闇に滲む情念


「お疲れ様です奏汰かなたさんっ! 最後までほんっとーにお見事でしたっ!」

「ありがとう。ここまでやれたのも、みんなと新九郎しんくろうのお陰だよ」


 台覧試合たいらんしあい決勝。

 自らの試合を終え、一度控えの幕裏へと戻った奏汰を新九郎が笑みと共に迎える。


 公正館こうせいかん赤龍館せきりゅうかん

 因縁ある二流派による戦いは一進一退。

 先鋒の春日かすがは力及ばず敗れたが、次鋒の三郎じほうは意地を見せ辛勝。

 そして今、平次郎へいじろうとの準決勝で攻防の手応えを掴んだ奏汰が見事勝利し、公正館の〝二勝一敗〟で副将戦を迎えようとしていた。


「赤龍館の方が謝りに来たのはびっくりしましたけど、やっぱり怒ったりしないで、正々堂々が一番ですよね」

「そうだな。今のところ鬼が出そうな気配もないし、このまま何事も無く終わってくれれば良いんだけど……」


 新九郎が差し出した手ぬぐいで汗を拭き、奏汰はそっと陣幕の隙間から試合場に目を向ける。

 そこでは、今まさに〝ひょっとこ面をつけた緋華ひばな〟が新九郎に成り代わり、赤龍館副将の宗像むなかたと相対するところだった。


「……大丈夫かな」

「姉様がですか? 僕の見立てが確かなら、十中八九姉様の圧勝で完封で公正館大勝利っ! だと思いますけど……」

「俺もそう思う。けど、さっき見たあの感じ……師範の人は謝ってたけど、あっちの人は全然納得してなさそうだったから」

「あ~……そう言われれば、すっごい顔して睨んでましたもんね……」


 あの去り際。宗像から放たれた怒気は相当なものであった。

 千堂斎せんどうさいは謝罪したことで赤龍館の体面と由緒を守ったが、〝宗像個人のそれ〟は大きく傷つけられたままであろう。


「緋華さんなら大丈夫だろうけど……あそこまで怒ってたら何をしてくるかわからない。最後まで油断せずにいこう」

「ですねっ!」


 試合直後の疲れも忘れ、奏汰は弛緩しかんした心に再び緊張の糸を張り直す。

 その言葉に新九郎もまたうんうんと頷いて同意し、だがどういうわけか、そのまま〝奏汰の手をおもむろに握りしめて〟気合いを入れたのだ。


「……!?」

「でもまずは、姉様の無事の勝利ですねっ! はわ~……なんだか奏汰さんにそう言われたので、僕まで緊張してきちゃいましたっ!」


 それは――相変わらずの無自覚でもあり、同時に新九郎から奏汰への信頼と親愛の証左でもあった。


 突然の熱に跳ね上がる奏汰の鼓動と、まるでそうするのが当然のように緋華を見守る新九郎。


 誤解を恐れずに明示するならば、もはや新九郎にとって奏汰と手を繋ぐことは〝特別でもなんでもない〟。


 母を想い、初めて涙を見せた夜も。

 二人で訪れ、笑みを交わした山王祭の夜も。

 毎日の稽古で。

 共に過ごす日々の中で。

 

 二人はもはや数え切れぬほどその身を触れ合わせ、伸ばした手を繋ぎ合わせてきた。だが――。



〝どうか悔いの無いように……決断というものは、日々流れていく当たり前の中にこそある……そして一度流れてしまえば、もう二度と戻ることはない……今は、そう思います〟

 

 

 果たして、新九郎がこうして奏汰の手を取ってくれることがあと何度あるのだろう。

 もはや二人にとって当たり前となったこのぬくもりも、実際はまばたきの間に消え、二度と戻らぬ物なのかもしれなかった。


 それは、エルミールにそう言われたからだけではない。

 奏汰自身もまた……最愛の父と母という、〝二度と戻らぬぬくもり〟を知っているのだから。ゆえに――。


「ごめん、新九郎……その……こんな時にあれなんだけど……」

「えっ? なんでしょう?」

「この試合が終わったら、新九郎に話したいことがあるんだ。後でちょっとだけ時間もらってもいいか?」


 不意の申し出に、新九郎は不思議そうに首を傾げる。

 しかしその表情はすぐに花のような笑みをたたえ、澄んだ浅緑せんりょくの瞳で奏汰をまっすぐに見上げた。


「もちろんいいですよ! 奏汰さんのお話しなら、いつでもなんでも聞いちゃいますっ!」

「うん……ありがとう」


 このぬくもりを失うわけにはいかない。

 この笑顔を失うわけにはいかない。


 奏汰は今にも新九郎を抱きしめそうになる衝動を必死に抑え、その代わり、今も繋がれたままの手をしっかりと握り返したのだった――。

  

