八
現れる虚無
それは、あまりにも突然のことだった。
決して油断していたわけではない。
なぜなら、たとえ
みな油断無く気を張り巡らし、警戒をしていたはずだった。
「っ!?」
「
闇。
それは、虚空に現れた闇の深淵。
魔王と化した宗像との死闘を終えた直後。
なんの前触れも無く現れたその闇は、新九郎と共に立ち上がった緋華を一瞬にして飲み込んだ。
緋華の視界が暗転し、まるで細く暗く深い井戸の底へと落ちていくかのように、いつ終わるともしれぬ浮遊感が彼女を襲った。
広がるは永劫の闇。
その闇はやがて、上下すら定かならぬ〝異界の回廊〟へと抜けた。
果てすら見えぬ木張りの吹き抜けに、怪しげな灯籠が等間隔で並ぶ。
生ぬるい大気が満ちる空間には、どこぞより延々と続く雅楽の音色が響いていた。そして――。
「ここ、どこ……?」
『ほっほ……まさかあの場に、
「誰……っ!?」
緋華が迷い導かれた先。
そこは、とてもこの世の物とは思えぬ壮麗な
顔を上げた緋華の視界には、左右に不可解な
『だが……ここならもはや邪魔は入らぬ。我らにとっては久方ぶりの
さらには五段もの高さで順々に積み上げられた
「あなたは誰……答えないなら、殺す」
『よいよい、そう照れずともよい。
「な、なんなの……こいつ……っ」
気色が悪い。
緋華の全身にぞわりと悪寒が走り、身震いするほどの嫌悪が広がる。
『さて……そろそろよかろう? 心配せずとも、ここには我ら以外に誰もおらぬ。その珍妙な面を外し、我にそなたの可憐な素顔を見せてはくれぬか? 我はもう、そなたの愛くるしい笑顔が見たくて見たくてたまらぬのよ』
「ふざけないで――!!」
『ひょ?』
瞬間。緋華の全身から雷光が轟く。
同時に抜き放たれた四本のクナイ。それは稲妻となって壇上の影を射貫いた――はずだった。
『ほっほー、そう照れるでない。んん~~ん……やはり思ったとおり、実にかぐわしい香りであることよのぅ……ほれほれ、我らを分かつ邪魔な面など、こうして闇に放ってくれようぞ。ほっほっほー!』
「な……!?」
しかし次の瞬間。
緋華に突きつけられたのは、あまりにも信じがたい現象だった。
確かに行使したはずの雷撃は、なんの前触れもなしにその全てが消滅。
それどころか、気付けば緋華のしなやかな
「こ、の……ッ! 離せ……!」
『ほーーっほっほっほ。さあさあ、ようやっとご対面ぞ。最後に会うてから、かれこれ二年ほど経ったかのう……? さぞや〝あの母君〟に似て、美しく育っておることで……――』
緋華の瞳に男の素顔が映る。
病的に白い肌と、紫の紅が塗られた薄い唇に切れ上がる目元。
一切の光を映さぬ漆黒の瞳に、白蛇を思わせる美しくも虚無的な
覚えがある。
自分は、この男を知っている。
緋華は混乱の中で、すぐさまこの男の正体を脳内から割り出す。
「
『…………』
まさかの男の正体に、驚愕の色を浮かべる緋華。
だがしかし、腕の中に抱きしめた緋華を見る無条の瞳に光はない。
それまでの喜色も、興奮も、天にでも昇るかのような浮ついた様子も。
全てが引いていく潮のように、無条の内から消え去っていた。
ひょっとこ面を外し、その素顔を晒した緋華を見る無条の表情。
それはまるで、もはや壊れて直らぬ玩具を見るわらべのように冷たく、空虚だった。
「どうしてあなたが……っ? あなたは、いったい――」
『――〝そなたは誰ぞ?〟』
「あぐ……っ!?」
ぎりと。
無条に抱きすくめられた緋華の身が、骨が軋む。
無条の黒い瞳には、すでに緋華など一切映っていない。
しかしその眼光には、己の期待を裏切られたことによるドス黒い怒りが、はっきりと灯っていた。
『
「が……っ!? あ、ああああああああああ――!!」
『答えよ……今すぐ答えよ。我の吉乃姫はどこぞ? ははーん……さてはお主、我の目を盗んでその身のうちに吉乃姫を喰ろうたか? ならばすぐにでもそなたを割り砕き、八つ裂きにして探すより他あるまいて。そうであろう……? そうであろう……?』
「よ、しの……っ?」
まるで人形のように見開かれた無条の瞳。
完全なる無表情のまま、無条は大蛇がそうするようにして緋華を絡め取り、くびり殺さんと締め上げる。
「発、雷……ッ!!」
『のう……? 吉乃姫はどこぞ……? どこぞ? どこぞ? どこぞ? のう、のう、のうのうのうのうのう……? 我の姫は……我の母上はどこにおる? のう……?』
「がっ……!? ぐ……ああああああああああああああっ!!」
突然の無条の乱心に緋華はその身から激しい雷撃を放ち抵抗するが、無条は雷などはなから存在していないとばかりに意に介さない。
そうしている間にも無条の力はいやがおうにも増し、あまりの激痛に緋華の意識が闇に沈みかけた。だが――。
「何をしているんです――!!」
『ほ?』
だがその刹那、壮麗な大広間に閃光が
現れた光は緋華を絡め取る無条の影を切り裂き、今にも砕かれようとしていた彼女の命をすんでの所で救い出す。
「う……っ」
『ほむ……我の邪魔をする者は誰ぞ?』
「その声……そういうことでしたか……」
苦悶の呻きを上げる緋華を優しく抱える小さな影が、首を傾げて佇む無条をその眼光で鋭く射貫く。
「無条親王……まさか、貴方が〝私たちの最後の一人〟だったとは驚きです」
『ほう、お主は……』
現れた影の正体。
それは純銀の聖剣を携えて立つ、
緋華が闇に飲まれたのを見た彼は、脇目も振らずに自身もこのマヨイガに飛び込んだのであろう。
未だその小さな体は、宗像との戦いでぼろ雑巾のように傷ついたまま。
しかし彼の曇り無き瞳は、淡く輝く銀の灯をはっきりと宿していた――。
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