第9話 手話ポエム

 私の周りには、手話を使う人がいません。

 覚えたとしても、これから手話を使う予定は、特にありません。


 手話を覚えるより、もっと他の資格でも勉強したほうが、転職にも有利なのではないか。とか、そんなことが、たまに浮かぶようになりました。

 辞めようかと、思ったこともありましたが、なんだか気になるのです。それが何かと聞かれても困るのですが。

 かといって、情熱が蘇ることもありませんでした。

 新たな手話は、全く覚えていません。


 だからといって、何もしなかったわけでもありません。

 そのお陰(?)で、成果は出ていました。

 指文字は、リハビリだと自分に言い聞かせて、続けていたのです。

 その結果、何も見なくても、かなとアルファベットは出来るようになっていました。

 とはいえ、スピードも遅いし、連続して素早く表そうとすると、間違ってしまうこともわりとあります……。

 成果は、それくらいです。

 相変わらず、ろう者相手に使う機会も無く、モチベーションの下がった状態では、それが精一杯でした。


 そんなある日、ボンヤリとテレビを見ていた時のこと。

 テレビでは、手話の番組をやっていました。

 ろう者向けの番組に、ときおり出てくる年配の男性(ろう学校の先生)が、手話をなさっています。それには、字幕と声(後から入れた別の人の声)が付いていました。

 とても綺麗な手話を使うかたで、スピードも速すぎることなく、読み取りやすく、表情も豊かです。

 特に、その人が出るから見ていたのではありません。けれど、次第にその手話の動きから、目が離せなくなっていました。

 字幕や音声のおかげで、知らない手話を使われても、何を言っているかがわかります。

 けれど、字幕や音声が無く『知らない手話』でも、わかったのではないかと思えるほどの、表現力でした。


 その男性は笑顔を浮かべながら、これから『手話ポエム』をやると言いました。

 初めて聞く言葉です。

 ポエムのタイトルは覚えていません。が、その時の感情は、いまでも覚えています。

 ろう者の男性によって紡がれた手話は、次のようなものでした。


 暖かい陽射しの中、一匹のカエルが土の中から出て来ます。(冬眠していたようです)


 全身の土を拭い、ゆっくり歩きだすカエル。

 そこに雨が降ってきます。

 雨足は強くなり、風も吹いてくる。

 嵐です。

 激しい嵐の中を、どこかへ向かって、カエルはひたすら進みます。

 飛ばされそうになりながらも、懸命に。

 やがて嵐は去り、カエルは池を見つけます。

 満足したように池へ飛び込み、スイスイ泳ぐところで、手話ポエムは終わりました。


 正直いって、大した内容ではありません。

 なのに、とにかく表現がスゴイ!

 ゼスチャーのようなものも、たぶん含まれていると思うのですが、それらはキチンと手話から派生しているのです。

 言葉というよりは映像に近くて、けれどそれは言語でもあり、感情や勢いも表されています。

 見ていて没入感が、単なる会話から得られるものとは、明らかに別次元のものでした。


 手話で動かすのは、手や指だけではありません。

 表情や頷き、肩をすぼめたり張ったり、スピードを変えたり。

 そうしているうちに、周りの空気が変わっていきます。

 手話がわかれば、もっと違って感じていたのでしょう。

 歌のような、ダンスのような、ドラマのような表現。


 もっと手話がわかるようになってから、もう一度観てみたいと、心底思った瞬間でした。


✳ 手話ポエムは、表現者や表現内容により、全く印象が違う物になります。

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