戸惑う心と決意 

 

 ローラの拝診が終わったことにより、部屋に残されたミレーユは、現実に引き戻されたかのような気分に陥っていた。


 そう、エミリアの来訪という事実に。


(あんなにも願っていたのに、なぜいまになってこんなに苦しく感じるのかしら……)


 あるべきものが、あるべきところへ収まる。それはとても素晴らしいことのはず。


 カインたちにも、これ以上嘘を重ねる必要はなくなったのだ。


 けっして、こんな暗澹たる気持ちをもつべきではない。


(そうよ。やっと偽りの日々が終わるのだから、もっと喜ぶべきだわ!)


 唇を引き締め、長椅子から立ち上がる。


「もう一度、エミリアのもとへ行きたいのですが」


 ナイルの代わりに付き添ってくれた女官にそう告げると、二つ返事で承諾してくれた。


 彼女は女官の総入れ替えの対象ではなかった数少ない一人だ。


 初日から傍らにいてくれたが、自分が偽者という引け目もあり、会話らしい会話はあまり交わすことがなかった。


 けれど、ルルにお菓子をくれたり、何かと世話を焼いてくれていたことは知っていた。


「ご案内いたします。どうぞこちらへ」

「ありがとうございます。――セナさん」

「⁉ いいえ、とんでもないことでございます。なんなりとお申し付けください」


 初めて名を呼ばせてもらうと、セナは驚いたように目を見開いた。


 もうすぐこの国を出る。

 彼女の名を呼べる機会も、もう二度と訪れないだろう。


 ならば、せめて後悔だけは残したくなかった。



 ❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.



「――――…あの日は、……名をお伝えせず――」


 広間といっていいほどの広さをもつ回廊を進んでいると、聞き覚えのある声が耳に入る。


 途切れ途切れではあるが、吹き抜けとなっている設計は声が通りやすい。思わず足を止め、下の階に視線を向ければ、その姿が目に入った。


「カイン様のもとへいち早く駆けつけたかったのですが、なにかと準備がありますでしょう。わたくしに羽があったならと、何度願ったことでしょう」


 エミリアだった。


 満面の笑みでカインの腕に絡みつき、瞳をうっとりと細めながら彼の耳元で何かを囁いている。


 踵を上げ振り仰ぐ仕草には、誰だって保護欲を感じずにはいられないだろう。

 俯くカインの表情はミレーユの位置からでは分からなかったが、見つめあう体勢の二人が目に入った瞬間、身体の熱が急激に下がり、鼓動は不規則に早鐘を打った。


 どんなに冷静さを保とうとしても叶わず、視線一つうまく合わせられなかった自分とは対照的に、エミリアはごく自然にカインに語りかけている。


 その姿は凡庸な自分とは違い、はるかに似合いの二人だった。


 ――――特別な存在は、ほんの一握り。


 自分が特別でないことは当たり前で。


 だからこそ、能力も容姿も強く欲したことはなかった。それが辛いと思ったことも。


 なのに、いまひどく胸が痛い。


(生まれてはじめてだわ。こんなにもエミリアのことを羨ましいと思ったのは……)


 自分でもままならない感情に耐えていると、ふいにカインが動く気配を察した。


 彼の手がエミリアに伸びる様を見たくなくて、とっさに身体が後退する。


「――ッ」

「ミレーユ様?!」


 気づけばミレーユはその場から逃げ出すように駆け出していた。






 もしかしたら、金糸をあしらったベールをもちあげられ、灼熱の瞳と目が合った瞬間から、それははじまっていたのかもしれない――――。


 どれほど走っただろうか。


 せわしなく上下する胸が限界を訴え、ミレーユはやっと足を止めた。


 ずっと、想う人がいた。

 たった一度だけの出会い。


 それでも、ミレーユにとっては大切な時間だった。


 一生、あの子のことを胸に秘めて生きていくのだと思った。


(どうして……。いままでずっと、ヴルム以外には誰にもこんな感情を抱かなかったじゃない)


 うまく会話ができなかったのは、彼が竜王という雲の上の存在で緊張したせいで。


 ときめいてしまったのは、きっとヴルムに似ていると思ったからで。


 それ以外の理由などない――――と、そう思いたかった。思っていたかった。


「ああ……私は、あの方が好きなのね」


 おおよそ高揚感とは程遠い、まるで懺悔する囚人のような気持ちで呟く。


 竜族の王は、すべての祝福を一身に受ける特別な存在。

 誰もが、彼を神の化身にふさわしいともてはやすだろう。


(私にとっても、特別な方になってしまったんだわ……)


 けれど、彼にとって自分は、愛する人の姉でしかない。

 自分では、けっして彼の特別にはなりえない。


(そうよ。恋い慕うことすらおこがましい。分をわきまえなさい!)


