第33話 痕痕痕
6月26日月曜日、天気は曇り
朝の登校時間、教室にて早めに自分の席に着席した立花は今日から始まる期末テストの怒涛の追い込みをしていた。激しく動く手、白紙のノートの1ページを荒波の如く進むペン、血走った瞳に入り込むは到底理解できるとは思えない情報量の溢れた世界。
「歩美やる気に満ちってるね。いい点でも取ったらご褒美で何か買ってもらえたりするんかな?」
「どうだろうねえ。でも歩美にはやると言ったらやる『スゴ味』があるッ!ってなもんよ」
いつもの3人は異様な空気で追い込みをする立花を邪魔しないようにと少し離れた場所から見守りながら雑談していた。
「よっす、小柳おはよう」
後ろのドアから小柳が教室に入るとクラスメイトの男子に声を掛けられる。小柳という言葉に立花の激しい動きがピタリと止まった。
「ああ、おはよう」
「どうせ小柳の事だからテスト勉強してきたと思うしせっかくだし何か賭けて合計点で勝負しないか?」
「何のせっかくだよ。今回はそんなに自信ないからパスだな」
「とか言って本当は自信あったりするんだろ?」
小柳はクラスメイトの男子と立花から離れた列から自分の席に向かって歩きながら会話をする。
席に着いて鞄から筆記用具などテストに必要な物を取り出すと立花の方に顔を振り向けるが同時に怒涛の追い込みを再開する立花と顔が合うことはない。
土曜日の小柳の父に素直な気持ちをぶつけて以来、小柳に連絡すらできていない状態であった。
無理やり小柳に押し付けて逃げた形になったせいで立花は深く反省していたが、テストに集中するため前回小柳と揉めた際に直接会って話して解決したので今回もそうしようと浅い気持ちで考えていた。
小柳と小柳の父が話し合って上手くいった事を知らない立花に感謝の気持ちを伝えようと小柳が男子との会話を終えて席を離れて立花の席に1歩1歩近づいてくると何となく空気を察した立花の動きが更に勢いを増す。
(お願いだから今はテストに集中したいから来ないで!叱られるのも謝るのも放課後にしてよ!こうなったら話しかけないように忙しそうにするしか...)
立花の動きは限界を超えて加速する。はたから見たらその姿はまるで阿修羅だ。阿修羅立花爆誕。
「立花、ちょっといいか?」
立花の気持ちは届くことなく小柳は立花が勉強している机の隣に立って普段通りに話しかける。
(これ見ても話しかけてくるの!?悪いとは思ってるけど待ってよ!)
周りのクラスメイトは阿修羅立花よりも小柳から立花に声を掛けた事で教室内が騒々しくなる。
「ちょっと後にしてくれる...?」
「そうだよな、何だか忙しそうみたいだし後で...待て、それノートに何も書いてないよな!?」
小柳の視線の先には真っ白なノートの上を少し浮かせたシャーペンを上下左右に激しく走る立花の腕に違和感を感じる。手を付けるが着いていない。
「これは...そ、そういう勉強方法よ!小柳君知らないの!?遅れてるわね!脳じゃなくて手で記憶させるっていう...どっかの偉い人の方法よ!最近SNSでトレンドなんだから!」
咄嗟に嘘をつく立花は小柳に対して心苦しい思いで顔を見ることができない。
「どこの偉人だよ。じゃあまた後で声掛けるわ」
「そうね!」
立花は小柳が自分の席に戻っていく後ろ姿を目で追うが心做しか変化を感じながらも再びテスト勉強に集中するのであった。
朝休み、1限目の休み時間、二限目の休み時間と小柳は立花の方を振り向くが独特な雰囲気を放つ阿修羅立花に気軽に話し掛ける事はできなかった。
放課後、午前中に今日のテストが終わると学校の生徒達は家に帰って勉強する者や隠れて遊びに行ったりする者もいた。
教室内で帰る準備を終えた立花はいつもの3人と別れて小柳に叱られる覚悟と謝罪する決意を抱いて小柳の席に迎えに行くが居ない。
いつも机の横のフックに掛かっている鞄が見当たらない。つまり既に教室からは去っていたのだ。
(もう帰った!?嘘でしょ!?あれだけ私に話し掛けようとしてたじゃないの!余ったテスト時間に考えていた事は無駄だったってこと!?)
