慈雨

松本貴由

慈雨


 が為に、慈雨はしくしくなけばこそ、踊る水面に咲く青蓮華。



 神仏はあらゆるものに宿りたる。万物の移ろい行くは現世うつしよの理なりと思し召すなり。

 人の世は文明開化の名のもとに理を外れゆくもの。神頼み、雨乞いなどは、古来より人の業とも言うべきものなり。



 八百万やおよろず、天上界は、東の地、雲を隔てた遥かかなたに。


あまの姫、今日もきょうとて、贄だぞよ」


 現れたいかづちの神、姫の父。綿雲に浮かぶ極彩色の池、美しき色とりどりの蓮眺め、悠と歩みつ明朗と発す。

 池の淵、菩提樹の根によりかかり、姫は憂いの息を吐くなり。


「わたくしは贄などいりませぬゆえに、あの者どうか、どうか帰して」


 艷やかなぬばたまの髪たゆませて、姫は御池を覗き込む。力無く伏せたまなこの先にある、はるか下界の枯れた大河おおかわ。河べりにぽつりと磔られた男。


「ならぬのだ。我が言霊は雷轟よ、ただ悪天のしるべなるのみ」

「おとうさま、ならばこの聲、どのように現世の民は聴くのです」

「聴かれぬぞ。何人たりとも聴かれぬぞ、俗世は今や神託も濁り歪んでおるゆえに」


 目を細め静かに語る父を見て、姫はふたたび雲間を覗く。

 美丈夫はさも待ち焦がれるかのごとく、顎先上げて天を見据える。凛とした両の眼は疑いも偽りもなく、翳もまた無し。

 虹色の水面を撫でる白い指、波紋は姫の胸の内なり。


「あの者は、わたくしを見るあの者は、濁りも歪みもしておらぬ。憐れです、どうぞ助けてさしあげて」

「ならぬもの。娘よ、あれをなんと視る。あれこそはそなたの供物なる者ぞ」


 若衆を雨の女神の生贄に。さすれば恵みを与え賜う。

 痩せた地のいにしえよりの慣習は、姫の心を深く苛む。


「わたくしは頼んでいません、そんなこと。若い男に焦がれるなどと」

「人間の浅ましさゆえ、是非も無し。雨の神もしも男子おのこであったなら括られるのは生娘ぞ」

「痛ましや、なんと愚かなことでしょう。わたくしのお慕いするは唯ひとり、他には誰もいりませぬのに」

「与太を云う。そなたの役目しかと見よ」


 いたずらに水面を乱す姫に言い、赤白紫の蓮掻き分ける。

 下界には玉色の池も蓮もなし。魂の在り処は肉にあらずとも、執着は肉持つもののさだめなり。弱きもの食われることは摂理なり。

 磔の杭にたかるは鷲、鳶。

 雲近く翼を広げ、旋回し、今か今かと獲物を狙う。信仰を持たぬ鋭利な瞳孔は、ただ本能を宿すのみなり。


「そうらそら、腹をすかせておるゆえに、祈りなど畜生どもには分かるまい」


 雷神は愉快愉快と覗き込む。

 垂涎し叫喚猛るけだものは男のやわい肉を啄む。

 姫は耳塞ぎ目を塞ぐ、なれども、聴かぬわけにはゆかぬものなり。

 父の声、細くまばゆき稲妻の雲間に橋を渡し歩く。


「哀れよの。じきにそなたの兄が来る。そうらそら、枯川と命運ともにして、人身御供は無駄死にじゃ」


 橙雲を燃やし足蹴に退け去りて、東の空に呵呵と現る。

 姫の兄、日輪太子のお出ましに、凡夫のまなこやにわに眩む。逆剥さかむけて血もしとどなるその肉は、照らされ咲いた蓮のごとく。

 兄君の豊かな微笑みを前に、目を潤ませ首を振るう姫。


「兄上様、おやめになって、そんな顔」


 日輪のなおも輝き増し増して、あらゆる影を飽和せんとす。空包む御心ままの破顔には、人や獣の境などなし。


「我こそは森羅万象生命の道標みちしるべゆえ、絶やさぬものよ。そなたこそ、かような痴態、なんとする」


 笑みのまま姫を一喝する兄は、されど妹想うあまりに。

 激昂と微笑が共存するように、厳しさと愛は表と裏のものなり。

 乱れ髪水面つついて蓮台の揺蕩うさまはまるで舞、離れるは離れがたきの裏がえし。

 厳かに見守る父の風ことば。


「そなたらのえにしの所以、心得よ。日と雨は我らが慈悲ぞ、万物の命を司るものよ」


 姫は意を決して兄に相対す。

 波立った池の淵から虹色の溢るるを防ぐ綿雲きぬの羽衣、濡れるのも構わず妹は語る。


「無論です、存じています。兄上の微笑みこそは晴天で、わたくしの涙は雨天と心得て、手を取りあってきたのですから」

「なればこそ、はよう泣かぬか、いもうとよ」


 日輪は痺れ切らして語気つよく、されど柔和に笑み宿す。

 その瞳、燃える瞳孔ひとみの真ん中に、震える妹の細い肩。

 水晶のごとき眼に兄だけを映して姫は訴える。


