第81話 いざ交渉へ
「――姫よ、先程我が主より連絡が入ったぞ。どうやらお前に用事があるようだ」
執務の合間の長閑な午後のティータイムに、突如として部屋の暗がりから、ぬるりと染み出すようにガイウスが現れる。
侍女のマリーはそれに驚いて、危うく紅茶を取り落としそうになった。
「主……ゾディアック様からですか?」
「ガ、ガイウス様……! 何度も言っているではありませんか! そのようにして現れるのは、心臓に悪いのでお辞めくださいと!」
平然としたエーリカを余所に、マリーは顔を真っ赤にしながら抗議する。
「ふっ、なぜ我が脆弱な人間の要望など聞いてやらねばならん。それにそこの姫は全く動じていないではないか」
「マリー、ガイウスには何を言っても聞きませんよ。それに……まだ何処かで彼を恐れる心があるから驚くのです。この気配にも慣れてしまえばどうということはありませんから」
エーリカはそう言って平然と紅茶をすする。
「そんなことができるのは姫様だけですよ……」
マリーはため息をつきながら、そのカップに紅茶のお代わりをそそいだ。
「それはそれとして……用事とは如何なるものでしょう? もちろん、ゾディアック様からの用事であるなら、最優先で対応させて頂きますが」
「うむ、どうやら今回は使者を通じての商談であるらしい。お前に何か売りたいものがあるそうだ。それと、小麦の購入も希望されていた」
「小麦はもちろん問題ありません。今我が国は近年稀に見る豊作ですから。しかし売りたいものですか……」
エーリカは考えるような素振りを見せる。
「どうした、何か不服か?」
「いえ……今はグラッススを始めとした、内通を企んでいた国内の貴族から財産を接収して、国庫にもそれなりに余裕があります。何か買い取るのは構いませんが……ゾディアック様ほどの方がお持ちのものとなると、どのようなものか想像もつきませんわね」
エーリカは顎に手をやって考え込む。
「あの御方の深淵なるお考えは我にも分からぬ。だがわざわざお前を指定してくるくらいだ。生半可なものは持って来ぬだろう」
「そうかも知れませんわね。……良いでしょう。あまり驚いて足元を見られるのも癪です。
* * *
「こ、これはまさか、聖教会の……!」
エーリカは、前言を即座に忘れてしまったかのように、テーブルの上に並べられた財宝を見て体を震わせる。
そこには大小さまざまな金銀財宝が並び、鈍い光沢を放っている。
中でも頂点に赤い宝石があしらわれ、十字の紋章が刻まれた短い金の杖を見て、エーリカは目を見開いていた。
「ううむ……忌々しい。これは教皇ピュリウス七世の
その隣では、ガイウスが持ち前の教養深さによって、適切な鑑定を下す。
その反応を目の前にして、ジャスパーはニコニコと笑顔を崩さぬまま、反応を見守っていた。
「ですがそれは……おかしいのではないですか? ピュリウス猊下は、百年前のアスラ大戦時に、あの"悪魔の航路"で消息を絶ったという話では……」
「だから探してきたのだろう、海の底から。あの御方ならそれぐらいやっても不思議ではあるまい」
「――お話の途中に失礼します、姫様。これは我が主が、その悪魔の航路の底より引き上げた財宝の一部になります。海水によって少々傷んでおりますが、それが何よりの本物である証になるかと」
普段の軽薄な態度は鳴りを潜め、ジャスパーは貴族に対しての礼儀を弁えた口調で話す。
その服装も、いつもの毛皮のみすぼらしいものではなく、城下町で買い揃えた、貴族と面会しても恥ずかしくないピシッとした上等な物に変わっていた。
しかしその相手の反応を値踏みする視線は商人のそれであり、エーリカはハッとして、ゆっくりそれをテーブルの上に戻した。
「……大変結構なものを見せて頂きました。海底から引き上げたというゾディアック様の財宝、確かにこれは素晴らしいものですわね」
エーリカはにこりと笑顔を取り繕う。
「そうでしょうとも。姫様におかれましては、我を忘れてこの宝物にご執心であったご様子。そこまで興味を示されて頂けますと、持ち込んだ商人冥利に尽きるというものでございます」
「…………!」
「これが欲しいんだろ?」と暗に問われて、エーリカの口元がヒクリと持ち上がる。
――確かに、欲しいと言えば、喉から手が出るほど欲しかった。
財宝云々というよりも、持っていることが政治的に大きな意味を持つ宝なのだ。
しかしそれをそのまま言ってしまえば、足元を見られるのは明白。エーリカは表情を崩さずにごまかすことにした。
「確かに眼福ではありますが……美術品としてはそれほど価値あるものではございませんわね。使われている金の量もそれほどではありませんし……」
「何をおっしゃいますか! この宝物の本質は造形や金の量などではなく、これの持つ政治的、または宗教的な価値でございましょう? 姫様ほどの才知に優れたお方が、まさかそれに気付かぬことはございますまい」
