第56話 最後の訓練


 「うぐっ!」


 洗面所に胃の中の内容物を吐き戻す。


 元々食事をほとんど必要としないダンにとって、最低限の栄養補給以外で食事を摂ることはあまりなかった。


 だが、精神衛生上の娯楽として食事を摂ることはあった。


 そんな希少な食事をほとんど吐き戻してしまう。


 料理が得意だと言って、訓練を受ける前のカイラが楽しそうに作ってくれた朝食が、ほとんど未消化のまま排水口に流されていった。


 ダンの電子頭脳には本来、敵兵に対して一切同情心を抱かぬよう冷徹な思考がプログラムされている。


 戦闘となれば、たとえ相手が泣いて命乞いしようと無感情に頭を撃ち抜くことが出来る。


 しかし、それはあくまで敵兵に対してであり、それ以外にはちゃんと人の心を持ち合わせている。

 

 特に個人的に好ましい人物だと思っているカイラに対して責め苦を負わせるのは、ダンにとって自分自身に拷問をかけているに等しかった。


 カイラの泣き顔を思い出すたびに、ダンはPTSDのように強烈な吐き気と自己嫌悪感に苛まれる。


 だが、それを決して表には出すことはない。訓練教官が相手に弱みを見せることは決して許されない。


 「……乗りかかった船だ。最後までやり遂げようじゃないか」


 鏡に向かってそう呟いたあと、ダンは再び冷酷な悪魔の仮面を被った。



 * * *



 「貴様のような使えないやつは初めてだ! 訓練を台無しにするつもりか!? 私を不快にするためだけに産まれてきたのか貴様は!」


 「…………」


 今日も罵声が響き渡る。


 例によって、一番遅れているカイラに対してのものである。


 既に走るペースは歩く速さとそう変わらないものとなり、オーガ族の男たちはほとんど息を切らせることもなく先を進んでいる。


 遅れているのは、もはやボロボロの状態で足取りもおぼつかないカイラのみであった。


 「す、すいませ……」


 「謝って許されようなどと思うな! 貴様のせいで全員が迷惑している! あるいは貴様が何も考えずにただの傀儡として生きれば、こんな厄介なことにならずに済んだと、ここにいる全員が思ってることだろうッ!!」


 「そ、それは……ぐすっ」


 今の頑張りを全否定されるようなことを言われて、カイラの目にじわりと涙が滲む。


 「貴様の余計な自我など誰も必要としていない! 血筋を繋ぐだけの置物として生きていれば誰の迷惑にもならずに済んだものを! 立派な長になりたいなど分不相応な夢を抱くから全員が不幸になるのだ! 今の状況は全て貴様のせいだ!!」


