価値観の相違 Ⅶ
その姿が完全に見えなくなると、残された二人の間には無言の時が流れた。
ミレーユがこわごわとカインの顔を窺えば、なぜか彼は顔を硬直させ、血色も悪い。
「あの、お顔の色がすぐれないようですが」
声かけが許されるのか迷ったが、聞かずにはいられないほどの顔色だった。
気遣われたカインは、深紅の瞳を大きく見開く。
光の角度で煌めく色は魂が抜かれてしまうほどに美しく。
意識した途端、ミレーユの鼓動が激しく乱れた。
クラウスが耳元まで近づいた時も。
手の甲に信頼の証を落とされた時も。
一度も高鳴ることのなかった胸が、ただ瞳を見つめているだけで途端息苦しくなる。
どうやらこの前の一件で現れた症状は、まだ寛解していなかったようだ。
「私よりも、貴女の方が……」
「!?」
「不用意に威圧を放ってしまって……」
「え? あ……」
この高鳴りに気づかれてしまったかと慌てるも、どうやらそうではなかったようだ。
よかったと安堵し、ミレーユは素直に答えた。
「カイン様のような密の濃い魔力には不慣れですが、威圧を放たれること自体には慣れております。お気になさらないでください」
「――――は? 誰に?」
いつもどこかよそよそしい口調だった彼の言葉が突如崩れた。
「だ…、誰、とは……?」
「慣れるほどに、誰が君に威圧を放った」
「い…、いえ、いまのは、その…」
真っすぐに問いただされ、言葉に詰まる。
切れ長の強い眼差しは威圧と同じくミレーユの体の自由を奪い、ぞくりと背筋が粟立つ。
だが、これは恐怖とは違う。
まるで荘厳な生き物を最前列で観賞しているかのようなこの恍惚感が、恐怖と同じとはとても思えなかった。
(って、見惚れている場合ではないでしょう! なんとか誤魔化さないと!)
誰かなど絶対に口にはできないのだ。
なぜなら、その相手は――――。
(言えない。まさか、貴方が一目ぼれした女性の夫です、だなんて……!)
エミリアの夫であり、スネーク国の王子である彼は、蛇を先祖とする種族のせいか、はたまた元来の性格か、ひどく癇癪持ちの気質だった。
気に入らぬことがあれば声を荒らげて咎め、細事も大事にする。
想い人であったエミリアに対しては寛大な態度を示すが、それ以外の齧歯族に対しては横暴な振る舞いが多かった。
とくに能力も容姿も冴えない大人しいミレーユに対しては傲慢な態度を隠そうともせず、機嫌の悪い時は彼の威圧を何度となく受けてきた。
「あ、その……ち、違うのです。齧歯族の分布する大陸では、威圧は威厳として尊ばれる行為でして……」
出まかせではなく事実を口にすれば、カインの整った眉がこれでもかとひそめられた。
「そんなわけないだろう。威圧は威嚇、相手に敵意を示す行為と同義だ。それを謂れのない者に放つなど、思慮が欠けた振る舞い以外の何物でもない」
「え……、そう、なのですか?」
わりと日常的に放たれていたので、そんな意識はなかった。
カラスを祖先とする鳥綱族とて同じで、いつもここぞとばかりに威圧を放っていた。
ミレーユが本気で威圧を威厳としてとらえていることを察したカインは距離を詰め、声を低くして問う。
「誰だ――――その痴れ者は」
カインとしては、そんなものを彼女が受けていたと知れば、とても冷静ではいられない。
ミレーユに対し威圧を放った者への怒りを滾らせたカインには、さきほどまでのおたついた挙動は一切なく。
そこには花嫁を守るためならば他者を蹂躙することも厭わない、竜の本質が垣間見えた。
本来なら恐ろしい光景を前に、しかしミレーユはそれどころではなかった。
(ち、近いですっっ! 距離が、近すぎます……っ!)
光の粒子を纏っているかのような美貌が眼前にある。
それだけでヒュッと息が止まり、うまく呼吸ができない。
そんな酸欠状態に陥った脳では、彼の怒りの理由すら察せられず、焦りと動揺に目が回る。
気づけばうまい口上も述べられぬうちに、体温すら感じられるのではないかという距離まで詰められていた。
(私には、あの方々の威圧より、カイン様の美しい顔の方が耐えられません!)
一瞬でも気を抜けば、「ひぇええっ」と間抜けな声をあげてしまいそうで、必死で唇を引き結ぶ。
なかなか口を割らないミレーユに業を煮やしたのか、カインの引き締まった腕がミレーユの手首に伸びる。
(触れてしまう――――!)
鼓動が高鳴るあまり、ミレーユはぎゅっと固く目を閉じた。
とたん瞼の上に強い光が散った。
「え……?」
驚いて目を開けば、カインの位置がさきほどより一歩後退していた。
一人分ほどの距離が空いたことに安堵する心と、彼の手に触れられたかったという落胆が同時に沸き起こる。
だが、そんな己の感情を複雑に思うよりも先に、見上げたカインの虚を突かれた表情の方が気になった。
よく見れば、伸ばされた腕が彼の肩から下を覆っていたマントの中に隠されていた。
(そういえば、クラウス様とお話し中のときも何かが走ったような……?)
痛みも熱もなかったが、あれは何だったのか。
ミレーユは慌てて謝罪を口にした。
「申し訳ございません。いまなにかが……。お怪我はございませんか?」
「あ、いや……」
視線が少しさまよった。
やはりどこか痛めたのかもしれない。
さきほどとは逆に、今度は怪我を確認するためミレーユから近づこうとしたとき、背の方からナイルの声がした。
「ミレーユ様!」
珍しく慌てた様子で駆けつけるナイルの横には、ゼルギスの姿もあった。
「駆けつけるのが遅くなりました。ご無事ですか⁈」
「へ?」
これは一体なんの心配だろう。
カインに対して不敬を働かなかったかの心配なら分かるが、ナイルの視線はミレーユだけに向けられており、カインのことは完全に差し置かれていた。
「ミレーユ様の庭園に侵入するような不届き者たちには、わたくしが灸を据えておきましょう」
「? どなたか他にいらしておりましたでしょうか?」
この庭で出会ったのは、カインとクラウスの二人だけだ。
まさかナイルの言う不届き者たちが、竜王と虎族の王子を指しているなど思いもせず、ミレーユは首を傾げる。
「ささ、風も吹いてまいりました。お体に障ってはいけません、お部屋に戻りましょう」
流れるような仕草で促され、困惑しながら歩を進めると、数歩進んだところで声が飛んだ。
「ミレーユ!」
「!……はい」
朗々と響く深みがある声に名を呼ばれ、ミレーユは振り返る。
虹石よりも強い鮮やかさを持つ深紅の瞳と、一瞬だけ視線がからむが、次の瞬間にはそらされてしまう。
「その……」
呼び止めたのはいいが、なんと言葉をかけるべきか迷うように、彼の薄い唇が小さく開閉を繰り返す。
しかしすぐに顎を上げ、真っすぐにミレーユを見つめ。
「ここでは、自由に過ごしてほしい」
静かな、けれど慈愛のこもった言葉だった。
『お前がそんなんじゃ、ミレーユ嬢も不自由でしかたないだろう』
クラウスからすればただのからかいの言葉だっただろうに、気にしてくれていたのか。
ミレーユは厳かに姿勢を正すと、ドレスの裾を持ち上げ膝を曲げ言った。
「お心にかけていただき恐悦至極に存じます。ですが、すでに身に余るほどの厚遇を受けております。どうぞお気になさらないでくださいませ」
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