現れる虚無


 それは、あまりにも突然のことだった。


 決して油断していたわけではない。

 なぜなら、たとえ宗像むなかたを鬼の力から解放したとしても、この場にはまだ〝外法げほうを成した張本人がいる〟可能性が高かったからだ。


 奏汰かなたも、新九郎しんくろうも、緋華ひばなも、エルミールも。

 みな油断無く気を張り巡らし、警戒をしていたはずだった。


「っ!?」

姉様ねえさま――!?」


 闇。

 それは、虚空に現れた闇の深淵。


 魔王と化した宗像との死闘を終えた直後。

 なんの前触れも無く現れたその闇は、新九郎と共に立ち上がった緋華を一瞬にして飲み込んだ。

 緋華の視界が暗転し、まるで細く暗く深い井戸の底へと落ちていくかのように、いつ終わるともしれぬ浮遊感が彼女を襲った。


 広がるは永劫の闇。


 その闇はやがて、上下すら定かならぬ〝異界の回廊〟へと抜けた。

 果てすら見えぬ木張りの吹き抜けに、怪しげな灯籠が等間隔で並ぶ。

 生ぬるい大気が満ちる空間には、どこぞより延々と続く雅楽の音色が響いていた。そして――。


「ここ、どこ……?」

『ほっほ……まさかあの場に、異界人いかいびとが二人もおったとは。あれでは、我が鬼一匹出そうと意味なきことであったのう……」

「誰……っ!?」


 緋華が迷い導かれた先。


 そこは、とてもこの世の物とは思えぬ壮麗な拝殿はいでんの大広間だった。

 顔を上げた緋華の視界には、左右に不可解な絵語戦記えがたりせえんきが描かれたふすまが並び、柱一つない平坦な天井には〝幼子をあやす女人仏〟の巨大な一枚絵画が広がっていた。


『だが……ここならもはや邪魔は入らぬ。我らにとっては久方ぶりの逢瀬おうせゆえ……此度は存分に楽しむとしようぞ。のう……?』

 

 さらには五段もの高さで順々に積み上げられた上座かみざと、緋華がいる下座しもざとを区切るみやび簾幕すだれまく。そしてその簾の向こうに浮かぶ〝一つの影〟が、実に嬉しそうな声色で緋華を迎えた。


「あなたは誰……答えないなら、殺す」

『よいよい、そう照れずともよい。けがれを知らずに育った無垢なそなたのこと……おおかた、こうして突然我に招かれて恥じろうておるのであろう? ほっほっほ……まっことい奴よのう……』

「な、なんなの……こいつ……っ」


 気色が悪い。

 緋華の全身にぞわりと悪寒が走り、身震いするほどの嫌悪が広がる。


『さて……そろそろよかろう? 心配せずとも、ここには我ら以外に誰もおらぬ。その珍妙な面を外し、我にそなたの可憐な素顔を見せてはくれぬか? 我はもう、そなたの愛くるしい笑顔が見たくて見たくてたまらぬのよ』

「ふざけないで――!!」

『ひょ?』


 瞬間。緋華の全身から雷光が轟く。

 同時に抜き放たれた四本のクナイ。それは稲妻となって壇上の影を射貫いた――はずだった。


『ほっほー、そう照れるでない。んん~~ん……やはり思ったとおり、実にかぐわしい香りであることよのぅ……ほれほれ、我らを分かつ邪魔な面など、こうして闇に放ってくれようぞ。ほっほっほー!』

「な……!?」


 しかし次の瞬間。

 緋華に突きつけられたのは、あまりにも信じがたい現象だった。


 確かに行使したはずの雷撃は、なんの前触れもなしにその全てが消滅。

 それどころか、気付けば緋華のしなやかな肢体したいは突然現れた〝公家装束くげしょうぞくの男〟によって抱きしめられ、彼女の素顔を覆うひょっとこ面もひょいと外されてしまったのだ。


「こ、の……ッ! 離せ……!」

『ほーーっほっほっほ。さあさあ、ようやっとご対面ぞ。最後に会うてから、かれこれ二年ほど経ったかのう……? さぞや〝あの母君〟に似て、美しく育っておることで……――』


