第32話 遥かな香り

午後3時前、小柳と長谷川は2人の通う学校の最寄り駅から学校へ向かう途中にある商店街に着いていた。福が通ると書いて福通り商店街。

昔は人通りが多く栄えた商店街だったが、残念なことに数年前に近所に家電量販店やスーパーなど便利な店が建ってしまったせいで現在はお世辞にも人通りが多いとはいえない。福が商店街手前で立ち止まり引き返す雰囲気だ。

「本当に住所はこっちなんだよな…?こんな場所に商店街があるなんてこの辺りが地元の俺でも知らなかったぞ」

「マップアプリで確認すると近くに目的地があると矢印が示してるみたいですけど、ここからはそれらしきお店は見えませんよね」

「この貰ったチラシを見てもイラストと簡単な住所しか書いてないから詳しくはわかんねえな。とりあえずもう少し歩いてみるか。付き合ってもらって悪いけどなかったら駅まで送るよ」

小柳の右手には長谷川から強引に奪い取ったランチバッグ、左手には数日前に学校の食堂横の自販機の近くで3年生の女子生徒から貰ったチラシを持っていた。

財布を開いた時にチラシを見つけて食後に丁度良いと思いお礼にご馳走でもと長谷川を誘ったのだ。

2人は商店街の中を歩き始めると小柳は右側、長谷川は左側を分担して店を確認しながら探す。

「見当たりませんね…でも、なんだかお宝探しをしてるみたいで楽しいですね」

「宝探しか…果たしてその宝、本当にあるかな?」

「ない事あります!?確かにマップアプリから詳細を見てもレビューが1つもないのは怪しくはありますけど…きっとオープンして間もないんですよ!」

「学校でチラシ配ってまで宣伝してたのはそういう事か!さすが長谷川だ。だったらカフェだし比較的綺麗な店を探せばすぐにでも見つか…あれ?」

小柳は足を止めて目の前にLUNAと看板に描かれている文字を2度見する。

「もしかして見つかりましたか?…あれ?」

左側を探していた長谷川が小柳の方へ振り向くと、そこには商店街の一角にある薄いオレンジ色のレンガと濃いオレンジ色のレンガで外壁が基盤となっていて正面入口には両側に大きなガラスを木の枠が囲み年季の入った木製の扉が真ん中に設置してある。

まるで時が止まったようなレトロな雰囲気の店だ。

「これ…カフェじゃなくて喫茶店だろ!?」

「そのようですね。美味しいナポリタンがでてきそうな素敵なお店じゃないですか…」

想像していた店とは違い入店するか小柳は迷うが隣で目を細めてうっとりとする長谷川の表情を覗き見して店に入る決断をする。


小柳を先頭にLUNAの入口である木製の扉を開くと上部に備え付けられたベルが店内に流れるクラシックのBGMを邪魔するように鳴り響く。

店内はコーヒーの良い香りに包まれており白色で基調された壁や所々に木の茶色が差し色として使われている。革張りの椅子のカウンターが6席と4人掛けテーブル席が5席の縦長だが広々としていた。

