市ヶ谷台覧試合


「これでよしっと……どうですか奏汰かなたさん、似合ってますか?」

「いい感じいい感じ! 前はちゃんと見えてる?」

「ちょっと……いえ、かなり見辛いですけど……やってみます!」


 台覧試合たいらんしあい当日。

 雲一つ無い晴天を仰ぎ見る、市ヶ谷八幡宮前いちがやはちまんぐうまえの試合会場。

 広場を区切るように張り巡らされた、三葉葵紋みつばあおいもんが描かれた〝神前幕しんぜんまく〟の裏。


 間もなく開幕を迎える奏汰とエルミール、そして緋華ひばなの三人は、なぜかその端正可憐な素顔を〝ひょっとこ面〟で隠した新九郎しんくろうを囲んでいた。


「それなら〝あの男〟にもわからないはず。立ち会いで外れないように気をつけて」

「わかってますって!」

徳乃とくのさんの事情は承知しました。もし立ち会い中に面が外れたら、私たちには構わず負けを認めて顔を伏せて下さい」

「試合前の参加者変更は認めないっていうんだもんな……かぶり物がありで助かったよ」


 そう。今日の台覧試合には、主賓しゅひんとして上方かみかたの実権を握る無条親王むじょうしんのうが招かれている。

 そしてその無条親王こそ新九郎……つまり乙女椿おとめつばき吉乃姫よしのひめに対して異常な執心を見せ、何度となく婚姻を申し出ている皇族であったのだ。


「あの男が来るのがわかっていれば、あなたを試合に出したりしなかったのに……」

「仕方ないですよ。姉様はこの二週間、ずっと僕たちと一緒でしたし……」

「私も本当に驚きました……まさか徳乃さんが女性で、しかもあの噂に聞いく吉乃姫だったなんて」

「黙っててごめんな。さすがにすぐには話せなかったからさ」


 すでに本人から大体の事情を聞いていたエルミールは、そこでなぜか感慨深げに腕を組むと、奏汰と新九郎をみやりながらうんうんと何度も頷いた。


「実は私も、ずっとお二人のことを〝男女の仲〟なのだろうなと感じていたのです。ですから、お話しを聞いてとても納得しました」

「だ、男女の仲って……っ!?」

「びえっ!? そ、そんな……ぼ、ぼぼぼ、僕と奏汰さんはまだそんなっ!!」

「……まだなってないし、これからもならない。そうなる前に、わたしがちょん切るもの」

「はははっ! 仲が良いのは素晴らしいことです。緋華さんには申し訳ありませんが、私もお二人の仲睦まじい姿を見ると心が癒やされますから」

「むぅ……」


 どこかつきものが落ちたように、エルミールは頬を染める奏汰と新九郎に微笑む。


 だが実際の所、この場で新九郎の正体が明るみとなることは絶対に避けなければならない。

 無条親王の新九郎への執着を、城内の家晴いえはるは今も病の一点張りでかわし続けている。

 それが虚偽と分かれば、幕府と皇族の決定的な対立を招くことになりかねない。


 故に奏汰たちも、このひょっとこ面を用いた偽装だけでなく、無条親王が直接目にするという〝決勝の大一番〟では、〝新九郎と緋華で中身が入れ替える〟段取りを立てていた。


「えーっと……確認なんだけどさ、新九郎はその……皇族の人と結婚するのは嫌……なんだよな?」

「嫌ですっ!! 実は僕……以前に一度だけ〝あの人〟とお話ししたことがあるんです。けどぜんぜん話も合いませんでしたし、なんだか僕を見る目も凄く冷たくて……しかもそれなのに〝僕のことはさっぱり見ていない〟みたいな……――と、とにかくっ! あの人の妻になるなんてぜーったいにお断りですっ!!」

「そっか……良かった……」

「え……? 良かったって――」


 ――どん! どん! どん!!


 だがその時。

 奏汰の真意を尋ねようとした新九郎の言葉は、大気を震わせる和太鼓の大音に遮られる。


 そしてそれを皮切りとして、江戸城外堀の流れに面した市ヶ谷八幡宮前の広場に、神官の列を先導とした優雅な神輿の列が現れたのだ。


「……なあ太助さん、太助さんはカルマや他の仲間の顔は知ってるんだよな?」

「知っています。なので、もしここで彼らの姿を見かければすぐに報せます。ですが……実は一人だけ、私もはっきりとした〝素性を知らない者〟がいて……古参のカルマは知っていたようなのですが、新参の私と静流しずるさんはその方の正体を知りませんでした」

「わかった。他にも気付いたことがあればすぐに教えてくれ」


 神前幕の狭間から神輿の列を眺めながら、奏汰とエルミールという二人の勇者は共にその神経を研ぎ澄ませる。


 神輿はそのまま台覧試合の会場を一望できる舞台の前に止まると、簾を上げて雅な公家装束に身を包んだ皇族を一人、また一人と下ろしていった。そして――。


「くるしゅうない……京より江戸までの長き旅路、なかなかに楽しめたぞ」


 並び立つとうとき者たち。

 その最後に現れたのは、凍るほどに美しいかんばせを持つ青年――否、公称においてもとうに〝齢六十を超えるはずの絶世の美男〟――無条親王。


 無条はゆるりとその美しい顔に〝白蛇はくじゃを思わせる笑み〟を浮かべ、同席する血族たちの前をゆうゆうと通り過ぎ、舞台中央の上座に腰を下ろした。


「これより、無条親王殿下並びに、貴きえにしに連なる皆々様と日の本の太平を祈念し、市ヶ谷八幡宮奉納試合いちがやはちまんぐうほうのうしあいを執り行いまする――」


 それまで鳴り響いていた和太鼓の音が止むと同時。


 此度の台覧試合を取り仕切るために現れた寺社奉行じしゃぶぎょう上代夕弦かみしろゆうげんが、台覧舞台中央に座る皇族たちに頭を下げた。


 時は文月ふみづき。その末日。

 盛夏の終わりに相応しい晴天の下。


 波乱の市ヶ谷八幡宮台覧試合は、ついにその幕を開けたのである――。


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