 緋華の瞳に男の素顔が映る。

 病的に白い肌と、紫の紅が塗られた薄い唇に切れ上がる目元。

 一切の光を映さぬ漆黒の瞳に、白蛇を思わせる美しくも虚無的な相貌そうぼう


 覚えがある。

 自分は、この男を知っている。


 緋華は混乱の中で、すぐさまこの男の正体を脳内から割り出す。


無条むじょう……親王しんのう……っ?」

『…………』


 まさかの男の正体に、驚愕の色を浮かべる緋華。

 だがしかし、腕の中に抱きしめた緋華を見る無条の瞳に光はない。

 それまでの喜色も、興奮も、天にでも昇るかのような浮ついた様子も。

 全てが引いていく潮のように、無条の内から消え去っていた。


 ひょっとこ面を外し、その素顔を晒した緋華を見る無条の表情。

 それはまるで、もはや壊れて直らぬ玩具を見るわらべのように冷たく、空虚だった。


「どうしてあなたが……っ? あなたは、いったい――」

『――〝そなたは誰ぞ?〟』

「あぐ……っ!?」


 ぎりと。


 無条に抱きすくめられた緋華の身が、骨が軋む。

 無条の黒い瞳には、すでに緋華など一切映っていない。

 しかしその眼光には、己の期待を裏切られたことによるドス黒い怒りが、はっきりと灯っていた。


吉乃姫よしのひめ……乙女椿おとめつばきの吉乃姫はどこぞ……? よもや、そなたが我から隠したのではあるまいな……?』

「が……っ!? あ、ああああああああああ――!!」

『答えよ……今すぐ答えよ。我の吉乃姫はどこぞ? ははーん……さてはお主、我の目を盗んでその身のうちに吉乃姫を喰ろうたか? ならばすぐにでもそなたを割り砕き、八つ裂きにして探すより他あるまいて。そうであろう……? そうであろう……?』

「よ、しの……っ?」


 まるで人形のように見開かれた無条の瞳。

 完全なる無表情のまま、無条は大蛇がそうするようにして緋華を絡め取り、くびり殺さんと締め上げる。


「発、雷……ッ!!」

『のう……? 吉乃姫はどこぞ……? どこぞ? どこぞ? どこぞ? のう、のう、のうのうのうのうのう……? 我の姫は……我の母上はどこにおる? のう……?』

「がっ……!? ぐ……ああああああああああああああっ!!」

 

 突然の無条の乱心に緋華はその身から激しい雷撃を放ち抵抗するが、無条は雷などはなから存在していないとばかりに意に介さない。

 そうしている間にも無条の力はいやがおうにも増し、あまりの激痛に緋華の意識が闇に沈みかけた。だが――。


「何をしているんです――!!」

『ほ?』

 

 だがその刹那、壮麗な大広間に閃光がはしる。


 裂帛れっぱくの咆哮と共に、闇から飛び出したのは純銀の光。

 現れた光は緋華を絡め取る無条の影を切り裂き、今にも砕かれようとしていた彼女の命をすんでの所で救い出す。


「う……っ」

『ほむ……我の邪魔をする者は誰ぞ?』

「その声……そういうことでしたか……」


 苦悶の呻きを上げる緋華を優しく抱える小さな影が、首を傾げて佇む無条をその眼光で鋭く射貫く。


「無条親王……まさか、貴方が〝私たちの最後の一人〟だったとは驚きです」

『ほう、お主は……』


 現れた影の正体。

 それは純銀の聖剣を携えて立つ、神判しんぱんの勇者エルミール・トゥオルク。


 緋華が闇に飲まれたのを見た彼は、脇目も振らずに自身もこのマヨイガに飛び込んだのであろう。 

 未だその小さな体は、宗像との戦いでぼろ雑巾のように傷ついたまま。

 しかし彼の曇り無き瞳は、淡く輝く銀の灯をはっきりと宿していた――。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る