カウンターのさらに奥にはキッチンがあるが客席からは見えないようになっていた。

「いらっしゃいませ…あー!君はあの時の!本当に来てくれたんだね、ありがと!もしかして後ろにいる人は彼女さん?」

迎えてくれた白のワイシャツに紺のエプロンをした店員は小柳にチラシを渡してきた同じ学校の3年生の女子生徒だった。

「時間があったので来てみました。後ろに居るのは同じ部活の後輩ですよ」

「じゃあ私とも同じ学校か!よろしくね!まあ、とりあえず座って座って!ふみおじちゃん、お手拭きとお冷2つね!」

「こら、はるかちゃん!私の事はマスターと呼べと何度言ったらわかるんだ」

明るい彼女にテーブル席に案内されて小柳と長谷川はテーブルを挟んで向かい合って座る。

日曜日の午後3時過ぎの店内には奥のテーブル席に40代の主婦3人とカウンター席で新聞を読む60代の男性客がいて10代の客は小柳と長谷川の2人だけであった。

「小柳先輩、あの方を知らないんですか?」

長谷川は他の人に聞こえないようにテーブルの上に置いてあったメニューで顔を隠しながら近づいて小柳に小声で話しかける。

「急に小声でどうした?俺は知らないけど有名人なのか?」

「学校の副生徒会長ですよ…!」

「本当か!?あの感じで?」

「何をコソコソ話してるの?もしかして何を注文しようか迷ってる感じか!それなら私に聞いてくれたらいいのに!」

副生徒会長はお手拭きとお冷をテーブルの上にに置くと長谷川の隣に座って2人の話に入ってくる。

「そ、そうだよな!色々あって何にしようかなと思って…お店のおすすめ教えてくださいよ」

「おすすめはねー、全部!」

「全部!?それ聞いた意味ないじゃないですか」

「いいね、君いいよ!で、君は誰だっけ?」

「それはこっちのセリフですよ!…2年の小柳卓也とあなたの隣の子は1年の長谷川香織です」

「え、小柳卓也って…あの立花歩美ちゃんに告白された小柳卓也!?本物!?」

「知っているんですね…変な所で有名人扱いか…」

「そりゃ私の友達の男子達が立花歩美ちゃんに告って儚く散ってるからね。そんな人気の子が告白したってニュースは音速で広まるから知ってるよ!これが噂の…ちょっと触っていい?」

「何でですか!俺の話はもういいんですよ。それよりあなたの事を教えてくださいよ。長谷川に聞きましたけど学校の副生徒会長ですよね?」

「ねえかおりん、たっくんが私の事全て教えて欲しいって!好きになられちゃったらどうしよう…」

「小柳先輩はそういう意味で聞いたんですか?」

「違うわ!さっき長谷川の教えてくれた副生徒会長って事だけで名前すら知らないだろ?こっちはもうあだ名で呼ばれてるんだぞ、フェアじゃないだろ」

「そういえばそうですね!あまりにも自然でつい話に乗っかってしまいました…!」

「ごめんね、2人が来てくれて嬉しくなってつい楽しくなってさ!まさか本当に来てくれるとは思ってなかったからね。私は古賀遥こがはるか、一応副生徒会長だけど推薦でなったからただの3年生と思ってね!後は何を教えたら…誕生日は5月3日で身長165cmの体重は55kg、カップ数はEで…」

「こら、せっかく来てくれた2人の邪魔しないの。ごめんね、こんな所だけどゆっくりしていってね」

「文…マスター!また後で話そうねー!」

先程古賀にマスターと呼べと発言していた文という髭を蓄えたいかにもマスターが古賀の首根っこを掴んでカウンターの方へ連れ去った。

「生徒会の方って怖いイメージがありましたけど古賀さんみたいに親しみやすい方もいるんですね」

「55kgでEか…」

「そこは覚えなくていいところですよ!重要視するところではないかと…」

「いや、そういう変な意味じゃなくて単純に凄いと思ってな。女性って体重や胸のサイズなんて聞いても答えない人が多いだろ?なのにあの人は聞いてもないのに恥ずかしげもなく自分からスラスラと…」

「確かにそうですね。男性から女性に体重を聞くことは失礼、胸のサイズを聞くことはセクハラとされていますからね。古賀さんは小柳先輩のことを異性として認識されてないのかもしれませんよ」

「それは別にいいけど最近だと同性でも失礼やセクハラになるからな。初対面の時も今の感じだったから元からそういう自然体な人なんだろう」

「それは凄く納得できます。自然体...立花先輩とはまた違いますね」

「立花は...って、そんな事より早く何か注文しようぜ。俺はアイスコーヒーにするけど、長谷川はどうする?この特製ロールケーキとかいいんじゃないか?」

小柳は2人で見ていたメニュー表から1番上に書いている特製ロールケーキのメニューに注目する。

メニューの1番上に書いてあるという事はこのお店で自信を持っておすすめしている品だと確信した。

「そうですね!特製...気になります!」

メニュー表に夢中になって今にもヨダレが出そうな無防備な長谷川を見て微笑む小柳は店員を呼ぶと古賀は腕を回しながら駆け寄る。

「おっ、たっくんとかおりん何頼むか決まった?」

「もうそのあだ名で固定されたんですね。アイスコーヒーを1つと特製ロールケーキ1つお願いします」

「アイスコーヒーと特製ロールケーキね...OK!かおりんは何にする?」

「いえ、今小柳先輩が注文していただいた特製ロールケーキが私の注文した分です」

「なるほどね!ただ、ウチの特製ロールケーキはコーヒーと一緒に頂くと病みつきになる程美味しいって事は伝えておくね!」

「本当ですか!?では私もアイスコーヒーを1つお願いします!」

宣伝上手なのか本心なのかわからないが古賀の言葉に長谷川は上手く乗せられる。

「アイスコーヒーもいいけどウチのおすすめは水出しコーヒーだね!理由は今説明してもいいけど特製ロールケーキを食べてから説明した方がわかりやすいと思うから後でね。さあかおりん…どうする!?」