「わたくしが泣けばあの者、死にますわ。水かさの増した濁流押し寄せて、無垢な命を飲み込みますわ」

「それこそは本望となぜ分からぬか」

の命、無碍にはしたくないのです」

「それこそが無碍というのだ、愚かもの」


 兄ついに微笑が怒気に覆われて、晴れたる空に憂靄架かる。

 妹の心乱れてさざめいて、出づる積雲、曇天の相。


「わたくしの、泣いてばかりで疲れたと、胸は悲鳴を上げております。わたくしの涙を以って人が死ぬ、わたくしの涙を待って人が死ぬ、我が胸は泣くも泣かぬもただ悲愴のみ」


 有り体に俗世を透かす水鏡みずかがみ、乱れ咲く蓮の花びらはらはらと滑り踊るは女の烈情。


「わたくしも兄のとなりで笑いたい。微笑んで万象育む母となりたい」


 妹の叫びに兄はしずかに目を伏せる。暫し後かっと見開き、たちまちに霞を祓うはさだめか、情か。

 背を向けて歩みつ下界を一望す。

 降り注ぐ陽の筋まるで矢のごとく、万物徐々に渇きゆくなり。いけにえの魂、至極ゆうるりと、太子の慈悲に導かれたる。


「泣かぬなら日照りとともにあれは死に、また人柱がそこに立つのみ」


 揺るぎない聲と対なす色宿すやさしきひとみ、姫は知らまじ。

 日輪の遍く照らすこともまた、二面を以って理とす。育むも滅するも別け隔てなく、神は輪廻を慈しむもの。

 そしてまた、神といえどもきょうだいは支えあうのが常なれば、この兄は妹ありて兄であり、妹なくば兄でなきもの。


「おお、なんと、なんと愚かな人間よ。抗うことの出来ぬ身なれば、身を任せるが良いではないか」


 姫はなお気丈に嘆き、羽衣を翻しては菩提樹の根に腰おろし虚空を仰ぐ。きょうだいを見遣り、雷神微笑んで、娘に柏手を打ち語る。


「よう言うた、叶うことなき望みなら人も神も持たざることよ」


 言霊に宿る憐憫、姫は恥じ、俯きてまた池を眺める。沈むかのごとき黒天映す水面。散りぢりに浮かぶ花びら、葉はまるで軌跡のごとくいろを撒き、奥に若蕾を秘めるなり。ただ一輪、たった一輪、青い蓮、咲くその時を黙し待つのみ。

 姫はいざ瞼をしかと下ろすなり。滲む目尻に皺寄せて、身をふるわせて父の聲聴く。

 兄もまた背に池のしずかな氾濫を感じゆうるりと瞬く。


「天と日が父なら母は海と月。日月にちがつは表裏一体、夫婦めおとなり、雨とははたにあって然り。ゆえなれば涙ながすは劫罰よ」


 幼子に言ってきかせるかのごとく、いと和やかなまなざしを残して父は雲間に消える。

 池の水頷くように溢れ出で、零れ落ちたる花しずく。ぽつ、ぽつり、ぽろぽろ、やがて、ぼろぼろと、雨粒となって下界に届くころ、贄も獣もすでに息無し。ああ無常、項垂れ打たれ融けてゆく骸をあわれに思うのか、おのが宿命さだめを思うものかな。

 顔覆うしなやかな指の隙間より、堰を切っては止まることなし。


「ええ、まこと、そうでしょうとも。このように生まれた我が身思うゆえ伏せるはまさに業というもの。我がいのち、悲しみこそは我がさだめ。消すも癒やすも能うことなし」


 身を屈め、言霊強くその髄に含ませ抱いて嗚咽する。姫の頬伝う大粒、雲に落ち、縋りつく大樹の幹根、水を得て青々茂り大雲を纏う。

 姫の神たる姿見て日輪、踵を返し西へと帰る。

 その間際、姫はたしかにあたたかな光のごとき聲を背にきく。


「さらば、姫。されどそなたの兄ゆえに、我は何時いつでもそばにおるぞや」


 顔を上げ、姫は視線を通わせる。

 その刹那、まばゆい兄の微笑みは、刹那、妹ただひとり、雨の空のみ照らし給うた。


 日輪の雲の向こうに去りしあと、残された姫は孤独の静寂を慰めるように声上げるなり。寂寞と悲哀がないまぜ潮流のごとく、自らまることなし。

 ぼろぼろと、ついにごうごう、轟々と、下界には日照りを完し余りあるほどの大雨降り注ぎ、河や土、根は豊穣の糧蓄える。人びとも獣も蟲もみな踊り、恵みの雨と浴びて喜ぶ。川べりの骸は総て流れゆき、やがて母なる大海のかいなに抱かれ揺られては、いのちの息吹また巡るなり。


 悲しむはただ雨の神ひとりのみ。

 枯れ果てた御池に青の大輪が、姫のなみだにそっと寄り添う。




が為に、慈雨はしくしくなけばこそ、踊る水面に咲く青蓮華』








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慈雨 松本貴由 @se_13

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