小柳の言動に理解できない立花は気持ちを切り替えて大人しく明日のテスト勉強でもしようと帰宅することにして靴箱で上履きを履き替えて学校を出る。
一応小柳の靴箱を確認してみたが上履きが置いてあるため帰宅していた事に間違いはなかった。
(せめて一言メッセージでも送ってくれたら良かったじゃないのよ。そういえば今日はおはようメッセージ送ってなかったわね。あんな事した後に普通におはようだなんて調子乗ってるって思われて嫌われでもしたらアレだし...あくまで復讐のためで…)
「立花」
スマホを扱いながら校門を抜けた立花にボソッと声を掛けたのは木陰からゆっくりと体を出すホラーチックな小柳だった。
「きゃっ!何!?...あ、小柳君か。何よ、急にびっくりしたじゃないのよ...」
「何って立花が学校から出て来るのをここでずっと待ってたんだけど」
「はぁ!?何でわざわざこんな所で待ってるのよ...教室で待ってればいいじゃない!」
「朝休みに俺から立花に話し掛けた事で何か教室内が変にざわついてたしここなら確実だと思ってな」
「別にそんなの気にしなくてもいいじゃない...てっきり先に帰ってたと思ったわ」
「それで立花に話があるんだがいいか?」
「淡々と話進めるわね!...わかってるわよ、あれでしょ?土曜の事よね...?」
「まあ、そうだな。立花が父さんと無理やりだが2人きりにして話す機会をくれただろ?最初は本当に何してくれてんだと思ったけど、父さんと話せて多少なりとも理解はしてくれた。これも立花のおかげだ。ありがとう」
「それだけ...?」
叱られる覚悟で両目を閉じて体に力を入れていた立花の右目が静かに開いて小柳を視認する。
「え?それだけというか、まあ...そうだな」
「ふぅ…なによもう!良かったわ!正直凄くキレてて殴られるかと思って...ほら、雑誌をお腹に仕込んでおいたのよ」
腹に膨らみがあった制服のポロシャツを恥ずかしげもなく捲り上げて立花は読み終えたファッション雑誌を取り出すと良い案でしょと言わんばかりに自慢げな表情で小柳に見せつける。
「殴らねえよ!これでも感謝してるんだが」
「可愛い顎の次は可愛いお腹かと思ったわ。そのうち全身コンプリートするんじゃないの?」
「その件は…本当に悪かった。それで立花に何かお礼がしたいと思ってな」
「お礼?別にそんなのいらな...そうね、くれるんなら有難くもらってあげてもいいわよ?」
雑誌を鞄に片付けて立花は片手を小柳に差し出す。
「だと思った。一応単語帳は確認したが1度はやってみたいことの質問にロールケーキ丸々1本を両手に持って丸かじりとか意味不明なことが書いてあって全く参考にならなかったから直接聞こうかと...」
「え!?どこが意味不明なのよ!?誰もが1度はやってみたい事じゃないの!」
「それは立花だけだろ?俺も別にだし周りの女子でもそんな願望はないと思うぞ。しかもやろうと思えば簡単にできそうじゃないか」
当然のように否定する小柳に立花はため息をつく。
「わかってないわね。家では家族の目、外では人の目があってそう簡単にできることじゃないわ」
「意外と気にするんだな。だったら路地裏とか人気のない所でやってみたらどうだ?」
「じゃあ仮に私が路地裏でやってるところ想像してみさないよ」
想像するとおかしい事に小柳は気づく。
「手が汚れるか」
「そこじゃないわよ!どっちにしたって手は汚れるわ。別に悪い事してないのにコソコソ食べなきゃいけないのはおかしいって話しよ」
「なるほどな。それに食べる方角もわからないか」
「恵方巻きみたいに食べないわよ!ちなみに今年は南南東よ」
「詳しいのかよ!だったらこの前のお礼にロールケーキをプレゼントするってのはどうだ?そういや今までロールケーキ丸々1本で買った事がないけど1本だといくらぐらいするのか?」
「でも、それは1人で出来る事だし...」
「ん?何だ?ロールケーキじゃないのか?とりあえず俺は立花に感謝を伝えられたしお礼の件は決まったらまた連絡でもしてくれ。じゃあ...俺用事あるからここで。また明日な」
悩みに悩んでその場から動こうとしない立花を置いて小柳は歩きだそうと1歩踏み出すと何か思い出したように右腕を両手で掴まれる。案が降ってきた。
「っ!?どうした?右腕取れるかと思ったわ」
「...そうよ!小柳君午後から暇よね!?お礼なんだけど今からちょっと付き合って欲しい場所があるわ!」
「俺の話聞いてたか!?用事があるって...」
「どうせ月曜日だから週間フライ買いに行く用事でしょ!?それは私のお礼を済ませてから買いに行けばいいじゃない!ね!?」
「まあその通りではあるが...付き合って欲しい場所ってどこなんだ?まさか、人気のない路地裏探しか?」