 ヴルムといい、カインといい、手が届かぬような相手ばかりを想っても、自分にはなにもないのだから。


 ルルのように貫く自己もなければ、ナイルのような洗練された強さもない。


 ドリスのような確固たる信念で職務を全うする度量も、ローラのような生を楽しむかのような余裕も。



(――――なにもない)



 皆が、己の力でつくりあげてきたもの。

 自信につながるもの。

 培ってきたもの。


 何もかもが、足りない。


 強く自分を信じられるほどの源がないのだ。


 足りないものばかり。

 足りないものだらけ。


「私は……空っぽだわ」


 何一つ満たそうとしてこなかった、空っぽのいれものなのだ。


 あるのは役に立たぬ〝できそこないの王女〟という肩書だけ。


 そんなことに、いまさら気づいてしまうとは。


(私は、ここでまたすべてを諦めて、国に戻って同じ日常をおくるのかしら……)


 目を閉じ、己の心と対峙する。


 いま、自分が一番しなければならないことはなんだろう。


 いままでずっと、優しい夢を見て、思い出に縋って生きてきた。


 けれど、それではだめなのだ。


 ミレーユは震える右手に左手を重ね、力強く前を向いた。


「――――ヴルムを、捜しに行こう」


 カインに惹かれているからこそ、彼に会ってこの気持ちに決着をつけたい。


 ヴルムのことは、いまもなお大切だ。彼との記憶があったからこそ、心を捻じ曲げずに生きてこられた。


(でも、キレイな思い出の中でだけで生きるのは、今日で終わりよ!)


 大人になったヴルムと再会することで、大切な思い出が崩れ去ることになるかもしれない。


 けれど、いまも想っていてほしいなどと甘えたことは言わない。望む言葉が貰えずともよい。


 結果ではなく、行動したいのだ。


 それができたなら、きっと自分の人生が始まる。


 ここから、動き出すのだ――――。


「ヴルムへの想いに決着をつけられたら、きっとカイン様のことも、同じように想いを風化できるはずよ……」


 カインとエミリア、想いあう二人の邪魔などできるはずもない。

 秘めた想いは、一生誰にも告げずに封印する。


「そのためにも、もっと強くなるわ」


 一度国に帰り、父に懇願しよう。


 もともとできそこないの烙印を押されていた身。


 偽りの花嫁としてドレイク国を謀った罪を、ミレーユに押し付けてくる可能性もある。


 ならば、追放という形で打ち捨ててもらおう。


 旅費は懇意にしている商会に頼み、自室にあるすべての刺繍を買い取ってもらい用意する。足りなければ、お針子として雇ってもらえぬか交渉してみよう。


 ルルが一緒に来てくれるというなら、そのときは連れて行く。もう、自分の勝手な判断で置いていったりはしない。


 心を決めてしまえば、道はいくらでも開ける気がした。


 常に自分を覆っていた厚く固い膜から抜け出たような心地に、身体すら軽く感じる。


 冷静さを取り戻したミレーユは、そこでやっと周りの景色に目を向けた。


「あら……ここ、どこかしら?」


 がむしゃらに走ったせいで、いつの間にか見知らぬ大広間に入り込んでいた。


 広い室内には、光り輝く大きなシャンデリアと、模様が色鮮やかな新緑色の絨毯。壁や円柱に細かく装飾された花紋は華やかで、目を見張るような豪勢な造り。


 しかし、この大広間には扉が一つしかなかった。


 目の前に、一つしか――――。


「私……、どこからこのお部屋に入ったのかしら?」


 扉の方へ歩いていこうとしていたのだから、この扉から入室したとは考えられない。


 しかし何度後ろを振り返っても、部屋を見回しても、扉は一つだけしか存在していなかった。


 まだ頭が混乱していて、勘違いしているだけだろうか?


 首を傾げていると、目の前の扉がひとりでに開いた。


「――!?」


 音もなく静かに開いた扉に、ミレーユは驚いて声を上げそうになる。


 慄きながらも恐る恐る扉の奥を窺えば、先には点在する明かりと長い回廊があった。


 この扉は、どこに繋がっているのだろう?


 ミレーユはゴクリと喉を鳴らすと、奥へと足を進めた。


 自分の足音だけが反響する回廊には、よく見ればいたるところに扉があった。


 最初は装飾された壁だと思っていたが、違う。それは取っ手のない扉だった。


 触れてみたいと一瞬思うも、なぜか自分が進むべき扉ではないような気がして、ミレーユはただ前へと歩くことに集中した。


 長い回廊の終わりは突然だった。視界が開け、差し込む光が目に眩しい。


 数秒をかけ、目が光に慣れると同時に辺りを見渡せば、そこは広く絢爛な大広間だった。


 さきほど通った大広間と同じ豪華な造り。しかし違う点が一つだけあった。


 部屋の奥中央に、大きな肖像画が掲げられていたのだ。


 緻密な深彫りが施された金色の額縁におさめられた、精緻な油彩。


 室内の豪華さに負けぬ見事な姿絵は、幼い少年を描いていた。


「――――え?」


 ゆっくりと視線をあげ、肖像画の顔を見た瞬間、ミレーユは息を呑む。


 七色の髪と、七色の瞳。

 そしてなにより、幼いながらも端整なその面立ちは――――。


「……ヴルム?」

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