第7話 よく知った見知らぬ家
電車に乗り、勝手知ったる最寄り駅に降りる。そこから、わたしは自分の『知らない』けれど『毎日通っている道』を進んでいた。
「良いところに住んでいるね」
とヒロさんに言われて「そのようですね」と答える。
変な答え方だけど仕方がない。それが、わたしの感想なんだから。
最寄りの駅から、歩いて15分の場所にある、白い2階建ての一軒家。
それが我が家だった。
もう一つの記憶では、借家に住んでいたので、どうにも違和感がある。
ただ間違い出ない証拠に、建物の表札には『白石』という文字が彫られていた。
きっと、借家に住んでいたのは、わたしが『ろう者』の世界なのだろう。
「ひょっとして、オヤツにケーキとか出て来たりする?」
ヒロさんが、わたしの隣で家を見上げながら言った。
ひとが真面目に考えているのに、少しは空気を読んでほしい。
「よく覚えていません」
苛立ち混じりに、わたしが答える。するとヒロさんは、心底残念そうな顔をして、こう言うのだった。
「そうかぁ。普通の日にケーキが出るなんて、絶対ドラマとかでしかないと思うよね?」
そんなこと、どうでも良い。
わたしは返事をせず、ポシェットから鍵を取り出した。
あっ、わたし鍵を持ってるんだ。
当然と言えば、当然か。
鍵は何の抵抗もなく、鍵穴へとすべり込み、アッサリとドアは開いた。
「ただいま」
わたしは1階の奥に向かって声を掛ける。
記憶の母は、アルバイトをしていた。けど、この時間はキッチンにいることが多い。
靴を急いで脱ぐと、キッチンへと向かった。
見慣れない、広いキッチン。
そこに母の姿はない。
記憶が、ここのものではなかったのか。理解が追いつかない。
「母さん、いないの?」
「ケーキがあったよ! ほら。でも、おかしいな。ケーキは、これ1つしかないんだけど」
とヒロさんの見せたケーキには、手紙が添えられていた。
『明日和ちゃんのオヤツです』
「君の名前は、
「うまっ! このケーキうまっ!」
ヒロさんがケーキを、ほおばっていた。
この人は、まったく……。
ガチャリ
玄関の方から、鍵を開ける小さな音がした。
母に違いない。
玄関へ向かう。
わたしの前でドアが開いて、母が現れた。
スーツ姿の母が!
わたしは生まれて1度も、母のスーツを着た姿なんて、見たことがなかった。
いま働いているのも、定食屋さんだし。
「あら、もう帰っていたのね」
「母さん、どうしたの?」
母は、わたしの質問の意味を勘違いしたようだった。
「大事な書類を忘れてしまって、取りに戻ったの。またすぐに出掛けないと。キッチンに置いたまま、忘れちゃって」
「キッチン。あっ!」
わたしはヒロさんがキッチンにいることを思いだした。
なんて説明したら良いのだろう。
母は慌てて、わたしの横をすり抜け、キッチンへとむかう。
わたしも慌てて、その後を追う。
「あった、あった」
母は書類の入った封筒を手にしていた。
キッチンにヒロさんの姿はない。
「どうしたの明日和。そんな恐い顔して」
母は、私にそう言った。
知子ではなく、確かに『明日和』と。
「明日和、顔色が悪いわよ」
母はそう言って、わたしの前髪を上げると、額に手をのせた。
今度は母の記憶が……母のわたしに関する記憶が、流れ込んできた。
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