第5話 四ノ宮琴乃

 四ノ宮琴乃しのみや ことのが、白石知子しらいし ともこと会ったのは、小学部(特別支援学校の小学生にあたる)3年の頃。

 その頃の知子は、重度の聴覚障害でありながら、手話はあまり出来ない状態だった。

 いくらか出来る手話は、日本語対応手話とホームサイン(その家庭で使われる独自の手形)のみ。

 これなら、全く出来ない方が良かったのではないかと、ろう学校の生徒のほとんどが思っていた。


 ろう学校で普段使われているのは、日本手話であり、日本手話ではなかった。

 日本手話と日本語対応手話は、似た部分がある『別の言語』と思って良い。それくらいに違っていた。

 一部のろう者からは、いくらかの悪意を込めて『聴者の手話』とも言われている。

 日本語対応手話を覚えると、日本手話を覚えるのに苦労すると、琴乃は聞いたことがあった。


 琴乃は、知子の力になろうと決意した。

 知子を一目見て、友達になりたいと思ったのだ。

『まるで、お人形さんみたい』

 それが知子に対する第一印象だった。

 

 知子が特別支援学校へ来るのは、週に2回だけ。しかも、決まって午後から。

 どうやら知子は、日本手話や口話を習いに来ているようで、勉強をしている姿は全く見なかった。

 琴乃は父親から、昔の『ろう学校』は手話を使わずに口話のみで授業をしていたときいた。そもそも教師が、手話を知らなかったのだ。その為ほとんどの生徒が、勉強について行けなかったらしい。

 知子の手話は、普通の会話が出来るレベルですらない。勉強についていくどころか、これでは友達すら出来ないのではないか。

 やはり自分が助けてあげなければと、琴乃は思うのだった。


 琴乃が知子を気にしていた理由は、もう一つある。それは、知子の両親が聴者(聞こえる人)だと、知ったからだ。

 琴乃の両親は、共に ろう者である。だから、日本手話も自然に覚えたし、ろう者にとって面倒な手続きや、特別なサービスがあることも知っている。

 新しい情報は、ろう者のコミュニティですぐに広がるが、知子の母親は『ろう者』が好きではないようだった。


 琴乃は、知子と友達になり、やがて外でも会うようになった。

 親友といっても良いのではいかと、琴乃は思っている。

 小学部、中学部と、知子が特別支援学校へ通うのは、やはり週2回だけだったが、驚くほどの上達で、日本手話と口話を身につけた。

 このまま、ずっと一緒だと琴乃は思っていた。同じ特別支援学校の高等部へと進み、就職は別かもしれないけれど、たまに会って一緒に遊びに行く。その関係は、きっと何才になっても続くに違いないと、琴乃は疑いもしなかった。


 中学部3年になり、進路を決める段階になり、琴乃は自分の考えが甘かったことに気づく。

 知子は、高校へ行くと、ごく当たり前のように、琴乃へ告げたのだ。

 琴乃は、ろう者が聴者の学校で、いかに苦労するかを話そうとしたが、結局は何も言えないで終わった。

 そう、知子が特別支援学校へ来ているのは、週2回だけで、それ以外はに通っていたのだから。

 知子と会うのが特別支援学校だったので、つい勘違いしていただけのことなのだが、ショックな事に変わりは無かった。


 知子は宣言していたとおり、一般の高校へと入学し、充実した学生生活を送っていた。

 たまの休みに、琴乃と一緒に遊びに出掛けたりもする。以前と変わらない……はずだ。

 しかし、琴乃にとって、知子は聴者の世界へ行ってしまった人。

 別世界の人になっていた。

 いまは、まだ違う。が、いずれは聴者の世界に溶け込み、琴乃のことも忘れてしまうのではないか?

 聴者と結婚して、ろう者の世界から離れるのではないか?

 そう、琴乃は考えてしまう。


 知子が聴者の世界に順応して、そこで幸せになり、なにより琴乃を忘れることを、許せない気持ちでいる自分に気がつく。

 琴乃は、そんな自分が恐ろしく醜く思えて、知子の前で上手く笑えない事に気がついた。

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