 「う、うぅぅ……!」


 再び、カイラは辛さと悔しさで泣き出してしまう。


 ダンのこれは演技だとは分かっている。自分に頼まれたから言っているだけで、本当はこんなことを言うのを嫌がっていたことも。


 しかし、それでなお言われた言葉が胸に突き刺さり、カイラはとうとう膝を折りそうになっていた。


 ――しかし、その時、


 「……いい加減にしろよ、クソ野郎」


 前を先行していたオーガ族の男たちが、ボソリと小さな声だが、はっきりとそう言ったのが聞こえた。


 「――全員、その場に停止!!」


 その瞬間、ダンは全体に号令をかける。


 途端、オーガ族の男たちはその場で足を止めたあと、やっちまった、と言わんばかりの顔でダンの方を見やる。


 ダンはそれを確認したあと、首根っこを掴んだカイラをその場に投げ捨てるように放置したあと、改めて先行していたオーガ族の男たちに向かっていく。


 その顔にギラリと加虐的な笑みを浮かべて、眼球を獰猛に血走らせながら、ゆっくりと男たちに近付いていった。


 「……何か聞こえたな? 貴様らの中に、私のすることに対して何か文句があるやつがいるようだ。今、この私に対して暴言を吐いた、恥知らずのクズは名乗り出ろッ!」


 「…………」


 そう凄むも、誰一人として口を開かない。


 ダンに対して直接物申す勇気はなくとも、反抗心はまだ失っていない。その目に静かな怒りの感情が見て取れた。


 二日続けてカイラに対する無体な行いを延々見せられて、さすがにオーガ族の男たちも我慢の限界を迎えていた。


 とても褒められた人格ではない彼らでも、流石に子供が拷問じみたことをやらされているのを見るのは、胸糞が悪く耐え難かったのだ。


 「……貴様らのその肛門のような口から出るのは汚い音だけか? よかろう、 ならば私が一人ずつ直接問い質してやろう! 貴様か?」


 「ぐっ……!」


 ダンはまず、手近に居た男の髪を掴んで、その耳元で叫ぶ。


 「貴様の腐った脳味噌にも伝わるよう直接響かせてやるッ!! 先程私に対して、無礼な口を聞いたのは貴様か? 三秒以内に答えろッ!」


 「知らねえよ、くそっ……ぐあっ!」


 「役立たずがッ! そこで這いつくばって土でも舐めていろ!」


 その答えを聞いた瞬間、ダンはその男の腹に膝を突き入れて、地べたに転がして顔を踏みつける。


 そしてすぐに次の質問対象に向かっていく。


 「先ほど私に対してふざけた口を聞いたのは貴様だな? 言わなくても分かるぞ、貴様は如何にも卑しい汚い鼠のような顔をしている! 母親は誰だ? 貴様はドブネズミとウジ虫が交尾して出来た残りカスだろう!」


 「……くたばれ、クソ野……うぐっ!!」


 そう全てを言い切る前に、ダンは男の顔面に鉄拳制裁を下す。


 相手の男は地べたに崩れ落ち、鼻血を出しながらもダンに対して怒りを露わにする。


 「貴様のようなカスがいるから私の面倒が無くならんのだ! 言っておくが、私は貴様らをどうにかして更正してやろうなどとは思っておらん! 貴様らのような世の中に害毒しか垂れ流さん害虫を、いたぶって楽しむのが私の楽しみなだけだ! 容赦はせんぞ!」


 ダンはそう言い放ったあと、全員に向かってこう続けた。


 「このまま誰も名乗り出ないのなら、貴様ら全員に私が直々に制裁してやる。仲間思いの同胞を持って幸せだろう? 貴様らの仲間の誰かが卑怯者なせいで、余計な苦痛を背負うことになったのだからな」


 「……い、言ったのは俺だ! 他の仲間は関係ねえ!」


 ダンの言葉に、一人の男が震えながら手を挙げて出てくる。


 「……かなり遅れて名乗り出ておいて今更英雄様気取りか? だが正直なのは褒めてやろう。先程の貴様の口から垂れ流したクソは一体どういうつもりだ? 私の目を見て言ってみろッ!!」


 「…………」


 その男は、一瞬ダンの気迫に気圧されて目を逸らす。


 これまで散々殴られ、罵倒され、貶められたトラウマから、上手く目を見返すことすら出来なくなっていた。


 しかしやがて――意を決したのか、男は声を震わせながらも言い返した。


 「が、餓鬼相手にギャーギャー喚き散らしやがって! てめえみてえなイカれたクソ野郎は見たことねえって、そう言ってやったんだ! ざまあみろッ!!」


 「――ほう?」


 「ぐえっ!」


 その瞬間、ダンは即座にその男にボディブローを突き入れ、昏倒させる。


 そして、その男の髪を掴んで引きずりまわし、全員を見回しながら言った。


 「なかなか面白いことを言うじゃないか。貴様らもこのクズと同意見か?」


 「…………」


 ダンがそう尋ねると、誰一人答えず黙り込む。


 しかしその目には、義憤に駆られたような静かな怒りがありありと宿っていた。


 「……なんだその目は? 貴様らだってこの餓鬼をいいように食い物にしていた側だろう! 今更自分たちが正しいつもりか? この薄汚い偽善者どもめ!」


 ダンはそう言うと、息を切らせてその場に突っ伏するカイラの体の上に足を置く。


 「あうっ!」


 「貴様らがやっていたのはこういうことだ! 自分の楽しみのために、幼い子供を踏みにじって欲望を満たす! 自分たちがこれまでやっていたことを見せ付けられて、今更義侠心に目覚めたとでも言うつもりか? 私がやっていることと、貴様らがやってきたことの一体何が違う!」


