竜族の若き王 Ⅲ

 

 祈年祭でのクラウスとの一件は、いま思い出しても肝が冷える。


 齧歯族からすれば、とうに結婚して子供を儲けてもおかしくない年までミレーユを待たせてしまっていた驚愕。すぐに迎えにくると伝えていたのに、まったくすぐではなかったという事実。


 眩暈がするほどの過誤に、カインは慌てて使者を送り婚儀の準備を急がせた。


「あの時の精神状態は、《竜王の儀式》よりもよほどきつかった……」

「こちらとしましては、すべてが早すぎるくらいだと思っておりましたのに、まさかの落とし穴でした。ですが、まぁ結果よければすべてよしということで。待たせすぎてしまった手前、難航するかと思われましたが、あちらのお国からもアッサリと婚姻の許可も下りましたし、ミレーユ様も無事到着されました。残すは婚儀のみです」


 あっけらかんと笑顔で締めくくろうとするゼルギスに、カインはジト目で睨む。


「クラウスたちが私たちを毛嫌いしているところは、そういうところだと思うが……」

「仕方ありませんよ。本来、竜は怠惰で傲慢。おおよそ我慢のきかない生き物ですから」


 カインの父が、仕事を嫌い『怠惰王』と呼ばれてもなお許され、国民から愛されているのは、そもそも竜とはそういう生き物だからだ。


 基本からして、竜と他の種族では考え方が違う。


 そしてゼルギスは、その怠惰王の実弟だ。

 仕事はすべて全うする彼だが、些細な事柄についてはあまり気にしないあたりしっかり竜王の血を継いでいた。


「しかしながら、齧歯族のミレーユ様にとって十年はとても長い月日だったというのに、あれほど《竜印》がわずかなかすれもなく、ハッキリと刻まれているとは。感動を通り越して感服いたしますね」


 ミレーユが仮式で装ったウェディングドレスは、《竜印》の位置を配慮した胸の開いたものだった。


 白い肌に色濃く映える《竜印》は、彼女が嘘偽りなく想い続けた証でもある。


 ミレーユが美しく成長したことには動揺を隠せなかったが、それと同時に胸に濃く刻まれた《竜印》には心から安堵した。


 よかった、待たせすぎたと怒って嫌われていなくて―――と。


 派遣した使者から、『なにか話がかみ合っていないような気がするのですが……』と報告を受けたときはいささか不安だったが、どうやら無用な心配だったようだ。


「カイン様。ミレーユ様は長い月日をお待ちくださったのですから、たった二日あまりで嫌われないようお気を付けくださいね。今日のような態度では、そのうち愛想をつかされますよ」

「!!」


 恐ろしいことをサラリと言うゼルギスに、息が止まる。


「ど、どうすれば……?」

「茶会の最後は自然と笑えていたではないですか。始終あの感じを保てばよろしいのですよ」


 ミレーユが実妹の話を口にしたとき、カインはやっと笑みを見せた。


 その姿に、ゼルギスは安堵と共に『いや最初からその笑顔で接せられなかったのか』と心底呆れたが。


 本人も自覚しているのか、気まずそうに視線を逸らしてブツブツと言い訳を口にする。


「あれは……。ヴルムの幼名でなく、カインの名で呼ばれたのは初めてだったから」


 竜王の血を引く系譜は、皆産まれた時は七色の瞳と髪を持つが、成竜になると七色から色が分かれ、髪も瞳の色も異なる色となる。


 儀式中、火山体の中で成竜となったカインは、【はじまりの竜】といわれる祖先と同じ赤竜となり、その瞳の色は濃い紅へと変化した。


 同時に、母が名付けた幼名を捨て、父の名付けた新しい名を使用するのが通例であり、幼名の“ヴルム”から“カイン”と名も変わっていた。


「できれば陛下という敬称はいらなかったが……」


 それでも初めて成人名を呼ばれたことに、あの時は自然と笑みが零れた。


 しかも少し上気した頬で、上目遣いに真っすぐに名を呼ばれたのだ。嬉しくないわけがない。


「あのとき衝動のままに抱きしめなかった私は、竜士なら栄誉称号ものだと思う」

「なに世迷言を仰っているのですか。大体、仮式の時点で動揺が大きかった割に、ちゃっかりミレーユ様の自室を自分の隣に指示するとは何事ですか」

「部屋の件を指示したのは仮式の前からだ。動揺は関係ない」

「私が許可するわけがないでしょう」


 おかげで別の部屋を準備するのに、どれだけあわただしく動いたか。


 花嫁が好きだという赤を基調とした部屋を設けるよう指示していたのだが、当日再確認すれば、なぜかその部屋がカインの隣室に準備されていた。ご丁寧に、ゼルギスが最初に指示していた部屋を使用不能にして。


 慌てて空いている部屋で花嫁にふさわしい部屋を用意させたが、それも仮式が終わるギリギリだった。そのさい、どうやら花嫁は赤より琥珀色を好んでいるという事実をナイルに聞かされ、すぐさま琥珀色の部屋で整えられたことだけは怪我の功名といえる。


「婚儀までは、むやみに接触なさらぬようあれだけ申し伝えたというのに。対面禁止、半径五十メートル以内は接近禁止を忘れましたか?」

「対面禁止には抵触しないだろう。半径五十メートル以内は接近禁止だって、部屋の隅から隅で計算すれば抵触しない」


 子供の言い訳のようなことを凜然として言い切るカインに、ゼルギスは眉を顰めた。


「カイン様、例え竜王であろうが《竜約》には逆らえません。お分かりでしょう?」


《竜約》は契約者であるカインにも有効で、婚儀前に欲をもって花嫁に手を出そうとすればカインですら排除される。《竜約》とは、二人のためのものではなく、花嫁を守るためだけに特化された契約なのだ。


