弐
終わり行く時
「うわあああああんっ! 怖かったよぉおおおお! 食べられるかと思ったよおおおおおおっ!!」
「こんなに怯えて、可哀想に……もう大丈夫ですからね……」
それが、クロムとルナの出会いだった。
時を遡ること半年前。
じめじめとした梅雨の夜。
江戸の細く暗い長屋街の奥で野犬に追われ逃げ惑っていたクロムは、偶然通りがかった一人の女性――ルナ・トリスティアに助けられた。
「貴方のお名前は? お家はどこかわかりますか?」
「わ、私はクロム……家は、ない……」
「まあ……」
神の力を失い、
だがそんなクロムを、ルナは海よりも広い優しさで癒やし、なにも聞かずに自らが営む
「さあさ、朝ご飯の用意が出来ましたよ。まずは沢山食べること……そうして元気になれば、不安な心も少しずつ落ち着いてきますから」
「い、いただきます……っ!」
ルナと共に過ごした江戸での日々。
それは神であるクロムにとって、奏汰と過ごした旅の日々とは異なる初めての体験に満ちていた。
奏汰とは、共に神と勇者という〝超常の領域〟で思いを共有した。
しかしルナとの暮らしにそんなものはない。
それどころか、クロムは自分を保護し、無償の優しさを向けてくれるルナに対して〝なにもしてやれることがなかった〟。
タダ飯を喰らい、住居と衣服、さらには現世における知識すらルナに施しを受けておきながら、神であるクロムにそれらの恩を返す術は〝一つもなかった〟のである。
「なにか手伝えることはない? この私がなんでもやってあげるよっ!」
「お手伝いですか? うーん……そうですねぇ……」
「むむっ!? 桶の中に、今朝の食器がまだ残っているじゃないかっ! なら今日は私がこの食器をぴかぴかに洗って――ぎゃあああっ!? つ、冷たいいいいいっ!!」
「クロムさんっ!?」
クロムがルナに拾われてから数日。
なんとかしてルナの力になろうとしたクロムは、水桶に溜まった井戸水の〝想像以上の冷たさ〟に驚き、江戸の世においては相当に貴重な食器を割るという失態すら見せた。しかし――。
「ご、ごめんなさい……っ。そんな……こんなはずじゃ……!」
「お怪我はありませんかっ!? ……お椀の破片を踏んでしまったら大変ですから、少しの間良い子でここにいて下さいね」
「あうぅ……」
しかしルナの持つ優しさと抱擁力は、神であるクロムの想像を遙かに超えていた。
だが実際のところ、ルナのその態度は子を想う親であれば……たとえ親ですらなかったとしても、年長者が幼少の者に向けるものとして、そこまで特別な対応でもないだろう。
だが、そんなことすら
自分たち神が生みだした心ある命たちは、弱者に対して誰よりも残酷になることも、誰よりも優しく、暖かになることもあるのだということを――。
「どうしてルナは、私にここまでしてくれるの……? 今の私にはなにも出来ない……むしろ、私は君に迷惑ばかりかけて……」
「そんなことありませんよ。言葉で説明するのはとても難しいのですけれど……私はクロムさんに会えて良かったって、いつもそう思っていますから」
神……それも高位の神として、生を受けた瞬間から完成された存在だったクロムは、常に他者に対して〝与える側〟として君臨してきた。
神としての責務も。
奏汰と共に旅立った戦いの日々も。
そのどちらにおいても、絶対強者である神の力でか弱い命を守らねばという、神特有の〝高慢とも言える価値観〟による行いだった。
だがしかし。
力を失い、誰かに守られねばまともに生き存えることもできなくなったクロムは、ルナとの日々で初めて命の持つ優しさを知り、〝養われる立場〟となった。
そうなったことで初めて、クロムはとうに遙か過去へと過ぎ去った原初の神々が一体なにを思い、なにを目指して命を生み出したのか――ほとんどの神が忘れてしまった〝始まりの願い〟に気付いたのだ。だが――。
「以前……私もここの皆さんに、〝償い切れないほどの傷〟を残してしまいました。それでも私を受け入れてくれた皆さんのために、私は出来る限りのことをしたいのです……」
「え……?」
暖かなルナとの日々が積み重なるにつれ。やがてクロムは、常に陽光のように穏やかなルナが見せる〝一抹の影〟を目にとめるようになる。
「ルナは今も、ここで沢山の人に感謝されてるじゃないか。私も奏汰も……他の皆も、ルナがいなかったら助からなかった命だっていっぱいある……それなのに、なにを気にすることがあるっていうの?」
「ふふ、クロムさんは本当に優しい子ですね。でも――」
そして現在。
ルナの見せるその影は、はっきりと〝悔恨〟の色を帯びるようになっていた。
「でも私は思うのです……私のしたことは、たとえどのようなことを成しても償えるものではない。だって……私がこの手で癒やすことが出来た命は、もう失われてしまった命とは違うのですから……」
「失われた、命……」
間もなく満月を迎える月が、江戸の夜空に輝く。
今頃、神田屋では奏汰と
「ねぇ、クロムさん……貴方さえ良ければこの先もずっと、クロムさんが立派な大人になって独り立ちした後も、ずっとここにいてくれていいんですからね……」
「ルナ……」
しかし、クロムはルナと共にいた。
無条の闇を奏汰と共に無事片付ければ、それは即ちクロムがこの世界から去ることを意味している。
だから、クロムはここにいる。
初めて知ったぬくもりと。
初めて教えられた優しさの傍で……少しでも長く過ごすために。
「さあ……もう寝ましょう。今日も、私がお休みの子守歌を歌ってあげますからね……」
「うん……ありがとう、ルナ……」
――――――
――――
――
〝舞へ舞へ
舞はぬものならば
踏み
華の園まで遊ばせむ〟
薄闇の中。
ルナの優しい歌声が響く。
それはどこか懐かしく、たしかに幼子を眠りに誘うような拍子の歌。
しかしその歌詞は、子守歌かと言われれば首を傾げるような奇妙な歌でもあった。
そして、かつて一度だけその子守歌の意味を尋ねたクロムに、ルナは何かを懐かしむようにして答えた――。
「この歌は、私がここに来たばかりの頃……最初に〝私を救ってくれた人〟が教えてくれた子守歌です。でもその人のお子さんは、この歌では全然眠ってくれなかったって、いつも言っていたんですよ――」
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