 「…………!」


 ダンの指摘に、オーガ族の男たちは渋い顔で言葉に詰まる。


 悔しくとも、ダンの言葉に言い返せる者はいなかった。


 自分たちだって、これまでカイラを散々に利用して実権を握り、郷の財産を食い潰して悠々自適な暮らしを営んできた側だった。


 中には自分たちの方針に反発する連中もいたが、そういう奴らにはカイラの身柄を人質にして、無理やり言うことを聞かせたりしていた。


 それだけのことをやってきた自分たちが、今更カイラが泣き喚いているところを見て同情したなどと、白々しいことこの上なかった。


 「私がやっていることを今更貴様らにどうこう言われる筋合いはない! 貴様らクズどもは私の玩具だ。ガタガタくだらないことを喚いてないでさっさと走り始めろ! 私はこの役立たずの餓鬼を躾けてからいく。勝手に休んでいたりなどしていたら痛い目にあわせるぞッ!!」


 「う、うう……!」


 そう無理やりカイラを立たせるダンを見て、オーガ族の男たちは悔しさから手に爪を食い込ませて、唇を噛みしめる。


 確かに自分たちはクズだった。今のこの苦しんでいる状況も、自分たちが蒔いた種なのかも知れない。


 こんな自分たちが、今更どの面を下げてカイラのことを心配しているのか分からない。


 だが――


 「早く立て、このグズがッ! いつまで私の手を煩わせるつもりだ?」


 「ご、ごめんなさい……」


 そう再びダンに責められるカイラを見ていると、どうしても抑えきれない怒りが沸き上がり、自分たちの中で、プツン、と何かが切れたような気がした。


 「……俺等だって、そこまで墜ちちゃいねーんだよコラァッ!!」


 「てめーいい加減にしろよ! ブッ殺してやる!」


 「オーガ族を舐めんじゃねえッ!!」


 そう言うや否や、オーガ族の男たちはダンに一斉に襲い掛かる。


 これまで散々殴られ、いたぶられてきた恨みも相まって、オーガ族たちは普段より怒りで大幅に力を増していた。


 ――しかしダンは、それを容赦なく迎撃して殴り飛ばす。


 「ぐっ!」


 「……遅すぎる! そんなことで私を止められると思っているのか? 気持ちだけでは何も変わらんな。貴様らはこれからも腐って管を巻くことしかできんカスのままだ!」


 「……クソがぁ!」


 オーガ族の男たちは、もはや恐怖すらも忘れて、一致団結してダンへと立ち向かう。


 雨の中泥まみれになりながら、殴られてもなりふり構わず突っ込んでいく。


 しかし、数が集まったところで無策でダンに対抗することが出来るはずもなく、何度も向かっては叩き潰され、地べたを転がされていた。


 十数人の鬼族の男衆が集まっても、電子頭脳で攻撃の軌道予測をしているダンには、まともに一撃すら入れることが出来ない。


 当たれば強いオーガ族の剛腕も、当たらなければなんの意味もなかった。


 「工夫もなければ知恵もない、力の差も理解できん馬鹿どもめ! 貴様らのそれは勇気ではない! ただ身の程知らずなだけだ!」


 ダンはそう言って、また一人オーガ族の一人を蹴り飛ばす。


 さすがにダメージを受け過ぎたのか、男たちの猛攻も途切れ途切れになり、ほとんどがボロボロの状態で息を荒げるだけになっていた。


 一方ダンはというと、無傷のまま悠然とその様子を見渡しながら言った。


 「逆らった見せしめに、誰か一人ぐらい始末すればクズな貴様らでも少しは従順になるか? 死人が出たほうが貴様らも緊張感から訓練に身が入るというものだろう!」


 「なっ……!?」


 ダンは近くに倒れていたオーガ族の男の首を掴み、片手でギリギリと締め上げる。


 優に体重は百キロを超えていそうな大男揃いのオーガ族が、片手で軽々と持ち上げられ、首を締め上げられながら足をバタつかせている。


 その異様な光景に、鬼族の男たちはぎょっとした。


 「お、おい……!」


 「やめろコラッ!」


 「やめてくれ、マジで死んじまうッ!」


 その行動に鬼族たちは青ざめた顔で声を荒げるも、さきほどダンに殴られたダメージで誰もまともに動けない。


 その間にも、ダンは構わずミシミシと腕に力を込めていく。


 もちろん、殺すつもりはなく、ギリギリまで追い込んでから手を離すつもりであった。


