汚れた勇気


『オオ――――オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!』


 それは、江戸のみならず日の本全土に響く音。

 比喩では無くこの星全てに、さらには星の海を越えた世の果てまで響くほどの咆哮だった。


「ぐぅっ!? な、なんだ……!? 何が起こった!?」

無条むじょう様……っ?」


 伸助しんすけの指揮の下、押し寄せる鬼を相手に奮戦していた剣士たちも。

 台座の上で固唾かたずを呑んで皆の無事を祈っていた明里あかさとも。


 純銀の輝きをその身に宿し、無条の闇に飛び込んだクロムを除く全ての者が、それまでわらべの姿だった無条が〝巨大な闇の魔獣〟へと変貌するのをその目で見た。


「く……っ!? これは、マヨイガで見た無条の闇と同じ……!?」

「たしかに似てる……けど、ちょっと違う気もする……」

「どっちにしろ、ここで止めねーとやべーっしょ!!」


 溢れ出す闇を前に、無条と対峙する三人が前に出る。

 先ほどまで、母を求めて泣き叫ぶ分霊は確かにカルマたちによって押さえ込まれていた。


 時臣ときおみ奏汰かなた新九郎しんくろうが抑え、分霊はクロムの感応が終わるまで封殺する。

 すべては当初の作戦通りに進んでいるはずだった。


『オオオオオオ――!!』

「あぐっ!?」

「こい、つ……っ!?」


 だがしかし。闇の魔獣と化した分霊に再び挑みかかったエルミールは近づくことすら出来ずに弾かれ、雷撃と共に飛び込んだ緋華ひばなもまた、エルミールと同様に一撃の下に打ち捨てられる。


「この野郎……!! ちょっとは大人しくしろってんだよぉ――――ッ!!」


 圧倒的暴威を見せつける闇を前に、ありったけの短剣を召喚し、その全てに橙色だいだいいろに輝く勇者の力を纏わせたカルマが飛ぶ。しかし――。


「がぁ――ッ!?」


 閃光を纏ったカルマの千刃せんじんはまたたく間に無条の闇を切り裂いたが、闇はまるで小蠅こばえでも払うかのようにその漆黒のかいなを振り、疾風と化したカルマの身を河川敷の大地に叩きつける。


「ぐっ……! カル、マ……!」

「だめ……あなたも、動ける体じゃない……っ」


 カルマの窮地。それを見たエルミールは立ち上がろうと力を込めるが、すでに緋華共々満身創痍となった体は満足に動くこともできない。


「ちく、しょう……やっぱ……〝おっさんの言うとおり〟だったってことかよ……また、しくじっちまった……」


 眼前に迫る闇の津波。

 カルマはもはや動かぬ片腕をだらりと下げ、血と泥にまみれた有り様ですすきヶ原に片膝を突く。


「なにやってんだ……これじゃ、なんのために百年もブラック労働してきたのか、わからねーじゃんねぇ……」


 もはやカルマは動けない。

 否、実際にはまだ動ける。

 足を引きずり、闇から逃げることも出来ただろう。


 動かぬのは心。


 もとより、それまでの誓いを破って〝明里を救ってしまったあの時〟から、彼の心は限界を超え、救いを求めて悲鳴を上げていたのだろう――。


「――ほら見ろよツムギ! 今日も兄ちゃんがうまいもんをたっぷり持ってきてやったからな! 一緒に食べようぜ!!」

「う、うん……でも、お兄ちゃん……怪我してるよ……?」

「にゃはは! こんなのかすり傷だよ。俺のことはいいから、冷めないうちに食べなって!」

「お兄ちゃん……」


 カルマは、幼い頃からそうしてきた。

 高潔で誠実な役人として知られていた両親は、カルマたち兄妹が幼い頃に野盗に襲われて死んだ。

 残されたカルマは、まだ物心ついたばかりのツムギを養うため盗みに手を染めざるを得なかった。


「お兄ちゃん……私もお兄ちゃんと一緒に働きたい。だってお兄ちゃん……いつも辛そうな顔ばかりして……」

「大丈夫だって……ツムギのことは、兄ちゃんが絶対に守ってやる。お父さんとお母さんの分も、俺が絶対にツムギを守ってやるから!」


 今も、昔も。

 勇者になる前も、勇者になった後も。


 カルマはずっと同じだった。


 妹のために。

 自らの願いのために法を破り、他者から奪い、そして苦しむ――。


 高潔で誠実な両親からカルマが与えられた〝暖かな原風景〟は、たとえ妹のためという大義名分があろうとも、犯罪や道理に劣る行いに手を染め続けるカルマの心を苛む足かせとなってしまった。 


 多くの人々の命をその手で奪ってきたという罪悪感。

 自らの目的のため、見捨ててきた数多の命。

 消えていく勇者たちを、ただ見ていることしかできなかった無力。


「ごめんな……ツムギ。俺……また間違えちまった……」


 カルマも、己の行いが正解ではないことは理解している。


 しかしそれ以外の道を選べなかった彼は、だからこそエルミールや奏汰のような光に希望を託そうとしたのかもしれない。

 

