第13話 命日

 ナナシは自ら、いままでのことを語った。

「私に、話して良かったんですか?」

「あんたは、幸平が確かに存在したことを知っている。それが嬉しかったのさ」

 ナナシはそう言い残して、町中に溶け込むように消えてしまった。


 今日は8月31日。

 2年前に転落事故のあった日であり、本物の井出野輝喜の命日でもある。

 いまある転落事故現場の花束は、ナナシの置いたものだった。ただ、去年はそれと別に、もう1つ花束が置かれていたという。

 輝喜が……いや、幸平が、去年は来ていたのかもしれない。だとしたら、今年も……。


 本物の輝喜には、何があったのだろう?

 幸平が、輝喜として生きていくことを決めたのなら、警備員時代の写真を持っていた理由がわからない。

 あの写真から、自分の本当の名前がバレるかもしれない(実際にわかった)のに。

 それは、やはり本物の輝喜に対する申し訳なさからなのか。


 他に行くあてもなく、私は転落現場で立ち尽くしていた。

 ここに幸平が来るとすれば、今日しかない。

 現在、昼を少し過ぎたところ。

 あと、どれくらい待てば会えるのだろう。いや、そもそも来ない可能性のほうが高い。

 なのに私は、他に良い方法が思いつかないでいた。


 そして、11時間と42分が過ぎた。

 9月1日が、そこまで来ている。

 ほとんど明かりのない転落現場の向かい側に、私は座り込んでいた。

 左膝が痛みはじめたのだ。

 骨はワイヤーやボルトで固定されていたが、まだくっついてはいない。この痛み方だと、たぶん傷口から出血しているだろう。

 確かめるには、ズボンを下ろして、装具を外す必要があるから、ここで見ることは出来ない。まあ、確かめたところで、血だらけになっている膝を、直接見るだけのこと。

 そして、見たからといって、どうすることも出来ない。

 今日は退院してから一番歩いた。まだ暑いので、かなり汗もかいたし、化膿もしていると思う。

 なんで、こんなに頑張っているのか、自分でも不思議なくらいだ。

 最初は巻き込まれて、仕方なくやっていたはずなのに。

 仕事が出来なくなり、体はケガが治っていない最悪の状況。他にやることがなかったとも言えた。

 この2日間は、他人の過去を知る旅のようにも感じる。

 他人の過去を知る度に、自分と比べてしまっていた。そして、自分より不幸な点を見つけると、そこに安堵している自分がいて、たまらなく嫌な気持ちになる。

 でも、この謎を解く旅が終わりを告げたとき、何かが変わるような気もしていた。

 良い方向か、悪い方向かは、まだわからないけれど。

「えっ?」

 一瞬目の前が白くなり、わけがわからず混乱した。が、次の瞬間には、元の暗闇が訪れる。

 視力が一時的に落ちたような感覚。

 すぐに、暗闇で光が当たった時の状態だと気がついた。

 どこから、光が当てられたのか?

 光源は上方からだ。

 私は転落のあったマンションを見上げた。

 屋上付近で、光源が動いている!

 誰かが屋上にいて、何かを探し、ライトのような物を使っていた。

「誰か……いる」

 我に返ると、すぐに立ち上がった。

「痛!」

 左膝に刺すような痛みがした。勢いよく立ったせいだ。

 大丈夫、まだ歩ける。

 マンションの階段を一段づつ、右足を先に上げ、後から左足を引き上げる方法でのぼった。

「そういえば、屋上は鍵が掛かっていた筈だけど……」

 昼間に閉じていた屋上の扉は、開いていた。

 よく見ると、鍵穴に引っ掻いたような傷が、いくつも入っている。ドライバーか何かで、強引に開けたのか。

 開け放たれた扉の向こうには、薄暗い屋上が広がっていた。

 この付近では高い建物がほとんど無い為、夜空の光以外の明かりは、あまり届いていない。

 そこには、背の高い男の姿があった。


 私と幸平は似ている。

 彼は世の中に、歓迎されていない人間だった。

 特に両親には、必要とされていなかった。

 私も、この世の中で、必要とはされていない人間だろう。たぶん。

 私が明日いなくなっても、世の中は普通に、何も無かったかのように、過ぎていくに違いない。

 芸能人や著名人が亡くなったり……いや、病気になっただけでも、ニュースになる。なのに私の母が肺がんになり、苦しみにのたうち回ろうと、世の中は通常と変わらなかった。

 世の中が必要としている者と、そうでない者との違い。


 東京を離れて1年。金原幸平は、どこで何をしていたのだろう。

 そして、この大阪の転落現場に戻ってきて、何をしようというのだろうか。


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