「ある程度場所は知ってる…って違うわよ。それは着いてからのお楽しみね!そうと決まれば電車に乗って行くから駅に向かうわよ!早く来ないと置いていくんだからね!」
お礼すると自分の口から言った手前断れなくなってしまった小柳は走る立花に振り回されるがままに付き合う事になった。
2人は学校の最寄り駅から電車に乗る。
「立花、行先を教えてくれないか?」
2人はバスに乗り換える。
「立花、どこに向かっているんだ?」
2人は徒歩で移動する。
「立花、ちょっとの範囲を大きく超えてるがここはどこだ?」
立花は目的地まで口をきかなかった。
楽しそうではいた。
午後3時頃、2人は電車とバスを乗り換えて2時間が過ぎ、ようやく目的地の入口に辿り着いた。
2人の目の前に立つ地面に打ち付けてある古い木の看板には白いペンキで『
ここは県内の山奥にある自然公園だった。
周りには森、森、森。と何処に繋がっているのか不明だが一応道と考えられる一本の細い山道がある。
無意識で深呼吸をする程度には2人の過ごす町とは明らかに違う綺麗で澄んだ空気が流れていた。
今日は天気が曇りのため視界は悪いが立花は特に天気を気にしていない様子でスマホを見ていた。
「質問いいか?ってか絶対に答えてくれ...ここはどこだよ!?人気のない路地裏どころじゃねえよ!」
「木山の里渓流公園って書いてあるじゃない。見て、スマホの電波も悪いみたいでGPSも現在地が変なところを指してるわ!笑えるわよね!」
「何も笑えねえよ!立花の付き合って欲しい場所が自然公園ってのが不自然過ぎる...」
「まあ私の付き合って欲しい場所はここからもう少し歩いたところなんだけどね」
「そこに一体何があるんだ?こんな街灯の明かりもない所暗くなったら何も見えなくて道に迷って終わりだからな」
「安心しなさい!そんなに時間はかけるつもりないし私だってこんな所でサバイバルなんてごめんよ。道なりに歩けば着くみたいだから早く行くわよ!」
園内の散策路には四季折々の花や鳥、虫を観賞できる。初夏には紫陽花、ブルーベリー、渡り鳥のブッポウソウが観賞できるが2人は早歩きで気にする事もなく目的地へと足早に向かった。
散策路を歩き始めてから10分もしないうちに先頭を歩く立花は声を上げて離れて歩き疲れている小柳に向かって大きく手を振って嬉しそうに呼ぶ。
「どうやら目的地に着いたのか...?はぁ...これが高校に入ってから授業でしか運動してこなかった罰か...体力がこんなに落ちてたなんて。それにしても立花は元気だな...」
段差のある階段をゆっくりと登りきって立花の隣に立つと小柳は立花が指さす方向に顔を向けて目の前の光景に驚愕する。
「これが、立花の付き合って欲しい場所か...?」
「そうよ!じゃーん!木山の大吊橋!」
立花の小柳にしつこく行先を聞かれても答える事をしなかった秘密の場所とは、県内一揺れる橋として異名を持つ標高640m、長さ150m、幅120cmの木山の大吊橋という名の人道橋である。
踏む板は木製で手すり部分は深緑色の穴の空いたネットで所々に鉄製の紐で補強されていた。
「景色凄いな。風も気持ちいいし…それで何で吊り橋なんかに来たかったんだ...?」
それは立花の作戦の1つであった。
恋愛関連のwebサイトに一通り目を通している時に何度も顔を出す『吊り橋効果』という恋愛心理学に立花の興味は試さずにはいられなかった。
吊り橋効果とは、一般的には緊張や恐怖などによってドキドキする気持ちが一緒にいる人間への恋愛感情によるドキドキ感だと勘違いさせる心理効果だ。
吊り橋効果を活用するなら心拍数の上がる場所へ誘う事だと書いてある記事を素直に信頼した立花。
だが実際に吊り橋で試す人間などいない。
(これは無理やり好きにさせる荒業だけど早いに越したことはないわ!しかもこれは吊り橋じゃない...大吊橋なのよ!大吊り橋効果って吊り橋効果のレベルアップVer!これは今日告白されるわね!っしゃ!)
ニヤニヤが止まらない立花は勝利を確信する。
「結構高いな。それでこれを渡るのか?」
「へっ?」
「いや、この吊橋を渡る事を立花は付き合って欲しかったってことなんだろ?」
「ちょっと待って!小柳君、この吊り橋見てどんな気持ち?」
「ん?初めて見たけど大きいな、とか?こんな場所にあったのか、とかだな。それがどうした?」
「心拍数は!?上がってないの!?」
「心拍数?ここに来るまで歩いてから上がっていたけど今は休んで落ち着いたから大丈夫だ。なんだ、心配してくれたのか?立花は体力あるよな」
(あれ!?吊り橋効果って見るだけじゃダメなの!?しかもこれ大吊橋よ!?見た瞬間好きが止まらなくなるんじゃないの!?気になる存在から好きになる存在って簡単になるもんじゃないの!?)