 百年の日々で散々にすり切れ、疲弊したカルマの心。


 無法を尽くして願いを果たそうと足掻いてきたカルマの心は、この絶対的な闇を前にしてついに瓦解しようとしていた。だが――。


「もう……おやめください、無条様」

「……っ!?」

『――――?』


 だがその時。

 凜と響いた一つの声によって闇が止まる。


「明里……!」


 声に気付き顔を上げたカルマの視界に、彼を救うために台座から闇のたもとまで歩みを進めた明里の姿が映る。


「明里は……〝貴方の母〟はここにいます。だからどうか……荒ぶるお心をお鎮め下さいませ……」

『オオ……オオオオオ……!』

「やめろ明里……!! そいつはそういう奴じゃねーんだ!! 俺は今まで、無条がそうやって人を飲み込むのを何度も見てきた!! だから逃げろ……さっさと逃げろってんだよ――ッ!!」


 それは、カルマにとって二度目の光景だった。

 かつて炎に包まれた太田宿おおたしゅくで、明里は彼女を慕う芸妓げいぎたちを守るために無条の前にその身を晒した。


 それを見たカルマはいてもたってもいられず、明里から光を奪い彼女を救った――救ってしまったのだ。そして――。


「ありがとう、風吉かぜきちさん……」

「っ……」

「貴方の言うとおり、今ここで私の生が終わるとしても……私にはもう、何も思い残すことはありません」


 全てを飲み込む闇と対峙しながら、それでも明里はその美しい浅緑せんりょくの瞳をカルマに向け、かつてカルマの心を癒やした暖かな笑みを浮かべた。


「あの夜……私は貴方に救われ、貴方と二人で過ごす穏やかな日々を今日まで過ごすことが出来ました。本当に、とっても幸せだったんです……こんなに幸せでいいのかなって……そう思うくらいに」

「明里……――ッ!」


 すでに、明里は覚悟を決めている。

 その覚悟を、カルマは彼女の瞳に見ていた。


『オ……オオ……!!』

「さあ無条様……私はもう、どこにも行きませんから」

『オオオオオオ――!!』


 辺り一帯に散らばっていた無条の闇が、現れた明里めがけて収束する。

 その勢いは、とても母を求めるわらべのものではない。

 山を砕き、海すら割るであろうその凄絶さは、間違いなく彼女の命を一瞬にして奪うだろう。


「駄目だ……っ」


 だがその時。

 明里の覚悟を見たカルマの手が、再び拳の形に握られる。


「駄目だ……! 駄目だ、駄目だ……!!」


 折れた心。

 崩れた意思。

 とうに限界を超えたカルマの胸に、最後に残されていた火が灯る。


「ここで消えるのは……絶対に〝俺の方〟だろうがよッ!!」

「風吉さん……っ!?」


 刹那。カルマの身から陽光のごとき橙色の光芒が伸びた。


 その光はまっすぐに無条の闇に伸びると、一瞬にして無条とカルマを結び、同時に〝無条の闇をカルマの肉体へと注ぎ込み始めた〟のだ。


「風吉さん……っ!? なにを……どうか、私のことは構わず……!!」

「にゃは……にゃはははっ! そんなん、どう考えても無理に決まってんじゃんねぇ……!? 下がってろよ明里……!! こいつのクソみてーな闇……この俺が全部パクってやっからよおぉおおおおおお!!」

『オオオ……ッ!? オオオオオ――!?』


 突如として発現したカルマの光。

 それを受けた闇が異変に気付き、その巨体をよじってもがく。

 しかしそれと同時にカルマもまた全身が軋み、見開かれた瞳から冗談のような量の鮮血が涙のように溢れ出す。


「逃がさねーよ……!! 昔っから俺にはこれしかなかった……!! けどこれだけは……欲しいもんは何がなんでも手に入れるって気持ちだけは……誰にも負けるつもりはねーんだよッッ!!」


 カルマから伸びる光の正体。

 それは彼が持つ勇者スキル、スティールの光。


 もはや己の命すら省みずに発動した決死のスティールによって、カルマは無条の闇を全て奪おうとしていたのだ。だが――。


『オ……オオオ……!?』

「駄目ですカルマ……!! いくら貴方でも、あまりにも無茶です――!!」

「これで、いいんだよ……! 俺はもう……この百年ずっと間違えてたんだ。おっさんみたいな覚悟も、かなっちみたいな勇気も……俺には、どっちも選べなかった……半端もんだったんだよな……」


 カルマの決死を見て取ったエルミールが、負傷を押してカルマの元に駆け出す。

 しかしカルマは、先ほどの諦観ていかんとは違う自嘲じちょうの笑みを浮かべ、やつれた表情でエルミールに視線を向けた。


「けど、〝今はもう違う〟だろ……? もうここには、エルきゅんもかなっちもいるもんな……わりーけど……妹のこと、頼むわ」

「風吉さん――っ!」


 瞬間。無条の闇とカルマの光が一つになる。

 一つになった光と闇は一瞬にして弾け、閃光の先に何もかもを消した――。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る