勇者の恐怖


『おっかぁ……おっかぁよ……どこ、ぞ?』

「た、助けて……ッ! どうか、命だけは……! ぎあ……!? ぎええええええええええええ――ッッ!!」


 災厄。

 漆黒の闇に包まれていた太田おおたの宿場街に、天をも焦がすほどの炎と、絶望の断末魔が響き渡る。


 今、天川宿あまかわやどの老主人をその手で握り潰し、血煙と肉塊へと変えたのは〝人型の闇〟。


 その闇は燃えさかる炎に包まれていながら闇を維持し、むしろ周囲の炎の光を飲み込むようにして、何かを探すように周囲に視線を巡らせている。


「あ、ああ……っ。怖い……怖いよぅ……!」

「おっかぁ……おっとぉ…・・・!」

「大丈夫……! 大丈夫だから……何があっても、皆を必ずここから逃がしてあげるから……!」


 地獄絵図の外れ。

 そこには、炎の中で執拗に何かを探す影から隠れ、いまだ崩れていない建物の影に身を埋める芸妓げいぎたちの姿があった。


 それは、天川宿の芸妓衆。

 闇が襲来した際に迷わず機転をきかせた明里あかさとによって難を逃れた、少女たちの一団だった。


「もう駄目です……っ! 旦那様も死んで、他の皆も死んで……っ! 私たちも、ここで死んじゃう……っ!」

「えぐ……っ。えぐ……っ。どうしてこんな目に遭うの……? わたし、毎日仏様にお祈りしてたのに……!」

「弱気にならないで……! あの鬼は私たちに気付いてない……それに、ここは風上だから火が来るにも時間がかかる。絶対に助かるから……ね?」

「明里さん……っ」


 すでに、彼女たちの半数は闇と火に食われた。


 あまりにも理不尽な現実に泣きはらし、絶望の嗚咽を漏らす彼女たちを、しかし明里はその浅緑せんりょくの瞳に気丈の光を灯して必死に励ます。


 だが、見れば明里とてすでに〝無傷ではない〟。


 逃げ遅れた幼い芸妓を救う際に足を痛め、その美しいかんばせは泥とすすで散々に汚れていた。


(私はどうなってもいい……でも、この子たちは……)


 郷里きょうりに残してきた弟妹きょうだいたち。

 そして今、絶望の中で身を寄せ合う苦楽を共にした仲間たち。


 常に多くの人々から慕われ、頼られ続けてきた明里にとって、救いと癒やしを求める大切な存在に手を差し伸べるのは当然のこと。

 そして彼女の強固な意志は、この絶望の淵にあっても揺らぐことはなかった。だが――。


『おっかぁよ……〝明里よ〟……どこ、ぞ……?』

「……っ!?」


 だがその時。

 地に伏せて涙を流す他の少女たちとは違い、必死に顔を上げて脱出の隙を伺っていた明里の耳に、〝鬼の声〟が届く。


『明里よ……おっかぁよ……どこに、おる……?』

「この声……まさか……っ?」


 聞き間違えではない。

 彼女が聞いたその声は、間違いなく京で出会った皇族の一人――無条親王むじょうしんのうその人の声。


 しかもあろうことか、その声が必死に探し求めているのは他ならぬ明里自身だというのだ。


「そんな……あの鬼が無条様? なぜ……どうして私をっ?」


 突然の事実に、一瞬にして明里の脳内に無数の疑問が浮かぶ。


(ううん……今はもう、そんなことはどうでもいい。あの鬼の目当てが、私だというのなら……)


 しかし江戸の明星みょうじょうとまで謳われた希代の才媛は、それらの疑問を即座に横に置き、自らが今ここで成すべき事を覚悟する。


「私があの鬼の気を引きつける……皆は、その隙に森に向かって逃げて」

「明里様……?」

「明里ねぇ……? な、なに言ってるの?」


 明里は傷ついた足でなんとか立ち上がると、炎の中で母を求める鬼を真っ直ぐに見つめた。


「私は、もう走れないから……だから、私がみんなの囮になります」

「そんなっ!? そんなの嫌だよぉ!!」

「一緒に逃げようよ! 明里ねぇ!」


 明里の言葉に、彼女を信じて逃げてきた少女たちが縋り付く。

 しかし明里は少女たちを優しくなだめると、あまりにも悲壮な笑みを浮かべ、改めて逃げるよう促した。


「一度森に入ったら、夜明けを待って街道に戻って。そうすれば、きっと誰かが助けてくれる……皆、どうか無事で」

「明里ねぇ!!」


 最後にそう言い残し、明里は一歩。また一歩と炎の中を闇に向かって歩いて行く。

 

 もっと早くこのことに気付いていれば。

 もっと早く自分がこうしていれば、いなくなってしまった大勢の人を助けられたかもしれないのに。


 死地へと向かう旅路でありながら、明里の胸に去来するのは助けられなかった少女たちや村人……そして目の前で砕かれた、天川宿の老主人への懺悔ざんげだった。


「無条様……明里はここにおります」

『お……おお……!? おおおおお……!? おっかぁ……おっかぁ!!』


 無条の闇が明里に気付く。


 それまで家々すら超える巨躯を誇っていた影が、どことなく無条を思わせる輪郭へと変じ始める。

 闇はそのまま明里へと……というよりも、彼女の澄んだ〝浅緑の瞳に向かって〟その巨大な腕を伸ばし、彼女の身をその内に取り込もうとした。だが――。


「――すまねぇ。明里さん」

「え――?」


 だがその時。

 一陣の風が闇と炎の狭間をはしる。


 明里へと伸びた闇の巨腕をかいくぐるようにして。

 闇から明里を〝かすめ取るように〟して、影すら残さぬ疾風が彼女の身をその場から消し去ったのだ。


『あ……ああああ!? おっかぁ!? おっかぁあああアアアアアアアアアア――!!』

「あれに一度捕まっちまえば、どっちにしろあんたは〝死ぬ〟……あんたを助けるには、〝こうするしか〟なかった……」

「この声……まさか、風吉かぜきちさんなのですか……っ? けれど、辺りが〝とても暗くて〟……貴方のお姿が……」

「…………」


 現れたのは、無法の勇者カルマ。

 風吉と名乗り、無条と同様に京で明里とえにしを結んだ異界人。


 突然のことに狼狽うろたえる少女の身を抱え飛びながら、カルマはあまりにも深い悔しさをその表情に滲ませた。


「違う……! 〝そうしたのは俺〟なんだよ……! 俺じゃあいつには手が出せねぇ……! 俺みてぇな弱い男には、これしか方法がねーんだよ……!! ごめん……本当に、ごめんな……っ」

「風吉さん……」


 気付けば……光を失った闇の中で明里の身と触れ合うカルマの体は、〝恐怖で〟小刻みに震えていた。

 そんなカルマの腕を、明里はまだ己の身に何が起こったかも理解せぬままに、なだめるように胸に抱いた――。


 ――――――

 ――――

 ――


 これが、太田宿の鬼。


 一晩にして町一つを更地に変えた鬼の行方はようとして知れず、同様の鬼による被害が近隣で起きることも無かった。


 無条の念による明里への追従は途絶え、生き延びた明里に対して、無条が再び〝京への呼び出しをかけることも無かった〟。


 そしてこの夜を境に明里は〝原因不明の眼病〟によって光を失い、そんな彼女を支えるようにして、風吉と名乗る一人の男が彼女の傍に仕えるようになったのである――。  


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