「では古賀さんに全てお任せします!」

「OK!二度と元には戻れない体にしてあげる!」

「さっきから言い方が怖いですよ!まるで特製の意味が危ない意味に聞こえますよ」

「まあまあまあ!じゃあ用意してくるからアタッシュケースに大金詰め込んで待っててねー!」

古賀は凄く楽しそうに2人の注文をカウンター奥のキッチンの方に伝えに向かった。

「もうそれだよ!港の第3倉庫で受け取る流れだこれ。特製ロールケーキって裏ワードなのか?長谷川、何時でも通報できるようにスマホをテーブルの上に置いておけよ」

「え?通報?は、はい」

長谷川には一連の流れを全く理解できてはいなかったがとりあえずスマホをテーブルの上に置いた。


2人が注文してから5分もしないうちに奥の方から古賀は慎重に木製のトレイの上に長谷川が注文した水出しコーヒーと特製ロールケーキを持ってきた。

「お待たせしました!まずはこちら、かおりんが頼んだ水出しコーヒーと例の特製ロールケーキです」

長谷川の目の前のテーブルの上に特製ロールケーキが並ぶと驚いたように目を開く。

特製ロールケーキの正体とは生地にLUNAブレンドのコーヒーを練りこんだロールケーキだったのだ。

「これが特製ロールケーキ...見た目に驚きもしましたがもの凄く美味しそうですね!」

「でしょ!?カンナさんが作ったものはどれも絶品だけどこれは特に美味しいからね!たっくんのアイスコーヒーは今文おじ...マスターが用意してるからもう少しだけ待ってね!」

小柳がカウンターの方に目を向けるとマスターは横一列に並べてある数多いコーヒー器具を巧みに操りながらアイスコーヒーの準備をしていた。

「わかりました。じゃあ長谷川先に食べていいよ」

「いえ、せっかくですから小柳先輩の頼まれたアイスコーヒーが届くまで待ちますよ...はい...」

長谷川は特製ロールケーキを見ながら食べたそうに

言葉を発するため説得力の欠けらも無い。

「待たせたね、こちらが私の丹精込めて仕上げたアイスコーヒーだよ。必要であればガムシロップなどを用意させてもらうけど...?」

マスターはガムシロップを使って欲しくない気持ちが表情に出ており嫌そうに小声で小柳に話しかける。

「大丈夫だよ文おじ...マスター!たっくんはブラックコーヒー飲める大人だから!」

「そうか!君が遥ちゃんの話してたコーヒーの味がわかる男か!いやぁ良かった良かった!」

そう言って古賀は長谷川の隣に、マスターは小柳の隣に座って2人の頂く様子を伺う。

(これだとガムシロップ頼みづらいしコーヒーも飲みづらいな...)

「では、いただきますね!」

気まずい空気を感じていた小柳の気持ちを割くように長谷川はフォークで特製ロールケーキを1口サイズに切り分けて口に運ぶ。

目を閉じてゆっくりと咀嚼をすると長谷川は声にならないような幸福に満ちた声を発して頬と口角は上がり色気さえ感じるような表情になる。

「かおりんいい顔するねー!次は水出しコーヒーも飲んでみてよ!」

古賀の言われるがままに長谷川は咀嚼していた特製ロールケーキを1口飲み込み水出しコーヒーを飲むとアイスコーヒーでない理由がわかったように屈託のない笑みを浮かべた。

「ほう…これはポスターにしたいな」

「その気持ちわかりますよマスターさん」

正面で長谷川を見ていたマスターと小柳は自然と握手を交わす。目の前に天使が現れたようだった。

「お2人で握手してどうなされたのですか!?」

「長谷川が食事会に呼ばれる機会が多いって言ってた理由がわかった気がするわ」

「そうなんですか?私にはわかりませんけど...。古賀さん、水出しコーヒーをおすすめした理由はアイスコーヒーと比較してスッキリして優しい味になるからではないでしょうか?アイスコーヒーには苦味やコクがあり元々特製ロールケーキの生地にコーヒーが使用されているためくどくならないようにしたのですね!」

