第58話 ティグリス川の戦い


 ロムール王国第一王女、エーリカ・フィン・ロムールは焦れていた。


 ここティグリス川を挟んで、もう既に一週間ほど敵と睨み合っていたからだ。


 帝国が北岸側に陣地を築いて以降、ロムール国民に安眠の日は一日たりとも訪れなかった。


 敵方の軍事要塞"バルバトス"は堅牢であり、生半可な兵力で落ちるようなものではない。


 そこから絶え間なく補給を受けながら、帝国は一万超の兵力を対岸の陣地に集めていた。


 片やこちらは五千ほど。


 ロムール本土に残存する兵力一万は防衛のため動かすわけにはいかず、前線に出せるのはこの兵数が限界であった。


 そんな心許ない戦力のまま、敵陣と睨み合いを続けている。


 「……やっこさんら、どうもこちらを疲れさせる作戦のようですなあ。こんな雨続きの中を倍以上の兵数と睨み合っていたら、どんな屈強な兵士でも精神が参ってしまいますわい。軍靴の中も湿って水虫になってきますしのう」


 そう飄々とした態度で敵陣地を眺める白髪交じりの男は、"ハルパレオス"と言った。


 ロムールの中でも数少ない実戦経験のある宿将であり、二十年前に帝国の手によって滅亡した"レナクシア王国"の元将軍でもあった。


 帝国の追っ手から逃れるために逃げ込んだロムールで、十年前より士官し今は客将として雇われていた。


 敗軍の将ながらも寡兵で帝国の侵攻を三度退けた名将と名高く、その戦の時に受けた刀傷から"隻眼のハルパレオス"として知られていた。


 齢六十を過ぎても、その眼光は未だに衰えを知らなかった。


 「こちらから打って出ることは出来ないのでしょうか、ハルパレオス様。このままでは戦わずして兵が消耗してしまいます……」


 エーリカは言う。


 「難しいでしょうなあ。ただでさえこちらは兵数で劣る上に兵の質もあちらが上です。しかも、この長雨で増水した川を渡るには相応の犠牲が出るでしょう。あれを乗り越えてから帝国と戦うというのは現実的ではありませんな」


 「くっ……」

 

 何も打つ手がないことにエーリカは悔しそうに歯噛みする。


 ティグリス川を対岸と繋ぐ橋は、以前は存在していたが帝国との対立が決定的になった際に、その橋はロムール側から落としている。


 今、その二国間を隔てるティグリス川は怒涛のごとく増水しており、甲冑を付けた兵士が泳いで渡るなど不可能と言ってよかった。


 「しかし……今はこの川を渡れぬことなど帝国側も百も承知のはず。一体なぜ雨期にあんな川辺で大規模な陣を築いたのか…………まさか!?」


 そうハルパレオスが何かに気付いた瞬間――


 「火事だ!!」


 どこからともなくそう声が上がると同時に、ロムール側の陣地の後方から火の手が上がる。

 

 大量の油を使っているのだろう。火の手は雨の中もお構いなしに燃え上がり、隣のテントを巻き込んでいく。


 「何があったのですか!?」


 エーリカは伝令で走り回る兵士の一人に尋ねる。


 「分かりませんっ! 急に食料庫が爆発して燃え上がって……」


 「姫様! 味方に裏切り者がおりますぞ! あまりお一人になられますなッ!」


 ハルパレオスは、慌ててエーリカをその背に庇いながら、兵士たちに消火の指示を出す。


 「ああっ!」


 ――そして、対岸の帝国側の陣地を見たエーリカは、思わず声を上げた。


 そこには、高く巨大な梯子を掲げた押し車が、ティグリス川の向こう岸にいくつも並んでいたからだ。


 梯子の高さは二十メートルを越え、川幅の狭いところなら、すっぽり対岸まで収まる長さをしている。


 そして対岸から、その梯子をゆっくりこちら側に下ろしてくるのが見えた。

 

 「……! まずい! あれを伝ってこちら側に渡って来るつもりか!」


 ハルパレオスは焦った声を上げる。


 今、自陣の消火活動と、入り込んだ間者の炙り出しだけで手一杯である。


 その上対岸から帝国兵が襲ってきたら、今の状況ではまともな戦いにすらならなかった。


 帝国は睨み合っている最中に、ロムール側の背後に少数の間者を潜り込ませ、破壊活動サボタージュを行って混乱を引き起こした。


 そして、事前に用意していた"橋車"と呼ばれる兵器を使用して、簡易ではあるが川を渡る橋を作り上げてしまったのである。


 ズズン、と地響きのような音とともに、対岸に橋が渡される。


 何基かはその衝撃で壊れてしまったようだが、その半分は渡すことに成功し、そこを伝って帝国兵がこちら側へと渡って来ていた。


 「ハルパレオス様! 一体どうすれば!?」


 「姫様……かくなる上はこの陣地を放棄して本土まで撤退するしかありませぬ。今陣内に敵が何人いるかも分からぬ状況で、帝国兵を迎え討つのは危険すぎます。わしは王より、姫様の身柄を第一に考えるよう仰せつかっておりますので」

 

