白蛇の執着
「この恩知らずがッ!!」
「どうか……どうかお許しを……!」
京は
代々の皇族が住まう壮麗な敷地の外れ。
美しく咲き誇る梅の木の下で、江戸から
「なぜ儂があのような目に遭いながら黙っておった!? おおかた儂が恥を晒すのを見て、内心ほくそえんでおったのであろう!?」
「そのようなことはございません……! 御所内に入るより前、決して問われた以外の口を開いてはならぬと、旦那様が……」
「
老主人に口汚く罵られるのは、江戸の
公家方との謁見を無事に終えた彼女たちを待っていたのは、
芸妓たちの筆頭格である明里は、長旅で疲弊した他の芸妓たちを先に寝所で休ませ、こうしてただ一人、老主人からの叱責を受けていた。
「農民出の芋臭いお前を、誰がここまで磨き上げたと思っとる!? 儂がその気になれば、お主もお主の田舎にいる親兄妹も、まとめて路頭に迷わせることも――!!」
そのしわくちゃの顔をゆでだこのように赤く染め、ついに主人は明里に対して手に持った杖を振り上げた。
明里は天川宿にとっての生命線。彼女を傷物にすればどうなるか……激昂した老人にはそれすら判断がつかなくなっていたのだ。だが――。
「――やめなよ」
「ぬぐっ!?」
だがしかし。振り上げられた杖が明里めがけて下ろされることはなかった。
一体いつのまに現れたのか。視線を巡らせた明里が見たのは、褐色の肌に引き締まった胸元を露わにした着流しの、どう見ても御所には相応しくない風体の男。
主人は怒りにまかせて男の腕をふりほどこうとするが、決して太くはない男の腕に掴まれた主人の身は、ぴくりとも動くことができない。
「貴方は……?」
「そっちの子……ここのお偉いさん方のお気に入りじゃねーんすか? それに手を上げたと知れれば……アンタ、今度こそハラキリっすよ?」
「ひっ!? は、腹を……っ!?」
「何があったか知りませんけど、そうかりかりしなさんな。あんたも長旅で疲れてんでしょ? こーいう時は、さっさと寝るに限るってもんで」
「うぐぐ……!」
男が力を緩め、主人は今にも転げそうになりながら明里から離れる。
主人はまだ何事かを言おうとしていたが、やがて干し柿のような顔でその場から離れていった。
「ありがとうございました……危ないところを助けて頂き、なんとお礼を申して良いか……」
「いーのいーの。あんな大声でキレ散らかしてりゃ、あっしじゃなくても気付くってもんでね」
「あの……
「あっしの名は
「風吉様……」
身の危険を救われた明里の問いに、カルマはさらりと答えた。
無論。マヨイガを経由することで様々な場所に現れるカルマにとって、その身分は数多に存在する肩書きの一つに過ぎないのだが。
「あんた、明里さんっしょ? 江戸の明星がここに来るってんで、あっしら下っ端の間でもずいぶん前から噂になってましたよ」
「そうだったのですね……とても、ありがたいことです」
カルマと明里。これが二人の出会いだった。
カルマを見つめる明里の
「へぇ……妹が三人に弟が二人ね。ずいぶんと大所帯だ」
「はい……けれど、私たちの父と母は体が弱く……」
「だからあんたが一人で頑張ってるってわけか……わかりますよ、あっしにも妹がいるんでね……」
「妹様が……」
「あっしみてぇな〝出来の悪い兄貴〟には勿体ないくらいの器量良しでね……妹も、あっしと兄妹なんかに生まれてなければ、今よりもずっと幸せになってただろうに……」
明里が京に滞在したのは僅か数日。
しかしその僅か数日の間に、二人は多くの言葉を交わした。
明里と話すうち、カルマは自分でも驚く程にすんなりと胸の内を明かしていた。
「……そんなこと、ありませんよ」
「……?」
「風吉様がどれほど妹様のことを大切に想っているか……こうしてお話しをしただけで、痛いほどに伝わってきました。会ったばかりの私でも、これほどまでにわかるのです……妹様にも、風吉様の気持ちは必ず伝わっている……そう思います」
妹を闇に囚われ、ひたすらに足掻き続けるカルマ。