「そうなの?私はコーヒー飲めないから詳しくはわかんないけどマスターがそうしろって言ってたから...」

「よく気づいたね!それに君もコーヒーの味がわかるのか。舌も肥えてるみたいだし是非とも私達の店でバイトとして働いてもらいたいものだね」

「確かに!今バイト1人募集してるんだけどかおりんどうかな?かおりんの制服姿絶対似合うよ!」

「私ですか!?誘っていただいて嬉しいのですがアルバイトは家で禁止されているので難しいですね...ですがこのお店はお客としてまた行きますよ」

「そっかー、はるかおコンビでやっていけるかと思ったけど仕方ないか!だったらー?」

古賀はアイスコーヒーを飲みながら3人の会話を聞いていた小柳に目を合わせて長谷川からバトンタッチするかのようにバイトの話を持ちかける。

「え、俺ですか…?」

「そう!たっくん、ここでバイトしない?」

「いやいや、無理ですよ!接客業も未経験というかバイトすらした事ないしこの店に来たのも今日が初めてなんですよ?知らない事も多いし...」

小柳が否定的な意見を述べると隣に座っていたマスターは奥のキッチンの方へと消えていく。

その背中を見ながらマスターに少し悪いこと言ったかもしれないと反省する。

「誰だって初めてはあるよ!それに初めてのバイトだったらここがピッタリだと思うな!変に気を使ったりもしなくていいし社会勉強にもなってお金にもなるんだよ?よくない?」

古賀の発言には嘘偽りはない。最近何かとお金を使う機会が多くなった小柳はそろそろ何かバイトを始めようとは考えていたところだった。

「これ1回着てみようか。試しにね、試しに」

マスターがワイシャツとエプロンを手に持って戻ってくると小柳に渡して着るように指示を出す。

「これってこの店の制服ですよね?...試しにですよ?なんとなく展開読めてますけど...」

小柳は私服のTシャツの上からワイシャツとエプロンを着ると古賀は拍手をする。

「採用!ようこそLUNAへ!」

「ほらね!そうなると思ってましたよ!だいたい古賀さんはバイトですよね?マスターさんに断りもなく採用したらいけないのでは?」

「私は大丈夫だよ、遥ちゃんは私の姪だし君の事は前に聞いていたから大歓迎さ。コーヒーの味をわかる=採用だ」

「姪!?変に気を使わなくていいって言ってたのはマスターさんが親戚だからってことですか!?」

「そもそもマスターとカンナさんが夫婦で私がバイトの計3人でこの店をやってるからね!そして全員苗字が古賀、どう?アットホームな職場だよ!」

「アットホームというかホームじゃないですか!」

「本当は多くの従業員を雇って場所や店も変えたいがそこまで繁盛していないのが現状だから中々ね...せめてSKがこの店に来てくれたら流れが変わるかもしれないのだが...給料もこの町の最低賃金にはなるがそれでも良いなら私たちは喜んで君を雇わせてもらうよ」

「SK?すみません、何ですかそれ?」

「小柳先輩はSKを知らないんですか!?SK、通称スイーツキング。この町の何処か住んでいるというカフェ巡りが趣味の正体不明な伝説のレビュアーさんですよ!彼がレビューしたお店はたちまち人気店に変わるという逸話があるほどです」

特製ロールケーキを食べ終えた長谷川が生き生きとSKの凄さについて饒舌に説明する。

「そんな人がこの町にいるのか。知らなかったわ」

「若者の間でも人気はとてつもなく彼のレビューを参考にカフェに足を運ぶ方も多くいます。事実私も友達と出掛ける時もカフェ選びはスイーツキングのレビューの高い店ですね。もしこのお店をスイーツキングがレビューした場合...凄いことになること間違いないでしょう...!」

「そうだよね?まずこの場所に店がある事を知ってもらわないと。私はね、大人より若い子にもっとコーヒーの良さを知ってもらいたいんだ...!インストグラムやチックタックだけでは知り得ない事は山ほどある。そして、あわよくば触れ合いたい!」

マスターは悔しい気持ちを自分の握り締めた拳を膝にぶつける。それを隣から冷たい目で見る小柳。

「マスターさん後半から言い方がよろしくないですね。好感度最悪です。とにかく俺はこの店でバイトする気はそこまでなくて...」

「そこまで?可能性はあるということだね。もし君がウチの店でバイトしてくれるのなら最高の1杯をご馳走するけどね」

「まさかコピルアクですか…?」

「ほう、コピルアクを知っているとはこの店に来たのは偶然ではなくて必然だったようだね!まあコピルアクではないけど」

「違うんですか!俺もたまたま映画に出てきたから知ってるだけですよ」

コピルアクとはコーヒーチェリーを食したジャコウネコの糞から採れる未消化の希少価値の高い高級なコーヒー豆のことである。映画鑑賞が趣味の小柳は高校1年の頃に1日1本映画を観ていてその中にコピルアクが出てくる映画を知って興味はあった。

