甘々の空気と重々の空気

 隣から砂糖の匂いがする。


 小説とかで甘い雰囲気という単語が出てきたら、毎回さすがに比喩だろうと思っていた。


現実に直面してみると分かるが、比喩じゃなかった、本当に砂糖の匂いがした。チョコケーキに砂糖をかけました、みたいな。


「陽太、ここの問題、教えてくれる?」

「もちろん」


 喋り方はこれまでと大して変わったという印象はないが、なんというか表情とか声色で月渚先輩が陽太先輩に甘えていることがわかる。


 それに距離感も今までより明らかに近くなっていて、先輩たちが付き合ったんだなあと感じられる。


 これまであまりにストイックすぎた代償として仕方ないのかもしれないが、やっぱり集中できない。


 翠も同じ考えだったようで、口を開いた。


「日向くん、あの二人さすがにイチャイチャしすぎじゃない?」

「そうだよな。仲が良いのは良いことだと思うけど、あれだけやられると集中しづらいというか……」

「止めた方が良いのかな……?」

「でも、月渚先輩のこれまでの努力を考えると迂闊に止めるのは良くない気もする」

「そうだよねえ」


 月渚先輩がこれまで常人とは思えないほどの努力をしてきたから、そのご褒美としてあれくらいは甘んじて受け入れるべきなのかもしれない。


 そう思って勉強を再開するが、なかなか集中できない。


 でも、場所を移動しようにも陽太先輩や月渚先輩がいなければ誰も翠に勉強を教えることが出来なくなってしまう。


 実際、今も翠は陽太先輩に勉強を教わりに行った。


 のだが。


「だからこう、感覚的にわからない? 教えるの難しいな……」

「すいません、わかりません……」


 陽太先輩は、絶望的と言っていいまでに勉強を教えるのが下手だった。


 そこで、完全にネタキャラと化していた月渚先輩が助け舟を出す。


「ここは、あえて論理的に考えるなら……」

「なるほど!」


 さすが月渚先輩、これまでのイメージで行くならばぴったりイメージ通りといった感じだ。


「でも、あの姿を見てるからな……」

「最近の月渚先輩を見てると、やっぱり意外って思っちゃうよね……」


 こちら側の席に帰ってきた翠が苦笑しながら同意した。


 俺は、月渚先輩が陽太先輩に告白された直後のあの姿を知っているから、尚更だろう。ギャップに驚きを抑えきれない。


「学年三位としては当然のはずだけどね」

「陽太先輩は学年二位なのにこれなのか、ってツッコミを入れざるを得なくなるから、順位と教える上手さは関係がないと思う」


 陽太先輩に関しては、日ごろに格好いい姿を見せられているから、逆の意味でギャップを感じる。


 いや、出会ってすぐのときは月渚先輩の方が真面目だっていうイメージもあったんだけどね……。


「日向くん、なにか私に関して失礼なこと考えてない?」

「月渚先輩、いつの間に。失礼なことは……考えてませんよ、あんまり」


 実際はそこそこ失礼なことを考えていたような気もするが、正直に告げるわけにもいかないので黙っておく。


「……ちょっと不安だな」

「月渚、勉強に集中しよう。時間はもうない」

「陽太。その通りだね、ごめん」

「月渚には、俺と同じ学校に来てほしいから」


 二人の関係は少しずつ平常へと戻っていき、月渚先輩の様子も陽太先輩から告白を受ける前の格好良いものへと戻っていた。


「月渚先輩はこういう時が一番格好良いよね」

「俺も、こんな感じの雰囲気をまとってる時が一番好きだ」


 俺と翠の意見は完全に一致した。


 かりかりと、集中していることを示す鉛筆の音が短い間隔で俺の耳に届き、俺も問題に集中した。




「テストの前日も終わっちゃったね……。日向くんとの賭け、緊張するなあ」

「俺も、賭けに負けたら何をさせられるのか不安で仕方がない」


 かなりの天然要素が入っている翠がもし勝ってしまったら、俺にどんな無茶苦茶な命令をしてくるのか。


 そのことを考えるだけで夜も眠れないくらいには不安だ。


「私も、テスト前日はすごく不安だけど、期待もある。また陽太に差を広げられるかもしれないっていう不安があると同時に、もしかしたら、って期待がある」


 尋常ではないほどの努力を重ねたからこそ、努力が報われないのは怖く、努力が報われることには強い期待を感じる。


 俺も何度か似たような感情を味わったことがあるように思うが、月渚先輩のそれは、努力量と比例して俺のものとは比べ物にならない。


 そんな月渚先輩に被せるように、陽太先輩が喋り始めた。


「俺はこれ以上の"最高"が存在しないってわかってるから、期待の気持ちはないと思うかもしれないけど、そうじゃない。俺はどこかで、月渚が俺に追い付いてほしいと思っている」


 それは、誰よりも月渚先輩のことを近くで見てきて、すべて知っているからこそ抱く感情。


 月渚先輩がどれだけ苦しんで努力してきたか、それを本人よりもわかっていて、そのうえで高みで待っている陽太先輩にしか言えない言葉。


 冗談みたいだった先輩たちの掛け合いが嘘だったかのように、先輩たちは重圧を背負っているようだった。


 付け焼刃の努力をした俺や翠とは格が違うような重圧を、先輩たちは背負っているようだった。


 そんな重苦しい緊張を帯びた沈黙の中で、俺は下手に口を開くことが出来なかった。下手な言葉は、先輩たちの覚悟に傷をつける結末になってしまう。


「日向くん。私が今こうやって不安と期待を背負って戦えるのは、君が私に気づいてくれたおかげ。ありがとう」

「お礼は、俺よりも陽太先輩に」

「いいや、今の俺にとって月渚は敵だからな。お礼なんて受け入れてやらない」


 たかがやる気を出すためだけに提案した、ほとんどお遊びのような俺たちの賭けとは比にならない、激しいぶつかり合い。


 俺たちのちっぽけな戦いと、先輩たちの重々しい戦いでは、背負っているものの重さが、本気度が違った。


「今度こそは陽太に勝つ」

「やってみろ、俺はどうせ満点だからな。満点そこで待っている」


 言葉を交わしあった先輩たちは、普段の馬鹿みたいにふざけた態度とは不釣り合いな、不敵な笑みを各々の顔に湛えた。

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