 婚儀までの接触禁止も、茶会での厳重な警備も、すべてカインが血迷ってミレーユに触れることを阻止するためのものだった。


「欲に目が眩めば、竜の姿焼きが完成するだけですよ。婚儀を前に、貴方に死なれては困ります」

「まだ指一本も触れていないぞ! 部屋だって、壁で隔てているのだから隣くらいいいだろう!」

「そんなもの指一本で消し飛ぶでしょうが」

「そこまで私が信用ならないのか!?」

「貴方が信用できないのではありません。同じ竜族の男として、竜族の自制心が信用できないのです。いいですか。先程も申しましたが、本来、竜は怠惰で傲慢。おおよそ我慢のきかない生き物です。人の形を取るようになってからはだいぶ薄まりましたが、それは民の話。元始体に近い力を持つ王族は別です。ご自分の血を甘く見ないでください」

「だからって、なにも一番遠い部屋にしなくとも……」

「日当たり良好、庭園が一番美しく見渡せる窓位置。元は皇太后が書斎用に使用していたお部屋です。欠点は、急遽すぎてミレーユ様を外からお守りするための魔力封じの扉の仕様が簡素になってしまったことですが、それ以外は最良のお部屋かと」

「遠すぎる……」

「どうせ指一本触れられないのですから、遠かろうが近かろうが同じことではありませんか」

「気分が違うだろう!」

「カイン様のご気分についてまでは善処致しません」

「そこは善処してくれ!」


 叫んだ瞬間、カインの高ぶった魔力が放出され部屋全体に充満しそうになる。が、瞬間、強い風がそれをかき消した。


 魔力をともなった風が、誰の力など確認せずとも分かる。本気でないとはいえ、カインの魔力を封じられるのは現在この城の中ではゼルギス以外では一人しかいない。


「――――ナイル…」


 扉の方からこちらへ悠然と足を進めるナイルに、冷や汗が流れる。

 カインの顔には、マズイという色が盛大に表れていた。


「カイン様、魔力放出にはお気を付けくださいと、あれほど再三忠告いたしましたのに」

「わ、悪い……」

「とくにミレーユ様の前では細心の注意をお払いください。婚儀が無事に終われば、その御身は竜族に近いものとなりますが、いまはか弱く繊細なガラス細工が如く。再度申します。――――細心の注意をお払いください」


 口調は荒げずとも低く地を這うような声音に、ナイルの本気が伝わる。


 竜王の血族であり、一族の中でも突出して力が強い彼女は、カインの幼い時からの家庭教師でもあった。カインだけでなく、父の黒竜王も、そして隣にいたゼルギスも彼女の教えを受けていた。


 そう、彼女は例え竜王ですら敵に回してはいけない女性の一人なのだ。


 ミレーユは、ナイルを自分とさほど年が変わらぬ方だと疑っていなかったが、竜族は十六を過ぎるとあまり外見的変化が少ないだけで、実際の年はかなり上だった。


「ミレーユ様に対する応答に対しても落第点です。食料備蓄についてお心を砕かれるなど、素晴らしいご精神ではありませんか。なぜあのような負の感情を放出されたのですか?」


 昔から、ゼルギスよりもよほど容赦ない指摘事項を次々と口にする彼女が、今回の茶会に不服を唱えないなどありない。だが、それについてはカインにも異論があった。


「なにが素晴らしいんだ。あれはミレーユの心痛そのものだぞ……」


 ミレーユが、なぜ食料備蓄の計算を得意としているのか。それは十年前に起こった、隣国同士の争いの余波で生じた食糧不足が原因だ。まさか十年前も口にしていた特技が、今も尚続いていたとは。


「私が儀式に入る前に、すべての国に争いを止めるよう指示したはずだ。食料についても不足なく供給しろと」


 儀式を急ぎ、未来の花嫁の情報を伝え忘れたカインだったが、その指示だけは忘れなかった。


 ミレーユの身は《竜印》によって守られるだろうが、彼女の大切な人々までは守ることはできない。少しでも彼女の心が痛まぬよう、取り巻く環境を整えたかった。


 ミレーユの祖国だけではなく、すべての国と指示したのは、全体的な安寧こそミレーユの望む形だと察したからだ。


「その点につきましては不手際はございません。争う国があれば我ら竜族を敵に回すと同義――――と、黒竜王の名で全種族に告示いたしましたし、食料の供給についても十分なはずです」


 ゼルギスの答えに、ナイルも補足するように続けた。


「お迎えの際、ミレーユ様の祖国の内情も調べましたが、告示からは食糧難などは起きておりませんでした」

「では、なぜ……」


 未だミレーユの心に食料難への怯えがあるのか。


「幼い時に一度味わった辛苦はそう癒えるものではないのでしょう。ですが、我が国庫をご覧になればご安心いただけるかもしれません」


 そう提案するナイルに、カインも良案だと深く頷く。


 幾つかにわけて設けられている備蓄庫は、民の寿命が長いことを考慮して数十年単位で計算されている。建国以来、一度たりとも食糧難に陥ったことのない現状を目で確かめれば、ミレーユの憂いも少しは晴れるかもしれない。

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