「それでもコーヒーについて多少は知識があるみたいだから一緒に働けると私は嬉しいな。遥ちゃんが言っていたけど来週から期末テストがあるんだろう?その後にでももし働く気がある場合は返事を聞かせて欲しいね」

「じゃあいつでもバイトできるって連絡できるように連絡先交換しておこうよ!かおりんも!」

古賀はスマホをエプロンのポケットから取り出して無理やり2人の連絡先を交換する。

「マスター、コーヒーのおかわりいいかな?」

「はい、ただいま。今日は来てくれてありがとうね。私は戻るから後はご自由に」

カウンター席に座っていた客に声を掛けられたマスターはカウンターの方へ戻る。小柳はマスターと客の楽しそうなやり取りに気持ちが揺らいでいた。

LUNAは地元民から愛されている店なのだ。

「小柳先輩、時間は大丈夫ですか?」

「ん?もう17時前か。長谷川は門限あるしそろそろ店出て駅まで送るよ」

「帰っちゃうのかー!またかおりんおいでね!たっくんはこれからよろしくね!」

「まだ決めたわけじゃないですから!それでお会計お願いしたいんですけど」

「マスターがいらないって言ってたよ!」

「え!?ダメですよ!マスターさん、しっかりとお金は払うのでお会計の方をお願いします」

「いいよいいよ、代金は今度の君のバイト代から引いておくから」

「もうバイトすること確定してるじゃないですか!」

結局何度か同じやり取りを繰り返した結果、食事代を支払うことなく古賀に物理的に背中を押された小柳は店を追い出されてしまった。


18時頃、駅で長谷川を見送った後に今日起きた出来事を振り返りながら自宅に帰宅した小柳の目の前には1階の階段前から2階を見上げて落ち着きのない母の姿があった。

「ただいま...そこで何してるの?」

「卓也!あ!卓也帰ってきたのねー!?おかえりー!おかえり卓也ー!卓也帰宅!おかえりー!何処に行ってたの卓也ー!」

母の異常な大声と焦る仕草は小柳にではなく2階に向けてのものだった。

「うるさいな...上に何かあるのか?自分の部屋にいるから夜ご飯できたら呼んで」

疲労した小柳は母の言動に気づくことなく階段を上がって自分の部屋に入ろうとドアノブに手を掛けようとした時、ドアがゆっくりと開いて目の前に立ち塞がる父と向かい合う。

「え?父さん...?何で俺の部屋に...?」

「たまには片付けろよ」

父は小柳に一言だけ伝えると仕事部屋の方に堂々とした身のこなしで戻った。

昨日部屋を片付けたばかりの小柳は自分の部屋に入っても朝に部屋を出てからの状態で特に変化を感じない。綺麗のままだ。

「見つかったわね。今日お父さんと買い物してた時に本屋に寄りたいって言い出してね。珍しく何かと思ったけどどうやらこれみたいね。...夜ご飯の準備ができたら呼ぶから下りてくるのよ」

開きっぱなしのドアから部屋に入ってくる母は小柳に勉強机の上に置いてあるラッピングされた本を指差すと1階に下りていった。

勉強机の前の椅子に座って小柳は早速ラッピングを綺麗に外して中身の本を確認する。

ラッピングを外す姿はまるでクリスマスにサンタからプレゼントを開ける子供みたいに目を輝かせていた。父からのプレゼントに心が踊る。

(父さんが俺に本を?そういや父さんから何かプレゼントされたのっていつぶりだろう…!)

「これは…」

中身は『異世界に飛ばされた俺でもできるCAD入門の件について』というCADをこれから始めるにピッタリの1冊だった。

小柳は1度天井を見上げて深呼吸して引き出しを開けると1冊の本を父から貰った本の隣に置いて両肘をつき両手で頭を抱えて震えた声で呟く。

「もう持ってるよ父さん...」

既に購入して読破し終えていた小柳は父に同じ本を持っているとは言えずに黙って隠すことにした。

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