日だまり


「お帰り、奏汰かなた

「お帰りなさーいっ!」

「ただいま! 今日は父さんも帰るの早かったんだね」


 その日。


 いつも通り学校から帰宅した奏汰は、普段ならまだ家にいないはずの父の声があったことに驚いていた。


 季節は高校一年の春。

 奏汰は胸に期待と不安を抱えながら、新しい生活をスタートしたばかりだった。


「明日の旅行の準備をしないといけないだろ? 今回は大荷物だから、僕もママの手伝いをしようと思って」

「パパのおかげでとっても楽になっちゃった。いつもありがとね」

「じゃあ俺も手伝うよ」


 そう……それは奏汰がまだ勇者となる前の日々。


 かつて、奏汰が確かに手にしていた暖かな日常。

 これからもずっと、少なくともあとしばらくは感じていられるはずだと思っていた――〝日だまりの記憶〟だった。


「ところで、奏汰の学校はどう? 友達は出来た?」

「楽しいよ。旅行から帰ったら、部活のみんなとも遊びに行く約束してるし」

「昨日も学校の友達と一緒に帰ってきてたもんね。奏汰は私に似てコミュ力あるから、心配いらないでしょ!」

「うんうん。どんな学校でも、楽しいのが一番だからね」


 優しく、穏やかで気配りのきく父。

 明るく快活で、誰とでもすぐに打ち解ける母。


 奏汰にとって、二人は自慢の両親だった。

 

 特に意識してはいなかったが、自分もいつかは二人のようになりたいと……成長した自分を見て、父と母が喜ぶような大人になりたいと思っていた。だが――。


「なあ奏汰……奏汰は今、幸せかな?」

「え……?」


 家族総出の旅支度の最中。


 準備をあらかた終えた父が、大きなボストンバッグのファスナーを閉じながら、先ほどとは異なる様子でそう呟いた。


「〝そっちで〟奏汰は元気にやってるのかなってこと。どうなの? 変な病気にかかったり、大怪我したりしてない?」

「父さん……母さんも……」


 父と母にそう尋ねられ、奏汰は目の前の光景の意味をすぐに悟った。

 

 もう二度と、自分がこの日だまりに戻ることはない。

 もう二度と、目の前にいる父と母に挨拶を交わすことはない。


 とうに全て失われ、二度と戻ることはないということに――。


「……元気だよ。あれから何度も、もう駄目だって思ったこともあったけど……今はもう、大丈夫だから……っ」

「……そうか。それなら良かった」

「やっぱりね。わざわざ聞かなくたって、私は奏汰なら大丈夫って信じてた」


 奏汰の言葉に、父と母は安心したように微笑んだ。


 思えば、何度となく夢に見た両親が奏汰に笑みを向けてくれたのは、これが初めてのことだったかもしれない。


「ごめんね……奏汰を一人にして。こんな旅行になんて、行かなきゃ良かったね……」

「奏汰が元気そうで本当に良かった。僕たちはもう傍にいてあげられないけど……どこにいたって、奏汰は僕とママの自慢の子供だからね」

「……っ!? 待って……! 話したいことはまだ――っ!」


 夢が終わる。


 急速に遠ざかっていく日だまりの光景に、奏汰はそれでも必死に手を伸ばし、叫んだ。


「俺もそうだから……っ! どんなに辛くても、父さんと母さんののおかげで頑張れた……! 今は好きな人も出来て……その子と一緒に暮らして……二人で仕事も始めて――!!」

「え、えええええっ!? そ、それはいくらなんでも色々と早すぎるんじゃないのかいっ!? ど、どうしようママっ!?」

「あはははっ! いいねいいね~っ! なら奏汰も、ちゃんとその子を大切にしてあげなね――」

「うん……っ! ありがとう……ずっと、大好きだから――っ!!」


 どれだけ遠く離れても。

 たとえ、もう二度と会えなくとも。


 それでも忘れることはない。


 もはや、奏汰の心にあるのは感謝のみ。自らを生み育て、最後の時まで暖かな日だまりで包んでくれた、最愛の両親への感謝のみだった――。

 


 ――――――

 ――――

 ――



「あ……」

「奏汰さん……?」


 遠ざかる父と母に向かって伸ばされた奏汰の手。


 しかし今。常であればただ冷たい虚空を掴むだけだった奏汰の手は、失ったぬくもりとは〝別の暖かさ〟によって包まれた。


新九郎しんくろう……? ごめん、起こしちゃった?」

「いえいえっ! もうすぐ夜明けみたいですし、僕も丁度良かったです。奏汰さんの方こそ大丈夫ですか? なんだか、すごくうなされてたみたいですけど……」


 夢から覚めた奏汰の視界一杯に、同じ寝所で彼にぴったりと身を寄せる新九郎の浅緑せんりょくの瞳が飛び込んでくる。


 夜明け前の薄明かりの中にぼんやりと浮かぶのは、その艶やかな浅緑混じりの黒髪をまっすぐに下ろした、日中とは異なる新九郎の大人びた美しさ。そして奏汰の身を心から案じ、優しく握られた暖かな手のぬくもりだった。


 もう決して埋められないと思っていた喪失の先。


 今や最愛となった少女がこうして隣にいてくれるという事実に、奏汰は愛しさと感謝で胸が一杯になるのを感じた。


「大丈夫……全然悪い夢なんかじゃなかったよ。どっちかっていうと、いい夢だった……きっと、新九郎のおかげで〝いい夢になった〟んだ」

「僕のおかげですか? あ、でも――」

「ん……?」


 その時。薄闇の中で何かに気付いたらしい新九郎は、僅かにはだけた寝衣しんいのまま奏汰の目元にそっと口づけ、ぺろりと舐め上げた。


「えへへ……奏汰さんの涙、ちょっとしょっぱいですっ」

「涙……? 俺、泣いてたんだ……」


 それはまるで、懐いた猫が人にするような仕草。


 気付かぬうちに零れていた奏汰の涙を口づけで拭った新九郎は、そのまま肌身も凍る冬の寒さから逃れるように、かつての貧乏時代とは異なるふかふかで分厚い京布団をたぐり寄せ、奏汰の胸元に身を預けて丸くなった。 


「奏汰さんがどんなに怖い夢を見ても、悲しい夢を見ても……目が覚めたら、僕はいつでも奏汰さんの横にいますから……離れろって言われても、絶対に離れませんっ! ふんすっ!」

「うん……俺もそうする」


 胸元で丸まる新九郎を迎えるように彼女の背に手を添え、奏汰は心からの感謝を伝えた。


「でもでも、奏汰さんが見てた夢ってどんな夢だったんです? 悪い夢じゃないなら、僕にも教えて下さいよーっ!」

「どんな夢か……なんだろう……俺の父さんと母さんに、新九郎を紹介する夢?」

「ぴええっ!? そ、それってもしかして、僕と名実共に夫婦になるためのご挨拶なのではっ!?」

「そうかも……」

「どひゃーっ!?」


 かつて愛する両親から与えられ、遙か彼方へと遠ざかったぬくもり。

 しかしそのぬくもりは今も、奏汰と新九郎が二人で育てた日だまりとなって灯っている。


 与えられたぬくもりと。

 育んだぬくもり。

 

 そのどちらをも胸に抱き。

 今度こそ、この日だまりを失わぬために。


 長く続いた旅の終わり。

 勇者となった少年は、最後の戦いに臨もうとしていた――。

 

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