはもってこいなのだ。

 そしてお気に入りのジャンルは──。


(ふむ……尊い。ラブコメとは何故こうも尊いのか)


 お気に入りのweb小説『年下の幼馴染が私を好きすぎてスウェット姿でビールを買いに行けない』、通称『年下スウェット』は、何度読み返しても胸が締めつけられる。


 容姿端麗、文武両道、才色兼備、大手IT企業で辣腕を振るう二十代のOL『木村愛衣』が、疎遠になっていた歳の離れた幼馴染の少年『高津リオ』と再会、共同生活を始める。実はズボラの権化のような人間だったOLは、そんな本性を隠しながら少年と距離を詰めてゆく──とまぁ、よくあるジャンルなのだが……。


(『木村愛衣』の仕事は完璧超人、プライベートは自堕落が服を着て歩いているようなモノというギャップが素晴らしい。そして、そんな主人公に懐いている幼馴染の少年『高津リオ』……『愛衣』を敬愛し、仕事で疲れている彼女を少しでも癒せればとアグレッシブに動く様が実に健気だ。そんな『リオ』の行動にあたふたし、本来の自分を気取られないよう四苦八苦する『愛衣』──その様がいい。これぞまさしく尊いという感情の結晶だ)


 強烈な二面性を持つOLと、そんな彼女を全肯定する少年。この二人の物語は実にほっこりする。

 是非とも完結してもらいたかったが、ここ三ヶ月ほど更新は止まっていた。


(これが俗に言うエタるというやつか。作者も忙しいのだろうが、寂しい限りだ)


 電車が目的の駅に到着する。駅前に出ると、メガネをかけた女子学生が制服のプリーツスカートを翻して、トコトコと駆け寄ってきた。


「おはよ、高浪」

「秋山。おはよう」


 秋山楓あきやま かえで。中学の頃からの友人だ。


 短い黒髪は奇麗に切り揃えられていて、縁の無いメガネと共に清潔感を演出している。眼鏡の向こうにある瞳は大きく、端麗な顔立ちと相まって、贔屓目に見ても美しい少女だと思う。


 身長百六十弱の体躯は水泳部で鍛えていて、手足はスラリと長く、日焼けした浅黒い肌は実に健康的。中学の頃から男子に人気があったのは肯ける。


「昨日も『年下スウェット』、更新してなかったね」

「今朝もだ。これはいよいよエタってしまったと見ていいだろう。残念だ」

「いやいや。半年経ってからゾンビみたいに復活する作品もあるから油断はできないよ」

「ゾンビは例えとして適切なのか?」


 俺に『年下スウェット』を教えてくれたのが秋山だった。利発的な雰囲気だが、読書を趣味にしている彼女には、今まで沢山の小説を教えてもらっている。


「ねね、高浪」

「ん?」


 秋山が腰の後ろで手を繋いで、下から覗き込むように見てくる。そして頬を薄く朱色にして言った。


「今日こそさ、高浪の家に行ってもいい?」

「駄目だ」

「えーなんでー? 放課後は空いてるでしょ? 倉庫整理のバイトも辞めたんだし」

「ああ、辞めた。ブラック企業でバイトはできない」


 冬休みに短期で倉庫整理のバイトを始めたのだが、ありていに言えば悪徳会社だったのだ。

 当時中学生だった俺は被害を受けなかったものの、ネット上で言われているようなブラック企業の典型的な言動が炸裂する地獄の職場だった。


「まさか身を守る為に雇用関係の勉強をするとは思わなかったぞ。良い人生経験になった」

「あんたが変な事されなくて良かったよ、もう。それで?」


 言葉を区切った秋山が唇を尖らせて、不機嫌そうに眼を眇める。


「どうして高浪の家に行っちゃいけないの?」

「十六歳の男子学生が一人暮らしをしているマンションに同い年の女子学生が来るなんて論外だ。君のご両親も許すはずがない」

「むー……高浪ってさ、ちょっと硬くない? いーや、硬いというより大人の理屈っぽい。オジサンみたい。言葉遣いもメッチャ硬い」

「恐らく祖父のせいだろう。前にも話した気がするが、俺は十歳まで田舎の祖父母の家で育てられてな。これが厳しい人達だったんだよ。言葉遣いは散々仕込まれた。今更変えられん」

「聞いた。でも、それにしたって大人臭い」

「大人っぽいじゃなくて大人臭いという辺りに悪意を感じる」

「一人暮らしなんて大変でしょ? 掃除とかご飯とか。ちゃんとできてる?」

「祖父母に徹底して叩き込まれている。問題無い」

「そっかー……それなら仕方ないか」


 残念そうに、それでいて寂しそうに、秋山が眼を伏せる。

 彼女が本気で心配してくれているのは分かった。その厚意を無碍にするのは、どうにも気が引ける。


「ご両親に相談し、許可を得て、それを証明できるのなら……来てもらっても構わない」

「え。ホント?」

「ああ。日付は──」

「今日! 部活終わった後に行く! お母さんに電話して許可もらうから! ラインのやりとり見せればいい!?」

「大丈夫だ」

「よし、言ったね? 必ず今日行くからね!」

「分かった。楽しみにしておこう」

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