「…………」
エーリカは内心でチッ、と舌打ちしそうになるのを必死に堪えた。
気取られたくはなかったが、確かにそれは事実であった。
この宝の宗教的価値は計り知れない。
東方聖教会には今『教皇』というものがいない。
大主教が実質的なトップであり、今はほとんど帝国の傘下として侵略戦争を是認する役割を果たしているだけの組織である。
それというのも、この持ち主であるピュリウス七世が、アスラの侵略を恐れて逃げた最中に、この
それ以来、民衆を捨てて一番に逃げたと非難を受けた東方聖教会の権威は失墜。教皇を名乗ることは許されず、帝国に半ば吸収されるような形となってしまった。
――しかし、このエーリカの手元に失われた教皇の宝物が入ってきたとしたらどうだろう。
神の配剤によって、失われた教皇の財物がエーリカの元に来たということは、神は帝国ではなくロムールにこそ正義を見出したという主張が可能となる。
戦姫エーリカの権威が高まると同時に、帝国の侵略は神の意志とする主張を真っ向から叩き潰すことすら出来るのだ。
「……確かにそう言った価値はございますわ。しかし、我が国は宗教的価値観をさほど重んじてはおりません。過剰な権威は無用の長物と申せましょうか」
「これは異なことを! 貴国にその価値観がなくとも、帝国はまた違います。彼の国には敬虔な信者も多いと聞きますからな。姫様がこれをちらつかせて向こうの聖教会を揺さぶれば、それだけで帝国は動揺し、ロムールに攻め込む出足が鈍ることでしょう。お国の安全に関わることに、値段をいくらかけても惜しくはありますまい?」
そうニコニコと人の良い笑みを浮かべるジャスパーの顔が、エーリカにはなんとも憎たらしく映った。
「……分かりました。確かにそういう側面があることは認めましょう。ですがその宝は我が国にしか持ち込めないもの。帝国に渡って聖教会の権威が強化され、大手を振って魔性の森に攻め込んでくるのはあなた方も避けたいはずですわ。それらを加味して値段をつけて下さらないかしら?」
「確かにそうです。……ですが我らとて一応行商で生業を立ててきた身。貴国や帝国ではなくとも、他にも売る宛はございます。例えば南西の小国家群に足を伸ばしても――」
「そ、それはいけません!」
ジャスパーの言葉を遮るように、エーリカは声を荒げる。
もはや語るに落ちたと言った風情だが、エーリカが焦るのも無理はなかった。
何故なら大陸南西に存在する小国家群は、同じく帝国と対峙する仲間であるが、同時に主権を争うライバルでもあったからだ。
今大陸南部は帝国の脅威に対峙するため、ロムールを中心とした連合を組もうという流れになっていた。
せっかくエーリカの外交努力によって、ロムールが帝国と渡り合える大連合の盟主となろうとしている時に、小国家群にこんな財宝が流れ込んでしまえば、連合の盟主が誰になるか、またグダグダに足並みが揃わなくなってしまう。
それを知ってか知らずか、ジャスパーが痛い所を突いてしまったので、エーリカは思わず声を荒げてしまった。
「…………いくらです」
「えっ?」
その淑女らしからぬ低くドスの効いた声に、ジャスパーは思わずそう聞き返す。
「……あなたは一体いくら欲しいのかと、そう聞いているんです」
エーリカの声はもはや取り繕ったものではなく、怒りと苦渋に満ちていた。
「……えっと、じゃあ、これくらいで?」
少女と思えないその迫力に若干気圧されつつも、ジャスパーは五本指を立てる。
それが金貨五百枚を意味するのか、五千枚なのか、今のエーリカには計り知ることが出来なかった。
* * *
「他の財物もこれほどではないとはいえ、凄まじいものがありますわね……」
一番大きな商談が成立後、エーリカは他の財物を前にしてそう素直な感想を述べる。
最初のものは政治的や宗教的に計り知れない価値があったため、かなりの高額となってしまったが、他のものも歴史的、美術的な価値で言えば決して劣るものではなかった。
「これは何でしょう? 見たことがない紋様が刻印されていますわ」
「"レナクシアコイン"だ。名君と名高かったボーフォート二世の時代のものだな。今から六百年も前の話だ」
エーリカが持ち出した金貨を、ガイウスがすかさずそう鑑定する。
その様はまるで本職のようであり、持ち込んだジャスパーすらも驚愕の眼差しを向けていた。
「……よくそんなもの見ただけで分かりますわね。あなた、古物商になったほうがいいんじゃないかしら?」
「血に不自由せんのならばそれでも良かったかもな。我はその時代を知っておるから分かるだけのこと。お前たち短命種の物差しで測るな」
「いやあ、旦那のその目利きは羨ましいよ。俺っちでも未だに偽物掴まされる時があんのに、その目があればどれだけ儲かるかねえ」
ジャスパーはいつの間にか普段の口調に戻り、ソファにもたれながら軽口を叩く。