稼ぎ手のいない家族のため、その身を尽くして苦難の道を選んだ明里。
「ありがたいね……気休めでもそう言って貰えるのはさ」
「気休めなんかじゃありません。私は、いつも真剣ですから」
「にゃはは。ほんと、強い子だねぇ……」
生まれた世界も、歩んできた歳月も遠く離れていたはずの二人。しかしそんな二人の関係はたった数日で深く通じ合い、共感を重ねていったのだった。だが――。
――――――
――――
――
「二条の宮に、梅咲きますれば――美しき。桃に桜に我先と――競い咲きませ。春空の下に――」
「見事……! まっこと見事な
「歌声だけではない……このような美しい舞を目にするのは初めてのことじゃ」
「よもや、江戸の明星は月が遣わした天女ではあるまいか?」
連日連夜開かれる御所での宴。
見目麗しい芸妓たちの中にあっても、明里の輝きはことさらに際立ち、居並ぶ皇族や公家方の眼差しを独占していた。しかし――。
「おおー、よいよい……今宵も見事な歌謡であったぞ! ちこう寄れ、明里よ!」
「はい……
そんな中にあっても、舞を終えた明里を呼びはべらせるのは無条親王と常に決まっていた。
無条がそうするのを他の公家方はもちろん、より上位であるはずの皇族たちですら咎めず、指をくわえて見ているばかりである。
「ぬぬ……叶うならば、私も明里を手に入れたいと思うたが……無条叔父の目に止まったとあれば、諦める他あるまいな」
「左様……しかしあの女子は実に幸せ者よ。親王様が己以外を気に入られることなど、まずないことであるからしてのう」
「ほっほっほ! どうじゃ明里よ、京の料理はお主の口に合うかの? こっちはどうじゃ? これなどは、我がお主のために特別に用意した一品ぞ! ほれほれ、こっちの煮付けも絶品でのう!」
「計り知れぬお心遣い、
まるで童心に返ったかのように、無条は明里に様々な料理を勧める。
そして意外なことに、無条は常に明里にべったりと寄り添うのみで、明里がそれ以上に嫌悪や拒絶を示すような無体には〝決して及ばなかった〟。
「の、のう……? もそっとだけ我の近うに寄ってくれぬか? そしてその美しい
「親王様……」
大勢の衆目が集まる宴の席だというのに、無条はやがて明里の膝を枕に満面の笑みを浮かべて眠りにつく。
明里は内心困惑しつつもそれを拒まず、まるで母が我が子にするようにして、瞳を閉じた無条の額にそっと手を添えた。
だが、しかし――。
「明里はどこぞ!? 〝我の明里〟はどこにおる!?」
「そ、それが……芸妓の中に
「なんと……!? そのような身勝手が許されると思うてか!? ええい、今すぐ明里を呼び戻さんか! 芸妓どもが病というのであれば、明里だけでも必ず連れて戻って参れッ!!」
天川宿の芸妓衆が御所を訪れてから、二週間の後。
予定されていた滞在日を待たず、更には無条にも無断のまま、天川宿の芸妓たちは突如として京を離れたのだ。
「京の腐れ麻呂ども……!! 誰がこの芸妓どもの主人だと思っておる!? 儂がいなければ、女共と遊ぶことも叶わぬというに、散々この儂に舐め腐った真似をしおって!!」
その断を下したのは天川宿の老主人。
京での己の扱いに腹を立てた天川宿の老主人は、報酬として渡された給金の半分を手切れ金として御所に突き返すと、独断で江戸への帰路についてしまったのだ。
恐れ知らずとはまさにこのこと。
もしこれが幕府相手の商売であれば、老主人もここまでの暴挙には出なかったであろう。
しかし〝生まれも育ちも江戸〟の老主人にとって、遠く離れた京住まいの公家たちは〝態度の大きい古くさい金持ち〟以外の何者でもなかったのだ。
「明里……明里はどこぞ!? 許さん……!! 絶対に許さんぞ……!! 我から
徳川の世にあっても皇族が保持している権力の大きさも、己がしでかした行いの意味も理解せぬままに踏み出した主人の判断。
それはそのまま、彼自身の〝破滅への旅路〟となったのである――。
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