 ここまでやることによって、オーガ族に対してこのままでは駄目だという危機感を植え付け、派閥を越えた結束を生み出すことが目的だった。


 そのためには、ダンが絶対的な暴君として君臨し、怒りの矛先を一身に引き受ける必要があった。


 しかし、その時――


 「や、やめてくださいっ!」


 ダンの足元に、カイラが縋り付いて必死に止めようとする。


 カイラには、ダンが一体どういうつもりでこんなことをしているのかなどの思惑は一切伝えていない。


 本当に、ダンが同胞を殺そうとしていると思い込んでいた。


 「お、お願いいたします! み、皆がお気に障ったのでしたら謝ります! 私が代わりに罰を受けますから、どうか離してあげて下さい!」


 「……ほう? いい度胸だ」


 ダンは締め上げていた男から投げ捨てるように手を離し、代わりにカイラの胸ぐらを掴み上げる。


 「飾り物でも長としての矜持のつもりか? こいつらは貴様を利用して郷の実権を奪い、好き勝手に振る舞っていたようなクズだ。庇って救ったところで、また同じことを繰り返すだけだぞ?」


 「そ、それでも仲間なんです……! こ、殺されそうになっているのに見捨てることなんて出来ません!」


 「仲間? こいつらが欲しているのは貴様の血筋だけだ! 貴様を仲間などとは思っていない! 自分を虐げていた連中の代わりに痛い目にあいたいなどと、貴様はマヌケを通り越した大馬鹿だな!」


 「み、皆、御爺様やお父様、伯父上様がいっぺんに亡くなって、不安だっただけなんです! 私がもっと小さい頃には、一緒に遊んでくれた人もいました。同族同士の争いでおかしくなってしまっただけで、本当はいい人たちなんですっ!」


 「…………!」


 カイラの言葉に男たちは、幼い子供に庇われている今の自分たちの、余りの情けなさにむせび泣く。


 『なんでこんなことになってしまったんだろう』


 今、彼らの心中にはそんな後悔の念ばかりが沸き上がっていた。


 先代の長がまだ生きていた頃は、郷の者たちは皆一つに纏まって仲良く暮らしていた。


 『オーガの郷は皆家族のようなものだ』


 とそう口癖のように呟くゲンラの元、慎ましくも平和な暮らしを営んでいたのだ。


 当時カイラはまだ五歳ほどでしかなく、お嬢、お嬢、と皆から大切に可愛がられて暮らしていた。


 その幸せな記憶から、カイラは裏切られ、酷い扱いを受けても、どうしても皆を嫌いになれなかったのだ。


 ――そしてオーガ族たちも、その時の記憶をカイラの健気な姿を通して思い出しつつあった。


 「随分とおめでたい奴だな。ならば望み通り、他のやつに代わり、貴様に罰を与えてやる! 歯を食いしばれッ!」


 「…………!」


 カイラが怯えた顔で目を瞑った、その時――


 「や、やめてくれぇ! 後生だ、お嬢にだけはもう何もしないでくれっ!」


 「お願いいたします! そのお方が死んじまったら、俺たちは本物のどうしようもねえクズになっちまう……」


 「先代に顔向けできねえ……どうして俺らはこんな風になっちまったんだ」


 オーガ族の男たちは、ついに地べたに頭を擦り付けて懇願し始めた。


 もはや徒党を組んで全員で襲いかかっても、ダンに勝てないことは分かりきっていた。


 ならばカイラを助けるには、ダンに懇願して情けを乞う以外にやりようがなかったのだ。


 「みんな……」 


 その光景を見て、カイラは涙を滲ませながらも、嬉しそうに口元を綻ばせる。


 ここに至ってようやく、これまで自分がやってきたことに向き合い始め、罪を償う準備が出来た。


 ダンに延々責め続けられるよりも、カイラに必死に庇われる方が何倍も精神的に堪えたのだ。


 ダンはそれを確認して、無言でカイラを降ろしたあと、ゆっくりとした足取りでオーガ族たちに近付いていく。


 そして、恐怖で緊張した顔で男たちに鋭い視線を向けたまま、ダンは言い放った。


 「――本日でこの訓練は修了とする! 各自部屋に戻り、明日に備え早めの休息を取るように」


 「……えっ?」


 何を言われたのか理解出来ず、キョトンとする男たちを他所に、ダンはカイラを連れてその場から立ち去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る