「しかし……恐るるべきはゾディアック様ですわね。一体こんなもの、どうやって海の底から引き上げたというのでしょう」
エーリカは戦慄しながら、フジツボの付いた宝飾品を見やる。
「あの御方ならそれぐらいはするだろう。何せこの我を下し臣従させたほどだ。そのお力は未だ測り知れん」
「……私は、今最も警戒すべきなのは帝国ではなくゾディアック様のような気がしてきましたわ。もしそのような方がロムールに牙を向いたら、我が国は国体を保つことが出来るのでしょうか?」
エーリカの危惧に、ガイウスはふっ、と鼻で笑う。
「ロムールどころか、その気になれば帝国すら自力で壊滅させられるようなお方だ。天災と一緒で、警戒してどうにかなるようなものではない。……だが、安心しろ。あの御方は森の亜人どもの庇護者であらせられる。お前が正気を失ってあそこに攻め込んだりしなければ、あの方と対峙する事はありえんよ」
「それでしたら良いのですが……」
エーリカはそう答える。
「そうですぜ、お姫様。あの方が出鱈目なのは今更です。詮索するだけ野暮ってなモンですよ。……ところで、こちらは買い取って頂けるんで?」
大きな商談を纏めて気が抜けたのか、ジャスパーはすっかりいつもの口調でそう尋ねる。
「そうですわね……歴史的な遺物も多く含まれていることですし。これらは合計金貨五百枚で引き取らせて頂こうかしら」
「それで良うございます。では早速代金の方を……」
ジャスパーはそれにあっさり同意する。
これでも相場よりかなり安い値段だが、先程の教皇の王笏でかなり分捕ったので、これぐらいは安く売っても構わないと判断した。
商売人としては相手に損ばかりさせるより、ある程度妥協し合って長く関係を続ける方が良いと判断したからである。
――しかしエーリカはあろうことか、そのままテーブルの上の宝を接収してしまう。
「ではこちらの分は、そちらが購入される小麦の代金と引き換えということで……」
「い、いやいや姫様、そんな殺生な話はないでしょう! 小麦五十袋が金貨五百枚相当だなんて、そんな法外な……!」
ジャスパーは慌ててそれを引き止める。
しかしエーリカはそれにニコリとした笑顔で言い返す。
「あら、そちらが購入されるのは小麦"五百袋"でしょう? まさか私に"五万枚"もの金貨を払わせておいて、そちらが高々五十袋の小麦の買い物だけで済ませようだなんて、そんな虫の良い話はありませんわよね?」
先程やり込められたのがよほど腹に据えかねているのか、笑顔ながらエーリカの額には青筋が立っていた。
「いやしかしそれは……そんなに頂いても運ぶ手段もありませんし……」
「あら、なら馬車を何台かお貸しいたしましょう。穀物は戦略物資としていくら蓄えがあっても困らぬもの。ゾディアック様も多少余分に買ったところで許して下さいますわ」
「い、いや、余分どころの騒ぎじゃ……ちょ、ガイウスの旦那、仲間なんだから助けてくれよ!」
「我は大使として会談の場を設けよと申し付けられただけで、商談の味方をせよとは言われてはおらん。いわば中立の立場だ。まあ精々頑張ることだな。こいつはこうなるとしつこいぞ」
ガイウスは我関せずとばかりに肩を竦める。
しばらく護衛として過ごす内に、ガイウスはエーリカの負けず嫌いさというのを骨身に染みて実感していた。
以前執務の間の手慰みに、"シャトランジ"というチェスのようなボードゲームでエーリカの相手を務めた事があった。
その際に当然圧倒的な経験の差から、ガイウスが圧勝していたのだが、エーリカはそれでは引き下がらず、そこから五時間も粘って延々相手をさせられ続けたのだ。
その日は侍女のストップがかかり終わったもの、そこから一週間ずっと、執務の合間にシャトランジの猛攻が続けられた。
流石にうんざりしたガイウスがわざと負けてやると、エーリカは「私の勝ちですね!」と一方的に宣言したあと、その後一切彼女がシャトランジをすることはなかった。
とりあえず"勝つまでやり続ける"というのがエーリカのスタンスなので、相手をさせられたものはたまったものではなかった。
「馬車をお貸しするのですからもう少し品物を詰められるのではありませんか? ここに我が国の産物である砂糖と綿花も加えて頂いて……」
「い、いやいや……まだ買うとは一言も言ってませんから! そのように押し付けられましても困ると申しますか……」
「しかし我が国の産物は質が良いと近隣諸国でも評判です。値段以上の価値はあるのでは?」
「そういう問題じゃ……」
まさかここから交渉の本番が始まるとは思わず、すっかり気を抜いていたジャスパーは、完全にエーリカにペースを握られてしまった。
結局そこから四時間ほど粘られ、馬車の中に小麦四百袋、そして綿花五十袋に砂糖二十袋と、たっぷり品物を積んでおめおめと持ち帰る羽目になった。
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