価値観の相違 Ⅷ
ミレーユの去った園路を名残惜し気に見つめながら、カインはため息を吐く。
「始終気になって仕方ないんだが……」
気にするなと言われても、気にならないわけがない。
「思いに耽る前に、いま一度接近禁止がなんのために存在しているのかご説明してもよろしいでしょうか?」
憂う時間すら与えない慇懃に皮肉をまぶしたゼルギスの物言いに、カインは軽く謝罪する。
「悪い。ミレーユのことしか頭になかった」
「いっそ清々しいほど我欲に溢れたご理由で。執務室の片づけが終わるまでは、ナイルの小言を覚悟してくださいね」
先竜王の時代から、脱走とそれに伴う破壊には慣れているゼルギスの説教は短い。
その分ナイルの方は長引きそうだが、それよりも気になるのはミレーユのことだ。
「ゼルギス、グリレス国でのミレーユのことが知りたい。調べてくれ」
「具体的にどのような情報をお知りになりたいのですか?」
「ミレーユに威圧を放った者がいる」
簡潔に伝えれば、ゼルギスは納得したとばかりに頷く。
「竜王の花嫁に威圧を放つなど、ずいぶんと命知らずな。承りました。間諜を手配いたしましょう。――――それで、そちらはいかがなさいました?」
いいながら、ゼルギスが視線を下に向ける。
マントに隠されていても、すぐに分かる。
死してもなお、その存在を窺わせる初代竜王の《竜気》が、カインの腕から漂っていることに。
カインが隠していた腕を出すと、手から肘関節までの衣装が焼け落ち、皮膚は焼け爛れていた。
「竜印にやられた……」
すでに竜族の強い自然治癒力によって大部分が再生されているが、それでも傷跡はまだ完全には癒えていない。普通ならば、腕を切り落とされようが一瞬で治るというのに。
元来丈夫な身であるカインにとって、これほどの怪我を負ったのは生まれて初めてだ。初代竜王が施した術の凄まじさは計り知れない。
「なるほど。よろしかったですね、その程度ですんで」
「なにがいいものか! 私は触れてもいなかったんだぞ! クラウスのやつはミレーユの耳元まで近づき、あまつさえ手の甲に口づけしたというのになぜ術が発動しない⁉」
友人だろうが従兄弟だろうが、そんな不埒者こそ炭化すべきだと主張するも、ゼルギスは淡々と返す。
「ミレーユ様に対して危害を加える気が一切なければ、術は発動いたしませんよ」
「私だってミレーユを害する気などない!」
「貴方様は我欲に溢れていらっしゃいますから」
「……っ!」
確かにミレーユに近づいたとき、ふわりと鼻腔をくすぐった花の香りに一瞬クラリとして、思わず抱きしめたくなったのは事実だ。
だが、想い人を前に欲せぬ方がおかしいだろう。
「強欲の竜に、聖人のような精神力はございません。接近禁止がなんのためにあるか。再度説明せずとも、これで身をもってご理解いただけましたね」
「婚儀まであと三カ月以上…………待つしかない、ということか?」
返答の代わりにニッコリと唇の端を持ち上げて笑むゼルギスに、カインは頭を抱えて呻いた。
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ミレーユが長い大理石の回廊をナイルと連れ立って歩いていると、前から銀のトレイにお茶をのせたルルとすれ違う。
「あれ? 姫さま、もうお部屋に戻っちゃうんですか?」
どうやらガゼボで考え込んでいたミレーユに、お茶を運んでくれようとしていたようだ。
「ごめんなさい、ルル。お茶はお部屋でいただくわね」
「それはいいんですけど、どうしたんですか?」
「え?」
「お顔が、野イチゴが爆発する一歩手前みたいですよ」
「え⁉」
思わず両手を頬にあてると、確かにいつもより熱い。
意識した途端、赤みが急速に広がり、すぐに耳や首筋まで到達した。
突然の赤面だが、理由は明らかだった。
(だって、だって……私の名を……ッ)
はじめてカインに『ミレーユ』と名を呼ばれた。それも、呼び慣れているような声音で。
(名を呼ばれただけで、なぜこんなに恥ずかしいの!)
名のことだけでなく、かけられた言葉もミレーユには衝撃だった。
『ここでは、自由に過ごしてほしい』
彼にとってはあまり大きな意味をなさない、一種の社交辞令だろう。
けれど、ミレーユにとって『自由』を与えられたのは、生まれて初めてのことだった。
王女としての役割のもと生まれ育った身に、自由など存在しない。
小物一つにしても税金でまかなわれるため、欲しいものを欲しいと言える権利は皆無。言動も、行動もすべて国主体。
それを当然だと受け入れ、不満に思ったことなどなかった。
なのに、彼から与えられた言葉が、こんなにも嬉しく思えるのはなぜだろう。
(この気持ちは一体なんなのかしら……)
そんなミレーユの様子に、ひどく慌てたのはナイルだ。
「いかがなさいました⁉ ご体調に何か⁉」
「え。あ、これは、その……」
よもやカインに名を呼ばれたことが嬉しかっただけです、など口が裂けても言えない。
「姫さま、最近お熱急上昇の病にかかってますもんね」
「――――ッ」
ルルの何気ない一言に、ナイルは衝撃のあまりのけ反った。
「女官長としてミレーユ様をお守りする立場でありながら、いまのいままでご体調の変化に気づかぬとは……!」
「本当に、たいしたことではありませんから」
「いえ、これは由々しき事態です! すぐにでも医竜官を召還せねば!」
「「いりゅうかん?」」
ミレーユとルルが同時に問う。
「竜族の医師にございます。ミレーユ様には一度医竜官の拝診をお受けいただく手筈でしたが、わたくしとしたことが悠長に構えすぎておりました!」
そんな「いますぐ連れて参ります!」とばかりの勢いを見せるナイルを止めたのは、ルルだった。
「姫さまが大丈夫っておっしゃってるなら、心配ないですよ」
「で、ですが……」
「姫さまは、ルルにもナイルさんにも嘘なんてつかないですもん!」
断言するルルの瞳には、ミレーユに対する一点の曇りもない信頼が輝いていた。
純粋無垢の勝利というのだろうか。さすがのナイルもここまで言われては口を噤むしかないようで、ぐっと下唇を嚙みしめ、言葉を呑みこんでいた。
そんな二人を見つめ、ミレーユはつくづく思う。
(ルルのこの小さなことでは動じない強さと返しは、ぜひ見習わなければならないわ)
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