 ――――――

 ――――

 ――


「――ほっほっほ。よいよい、なかなかに面白くなってきおったわ」


 試合を悠々と見おろす観覧舞台。

 その中央に座る白蛇のような美男――無条親王むじょうしんのう


 無条はそれまでの虚無などどこへやら。実に楽しげな笑みを浮かべて目の前の立ち合いに目を向けていた。


「えい。どや。ふんす」

「お、おのれぇええ……!!」


 好奇に輝く無条の瞳。

 その先には、顔を真っ赤にして猛り狂う赤龍館副将の宗像と、宗像の放つ剛剣を軽々といなす〝ひょっとこ面の剣士〟の姿があった。


 勝負の優劣は見るまでもない。


 元より相当な差が見て取れる両者の剣。

 その上宗像は、激しい怒りによって平常時の力すら出せていないのだ。


「ほっほ……やはり匂う、匂うぞ。珍妙な面で隠しておるが、あの者の正体は女人であろう。それも……我が今も恋い焦がれる〝想い人と相当に近しい者〟。今もそのかぐわしい香りが、ここまで届いておるわ……」


 だが今の無条にとって、目の前の勝負など二の次三の次。

 無条はまるで〝この上ない好物〟を前にしたかのように天を仰ぎ、その鼻筋の通った小鼻をくんくんと働かせる。


「しかしのう……時臣ときおみには邪魔をするなと言われておる。本来ならば、今すぐにでも駆けよって抱き留め、面に隠された美しい素顔をあらためたいところ……。だが、流石にわきまえねばのう……。我は高貴な生まれゆえ、下賤げせんどものような抑えの効かぬ真似はせぬのよ……」


 無条はやや落胆気味にふうと息をつくと、手に持った扇子を口元で大きく広げた。


「が……〝少しだけ〟なら良かろう? あの凜と舞う女剣士がもし我の焦がれる相手ならば……この場でその素顔をさらけ出し、〝怯え竦む様を見たい〟と思ってしまっても、少しだけならば良かろう。のう……?」


 瞬間。無条の瞳に不気味な紫色の輝きが灯る。

 その輝きが示す先……そこには格上である緋華を相手に万策尽き、吠えることしかできなくなった宗像がいた。そして――。


「あぎ……!? な……あ、あがが……ぐ、グアアアアアアアアアアア!?」

「なに……?」


 突然、立ち合い中の宗像が絶叫を上げた。

 宗像はまるで雷に撃たれたかのように跳ねると、叫びと共に自らの胸をかきむしる。

 そして次の瞬間、宗像の体は一瞬にしてひび割れ、その身を〝人ならざる存在〟へと変貌させたのだ。


「宗像さん……!? どうして!?」


 その光景に、試合場の横に座っていたエルミールが驚愕の声を上げた。

 

 鬼。

 それもただの鬼ではない。


 宗像が変じたのは、それまで様々な鬼の出現を目にしてきたエルミールですら覚えがない程の、強大な力を内包した鬼だった。


「ほーっほっほ……よいよい、実に良いぞ。怒りに飲まれた魂魄からは、まっこと良い鬼が生まれ育つのう……! さあ……せいぜいこのくだらぬ祭りを盛り上げてみせよ。この我のためにの……」


 市ヶ谷八幡宮いちがやはちまんぐうに響く鬼の雄叫び。

 そして阿鼻叫喚あびきょうかんの悲鳴。


 現れた地獄絵図の中。

 舞台上の無条はただ一人、その扇子の裏に隠した口元に愉悦の笑みを浮かべていたのであった――。

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