九
諦めるな
『違う……! あれは嵐なんかじゃない……逃げろシェレン! エルミール!!』
「この力……っ! まさか……!?」
まるで、深い夢の中から強引に現実に引き戻されたような感覚。
それまでエルミールを包んでいた切なく、苦しく、しかし確かに彼が求めていた故郷のぬくもりがまたたく間に凍り付き、心の臓を握られたような絶望が全てを飲み込んだ。
「この闇は
現れた醜悪な闇によって、女王シェレンと大勢の仲間たちが築き上げた祖国が為す術もなく打ち砕かれていく。
地平線の彼方まで広がっていた青空はひび割れて赤く染まり、羊たちがのどかに草を
祖国の人々は悲鳴すらまともにあげることなく次々と倒れ、倒れた傍から現れた闇の中に食い尽くされていった。
それは地獄。
紛う事なき終末の光景。
エルミールすらまともに反応すらできぬほどの、一瞬の出来事だった。
「なんてことを……!! やめろ無条――ッッ!!」
瞬間。エルミールはすぐさま目の前の扉を開いて女王の居室へと飛び込む。そして今まさに女王たち家族を飲み込もうとしていた闇にその勇者としての力を――。
『パパー! ママー!!』
『逃げて、エルミール……っ! 貴方だけでも……!』
『駄目だシェレン! もう、逃げられない……っ!』
「え……っ!?」
だがしかし。
闇はエルミールの身を〝素通りした〟。
エルミールの手に聖剣オーラクルスは現れず、勇者の力が発動することも無かった。
そしてそのままエルミールの見ている眼前で、無条の闇は女王シェレンと家族の命を無慈悲に……まるで道ばたの蟻を踏み潰すかのようにして奪ったのだ。
「あ……ああ……!? そ……そうか、これは幻……無条が私に見せている幻術です……!! どこにいるのですか無条!? たとえ私にこのような光景を見せても、私の心は折れませんよ……!!」
『幻術とな……? ほっほ……』
自らの身に起きた異常に、エルミールは震える声で無条を呼んだ。
するとそれに応えるようにして、闇の中から無条の声が響く。
『お主がなにを言っているのか、いまいち我にはわからぬが……今お主が目にしている光景は、決して〝
「ふざけるなッッ!! なら、どうして私はこんな……!!」
『さてのう……おおかた、お主に何か〝江戸への未練〟でもあったのであろ。愚かよの……素直に我の褒美を受け取っておれば、想い人と共に故郷で死ねたであろうに……』
「未練……っ!? それは……っ」
無条の言葉を、エルミールは必死に否定しようとした。
しかしどうだろう。
この地で感じた祖国の全ても。
十年ぶりにその姿を見た想い人の姿も、言葉も……そのどれもが、エルミールにこの地が幻ではなく現実であると伝えていた。
無条の言う、江戸への未練も同じ。
たとえ帰還の喜びで一時頭から抜け落ちたように見えても、江戸に残してきた大勢の仲間たちへの思いと使命感が、エルミールの心から消えることなど決してないのだから。
「では私の国は……シェレン様や、シェレン様のご家族は……!?」
『なにを今さら……たった今お主が見たとおり。何もかも綺麗さっぱり消え去ったであろうが。のう……?』
「そん、な……っ!?」
祖国の象徴たる王城の尖塔が崩れ落ちる。
耳鳴りのように響き続けていた人々の断末魔も、いつしか絶えていた。
「ああ……あああ……っ!? ああ……っ!! やめろ……やめろ無条!! なぜ……どうしてこんなことをするのです!? 私が憎いなら、私を殺せばいいでしょう!? なぜ私の祖国を……シェレン様を……!!」
『ほむほむ……? 悪いが、お主が何を言っておるのか〝さーっぱりわからん〟。我はただお主を故郷に送り帰し、お主が無事に戻れたかどうかを〝見に来ただけ〟ぞ。まさかその道すがら、このような〝恐ろしい天災〟に出くわすとは……さすがの我も寒気がするのう。ほっほっほ……』
「な、なにを……っ!? なにが……どうなって……!? やめろ……やめてください……っ!! 私の故郷を……みんなを消さないで――っ!!」
エルミールは無力だった。
勇者としての力を振るうことも出来ず、ただ闇に蹂躙され、祖国が滅び行く様を見ていることしか出来なかった。
『そも、我のような絶世の美男がこのようにおぞましい存在であるはずなかろ? 我は京の女子にも評判の
祖国ファルランタを滅ぼした闇は、そのまま勢いを増してさらに拡大。
大陸全土を、星の全てを、星系を、銀河を、宇宙全てを飲み込み、ようやく満足したかのように静かになった――。
「う、あ……ああ……ああ……っ! うわあああああああああああああああああああああああああ――――――!!」
闇。
残ったのは闇だけ。
何もかも消えた闇の中に、エルミールの絶叫が木霊する。そして――。
――――――
――――
しゃらん――
『ほむ……いったいどうしたというのか。せっかく故郷に帰してやったというのに、なんともと酷い有り様……〝かわいそう〟なことよの……』
目の前で全てを失い、闇の中に倒れるエルミール。
彼の瞳からは光が消え失せ、呆然と闇を見つめるのみ。
しかしそんなエルミールの元に、他ならぬ闇……無条親王のまるで人ごとのような声が、鈴の音と共に近づいてくる――。
〝舞へ舞へ勇者
舞はぬものならば
魔の子や鬼の子に
踏み
生まれし世まで帰らせん〟
しゃらん。
しゃらん。
鈴が鳴る。
ここより聞こえしわらべ歌。
「…………」
『ほっほ……どうじゃ、なかなかに見事な歌声であろう? なにやら酷く気落ちしておるようだが、〝我の歌〟で少しは元気が出たかの?』
無条の声は、もはや手を伸ばせば届くほどに至近。
しかし、心を砕かれたエルミールはぴくりとも動かない。
『この歌は我の母上が歌ってくれたものでのう……我が夜の闇に怯えておるとき、母上はいつもこの歌で我を慰めてくれたものよ……お主もこの歌を聴けば……おい、聞いておるか?』
闇に浮かび上がった無条は、倒れたままのエルミールの顔に自らの白面を寄せてふーむと困ったように首を傾げる。
エルミールの肉体は無傷だったが、その心は死に瀕していた。
天から地へと落とされ、祖国と想い人の無惨な結末を見た彼の心も、もはや辺りに広がる闇に飲まれて消える。そう思われた――。
あ――ら――な――。
「…………っ」
だがその時。
倒れたエルミールの前で困り果てる無条の視線の外。
力なくだらりと伸びたエルミールの小さな手が、ぴくりと動いた。
それは声。
目の前に立つ無条よりもずっと遠く、遙か彼方から……エルミールのことだけを思って放たれた、確かに聞き覚えのある声だった。そして――!!
「諦めるな――!!」
「――っ!」
『なんと?』
瞬間。エルミールと無条の間に割り込むようにして、目もくらむ凄絶な雷が舞い落ちる。
落雷が巻き起こす火花と閃光はやがて一つの影となって収束。
その影は背を向けたまま……しかし傷ついたエルミールを庇うようにして無条の前に立ち塞がった。
「ひ……ば、な……さ……?」
「……あなたって、本当に馬鹿」
そのあまりの勢いに、無条は思わず尻餅をついて弾かれる。
そして一切の光を失っていたエルミールの瞳に、
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