「見た感じだと大分古そうだけど壊れたりしないだろうな?」
「!?何してるの!?」
小柳が吊り橋を渡ろうとして足を踏み出すと立花は全力で左腕を引っ張り元の隣の位置へと戻す。
「本当に腕取れるって...何って吊り橋の安全性の確認してたんだよ。だって渡るだろ?」
「渡るの!?」
「渡らないのか!?そのために来たんだろ?」
「そ、そうよ?でも...勇気が必要じゃない!まだその勇気が溜まってないだけよ!吊り橋なんて揺れるし高いし...小柳君は怖くないの!?」
立花にとって勇気はまるでゲームの必殺技ゲージと同じ仕組みだった。
「俺は別に平気だな。もしかして立花は苦手なのか?」
「わ、私も別に平気よ!ほら、見て、この手すりなんて余裕で掴んじゃうんだからっ!」
「それまだ橋の手前の手すりな」
「わかってるわよ!...でもやっぱり景色最高ね!」
「だったらそのまま下見てみ」
「んぐっ...!」
立花はくしゃっとした表情をする。
「いつの間に梅干し食べた?」
「そんな酸っぱそうな顔してないわよ!想像したら唾液が...って、こんなところ早く渡って帰りましょ!」
「こんなところって立花が連れてきたんだよな?了解...ん?立花、その手は何だ?」
当たり前のように小柳の左腕をまるでリコーダーを持つように両手で掴む立花に思わず笑う。
「何よ、せっかく私の可愛い手で掴んでもらえるんだから幸せだと思いなさい!」
(超絶わかりやすいなおい!これ絶対立花苦手だろ!強がってるな。でも本当にこのまま渡っていいのか?無理やりってのは好きじゃないが...)
除夜の鐘を鳴らすように小柳の腕を大きく振って早くしてと願う立花に勇気が溜まったと確認する。
小柳を先頭に足を進めると橋に合わせて体が沈み後ろでは橋にこれから乗る立花が重石のように動きを止めた。
(やっぱり無理だわ...!小柳君がいるからなんとかなると思ったけど怖いものは怖い...)
立花の肌が白いせいか目立つように青ざめて額からは汗が滴り落ちる。どうしても橋の高さや下に流れる小川など気になって心拍数が上がり続ける。
(立花の体は拒否反応を起こしてるみたいだけど心は行きたがってるみたいで...これは最終確認が必要だ)
「立花、やっぱり橋を渡るのはやめて帰ろうか?」
後ろで立ち止まる立花に小柳は体を振り向け聞くと震える声を隠すように無言で顔を横に振っては橋を渡る事に続行のサインを送る。
(吊り橋を見て好きになる作戦に何も効果がないなら渡るしかないじゃない...!それで好きになってくれるならやるしかない…!でも...でも...)
「...立花?おい、立花...!立花!!」
まだ勇気が溜まっていない不安そうに1人の世界に閉じこもっている立花を察した小柳はその世界に足を踏み入れるように大声で呼ぶと気づいたように恐る恐る顔を上げて立花は小柳の目を見つめる。
「俺だけを見てろ!」
小柳の力強い一言が心拍数が上がり続ける立花の胸に鋭く突き刺さる。青ざめていた顔色は次第に真っ赤に染まる。口は開くも返す言葉が出てこない。黙って小さく頷く事しかできなかった。
よそ見して恐怖を感じるのであれば俺だけ見てれば橋を渡れるとの思いで小柳は発言したのだが今の吊り橋効果作戦実行中の立花にとってはクサイセリフと勘違いするほど冷静ではいられなかった。
再び小柳を先頭に橋を渡り始める。だがそう簡単には立花の高所恐怖症は治ることはない。
「いてっ...」
「無理...」
小柳の腕には学校の校則でネイルは禁止されているためケアだけは怠らない立花の長く綺麗で自称可愛い爪が浅く食い込むように突き刺さる。それでも小柳は渡り切ろうと足は前へと向かう。
「いてててて...」
「無理無理...」
未だに立花の足は橋の上にさえ乗っていない。ここまで来てるからと小柳は痛む腕を我慢しながらも立花を引っ張るかたちで進むが徐々に尖った爪が深く食い込んでいく。
「痛い痛い痛い痛い!」
「無理無理無理無理!」
「痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!」
「無理!無理!無理!無理!無理!」
「痛い!!痛い!!痛い!!痛い!!痛い!!」
「無理!!無理!!無理!!無理!!無理!!」
2人の叫び声はやまびことなる。
結局2人は橋を渡ることを断念して辺りが暗くなる前に片道2時間半かけて帰るのであった。
小柳の左腕には立花からの立派な爪痕がつけられ疼いていた。
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