無法の日々


「おう風吉かぜきち姐御あねごがお呼びだ。なんでも、内々でお前に用があるってよ」

あねさんがあっしに? まーたろくでもねぇ厄介ごとを押しつけられるんじゃねぇでしょうねぇ?」


 大勢の人々で賑わう繁華街、板橋宿いたばししゅく

 この巨大な宿場街は、日本橋から伸びる五街道の一つ、中山道なかせんどう沿いに位置する江戸北端の玄関口である。


「わっはっは! それだけ姐御がおめぇのことを頼りにしてるっちゅうことよ。ほれほれ、客引きは俺が代わってやるからさっさと行ってやれ」

「んじゃお願いしますよ。なるべく早く戻りますんで」


 文政ぶんせいの世の日の本において、五街道沿いには旅人が羽を休める大規模な宿場街が整備されていた。

 それら宿場街の中にあって、この板橋宿は最も〝夜の遊行〟が盛んで知られ、旅人のみならず江戸の武家や豪商なども交えた賑わいを見せていた。


 今、それら街道沿いに軒を連ねる旅籠屋はたごやの前で呼び出しを受けた一人の青年……風吉と呼ばれた痩身痩躯そうしんそうくの青年は呼びに来た男と客引きを交代すると、すぐ後ろに居を構える見事な酒宿へと入っていく。


「あら風吉さん、もしかして今日はもう上がりなの? それなら、あたしらと一緒に飲みましょうよ」


 宿に入れば、そこは一面が霞むほどの〝煙の雲〟で満たされていた。

 怪しげな行灯あんどんの炎がゆらゆらと灯り、表向きは禁じられている派手な色柄の着物を着た女人たちが、酔った客に酌をしながら双六遊すごろくびに興じている。


 若く引き締まった褐色の体躯に、鋭くも精悍せいかんかんばせを持つ風吉が店内に戻ってきたのを見た女人たちは、あでやかなべにの塗られた口元から煙管きせるの白煙をふうと吐き、招くように声をかけた。


「遠慮しときますよ。あっしは仕事中に飲んだり遊んだりはしねぇって決めてんで」

「相変わらずいけずな人ねぇ……こんなとこで働いてるってのに、浮いた話の一つもないなんてさ。ああ、けどそうでもないか……なんたって、あんたは姐御の〝お気に入り〟だもんねぇ?」

「滅相なこと言うなっての。そんなもん聞かれたら、あっしが姐さんになんて言われるか。くわばらくわばら……」

「なぁに言ってるんだか。あの姐御が怒ったりするわけないだろうに。最近色町に出る〝物騒な辻斬り〟だって、アンタの見回りのおかげでここには寄りつきもしてないんだからさ」

「なはは。そいつはどうも」


 怪しくもきらびやかな畳間たたみまを通り、風吉は接客に勤しむ女人たちにひらひらと手を振って二階へと進む。

 それに伴って一階の喧噪は遠ざかるが、今度は二階の大広間から琴の音色と鈴太鼓すずたいこ、そして酒宴の笑い声が近づいてくる。


 板橋宿は数多く存在する江戸の宿において、もっとも多くの芸妓げいぎたちをたもとに抱える夜の街だ。

 無論、江戸の世においても公序風俗を乱す生業なりわいを無秩序に行うことは禁じられている。


 だがそんな江戸にあって、板橋宿は吉原よしわらの遊郭と並んで幕府から正式な認可を受けた遊行の地であり、板橋に灯る喧噪の輝きは、江戸で最も遅くまで輝き続けると歌われるほどだった。


「入りますよーっと」

「あら……? 早かったのね」


 二階へと続く階段から伸びる薄暗い大廊下を抜け、閉め切られた二つの広間を抜けた先。

 宿の奥にあるこぢんまりとした部屋で、風吉は妙齢の女人の出迎えを受ける。


伝八でんぱちさんが代わってくれるってんで。最近は夜になるとめっきり冷え込むんで、はなから暇でしたけどね」

「そう……だから鈴虫の声がここまで聞こえていたのね」

「…………」


 室内に足を踏み入れた風吉は、あえて〝一定の足音を立てながら〟一歩一歩女性の元に近づく。


 見れば、女性の着物は芸妓然とした艶やかなものではなく、どこにでもある質素で地味な柄の装いだった。

 室内の調度品も客間とは打って変わって必要最低限のもので纏められており、部屋の隅に置かれた行灯の光がやわらかに女性の姿を照らしていた。


 女性の長く伸びた艶やかな黒髪は美しく、物憂げに微笑む横顔は神秘的ですらある。

 だた一つ奇妙な点があるとすれば、彼女は風吉がやってきてから〝一度もそのまぶたを開いていない〟ということだろうか。


「姐御。窓……閉めますよ」

「ありがとう。もう少しだけ、秋の音色を聞いていたかったけれど」

「だめだめ。夜風で風邪なんてひいた日にゃ、鈴虫どころじゃねぇでしょう?」

「ふふ、それはそうね」


 そう言って笑みを浮かべながらも、やはり女性はその眼差しをどこに向けることもない。

 風吉はそんな女性の様子に困ったように笑い、彼女の前に江戸の夜空を広げていた窓の木戸を下ろした。


 この女性の名は明里あかさとと言う。

 風吉が奉公仕えをする板橋宿の名店、歌明星うたみょうじょうの女将であり、元は板橋一の芸妓として名を馳せていた女人である。

 しかし彼女の芸妓としての道は、盛りを迎える前に〝不治の眼病〟によって断たれた。

 そんな彼女を哀れに思った馴染みの武家や商家たちは、彼女にあきないのつてを与え、今の彼女はこうして人気の宿を切り盛りする立場になったというわけである。


「それで、あっしになんの用で?」

「ええ、実はあなたに〝お客様〟なの」

「あっしに客ですかい? そいつはまた物好きな奴もいたもんだ」

「申し訳ないけれど、応対して貰っても良いかしら? 伝八さんのお話しだと、特に怪しい人じゃないそうだから」

「へぇ? んじゃ、ちょいと挨拶してきますわ」


 明里に促され、風吉はひょいと部屋を後にする。

 待合の間は明里の部屋から見て丁度正面反対側にあり、風吉の歩幅であればほんの数歩もかからぬ場所にある。


「失礼しますよ」


 風吉は一声かけると、閉められたふすまをさっと横開く。

 そこは明里の私室と同程度の広さの畳敷きの部屋となっており、畳の上には茜色あかねいろの着流しに身を包んだ、まだ少年とも青年とも言えない年頃の――。


「……って、かなっちかよ!?」

「いきなりごめん。ここに行けばカルマに会えるって、エルミールから聞いてさ」

 

 なんということか。

 そこで風吉を待っていたのは。否……〝カルマ〟を待っていたのは、超勇者にして今や江戸に名を轟かせる勇者屋の若旦那、剣奏汰つるぎかなたであった。

 

 奏汰は敵意がないことを示すように丸腰の両手を上げると、至って真面目な表情のまま、驚くカルマの視線をまっすぐに受け止めた――。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る