 「そんな……!」


 いたずらに負け戦を長引かせて、兵の犠牲を増やす将よりも、ハルパレオスの撤退の決断は素早かった。


 しかし、このティグリス川を突破されてはロムールは孤立し、城壁内に籠城するしかなくなる。


 ロムールは豊かな土地であり、穀倉の中には大量の食糧が備蓄されている。


 しかし籠城となると小麦畑なども全て放棄することとなり、食糧の供給が絶たれてしまう。


 あとはジリジリと国力を衰退させ、最後には滅亡か、隷属を選ぶしか道は残されていなかった。


 「待って下さい! まだ……戦況を立て直せる可能性はあります! もしかしたら援軍が……」


 「姫様……御免!」


 ハルパレオスはそう言うと、エーリカを抱えて無理やり馬に乗せる。


 そして、近くにいた信頼できる顔見知りの兵を呼び寄せてから、命令を下した。


 「お前は姫様を連れてロムール城に直ちに帰還せよ! わしはここで少しでも帝国兵どもの追撃の足を鈍らせる! ……早く行けッ!!」


 「はっ! 了解しました!」


 兵士はそう返事をすると、すぐさま馬を走らせる。


 「ハルパレオス様、待って下さい! まだ諦めるには!」


 「姫様、舌を噛みますよ! 少しお静かに!」


 そう兵士に抑えつけられながら、エーリカは戦場が遠ざかる様を悔しげに見送る。


 (ゾディアック……! 何をやっているの! 今この時以外に、参戦する時は無いでしょう!?)


 そう心中で怒りを露わにするも、どことなく諦めの境地にも達していた。


 (……いえ、そうね。元々、信用出来るような相手じゃなかったわ。なんの取り決めもしてもいなければ、なんの対価も払ってないのに、帝国相手に私たちと共に戦ってくれるだなんて、そんな都合のいい存在がいるはずがないもの)


 エーリカはそう自身の中で結論付けたあと、ロムールの未来を憂い、目を瞑る。


 しかし、その時――


 「ピイイィィィィ――――!!」


 この曇り空の最中にも空高くまで、甲高い鳥の音が唐突に響き渡る。


 一瞬にして戦場が静まり返り、敵も味方も忘れて、その場の全員が空を見上げた。


 するとそこには――V字型に編隊を組んだ鳥人ハーピィたちが百体ほど、魔性の森上空より、戦場の空に向かって飛んできている所であった。


 その高さは百メートルにものぼり、矢も投げ槍も届かない。


 そんな人間には不可抗力の高さから、鳥人ハーピィたちは帝国軍の陣地の上空を目指し――そして、通り過ぎざまに何か小さな箱を落とした。


 その箱が、大地に触れた瞬間――


 

 「!?」



 ドン!! と地鳴りのような音と同時に大地が爆ぜる。


 敵陣地は一発でその防衛能力を失い、中に留まっていた千を超える兵士たちは、何が起こったかも分からぬまま、瓦礫と泥と混ぜ合わされて、永遠に意識を失った。


 「ピィィィィーーーーッ!!」


 そして、再び甲高い音色を響かせたあと、鳥人ハーピィたちは颯爽と翼を翻し帰っていく。


 「――イヤアァァァァァッ!!」


 そして、それと入れ替わるように、魔性の森から怒涛のごとく、亜人たちの軍勢が襲い掛かる。


 「一番槍……モラッ、タ!!」


 先陣は、そう舌なめずりする、ゲル=ダ率いる竜騎兵部隊だった。


 蜥蜴人リザードマンたちは元々、森に住む"走竜ラプトル"という大型の爬虫類を家畜化しており、戦の時はそれを馬のように操って戦うことを得意としていた。


 その数は八百騎にものぼり、混乱した帝国兵の横っ腹を引き裂くのに、十分な突破力を有していた。


 「トカゲどもに遅れを取るなァッ!! 帝国兵どもを皆殺しにしろォー!!」


 そしてそれに続くのは、ジャガラール率いる獣人ライカンの大部隊であり、その数は三千にも及んだ。


 元々個々の戦闘能力が高く、しかも数も多い獣人ライカンたちは、鳥人ハーピィの爆撃と、蜥蜴人リザードマンの突進が崩壊させた敵陣の兵士を、殲滅する主力部隊だった。


 軽装だが素早い獣人ライカンたちに、混乱した人間の兵士たちの攻撃は当たらず、一方的にその数を減らしていく。


 「なんだ、あれは……!?」


 エーリカを帰還させる任務を言い渡された兵士は、背後で急激に動きつつある情勢に思わずその足を止める。


 しかしエーリカだけは、何が起きているか理解出来ていた。


 (ゾディアック……本当に来てくれたのですね!)


 そう事態を把握すると同時に、エーリカは即座に思考を切り替える。


 「命令です! そこの貴方、今すぐ私を連れて戦場へと引き返しなさい!」


 「えっ、いやしかし、それでは将軍閣下からのご命令が……」


 突如そう命令されて、兵士の男は動揺する。


 「あなたには、あの光景が見えないのですか!? 亜人たちの襲撃により、帝国側の陣地は破壊され、今や大混乱に陥っています! 今この場において帝国を退ける好機はないのです! 私たちの手で、未来を切り開く時が来たのです!」


 「…………!」


 そのエーリカの気迫に圧倒されて、兵士は思わず黙り込む。


 しかしやがて、覚悟を決めたのか、兵士は大きく息を吐いてから馬を翻した。


 「姫様……分かりました。どうかしっかりお掴まりのほどを!」


 そう言って、兵士は命令とは逆の方向に馬を走らせる。


 その生まれ持った王気というべきカリスマ性で兵士を従えながら、エーリカは再び戦場へと舞い戻る。


 戦況は既に混迷を極め、急な乱入者によって、情勢は一気にロムール側へと傾きつつあった。


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