暗く貴き者


「ただいま戻りました」

太助たすけさんっ! お帰りなさい!」

奏汰かなたさんもお疲れ様でした!」


 赤龍館せきりゅうかんによる襲撃が起きた日の夕方。


 奏汰とエルミールは、市ヶ谷八幡宮いちがやはちまんぐう前の番所で赤龍館が残した言葉が確かであることと、すでに公正館こうせいかん台覧たいらん試合参加が認められていること。

 そして奏汰や新九郎しんくろうのような、部外者の参加も許されていることを確認して道場へと戻っていた。


「お待たせしてすみませんでした。詳細は確かめたので、最後に今後の方針を私からみなさんにお話しして、今日は解散にしようと思います」

「おうよ。さっきも言ったが、俺はなにがあろうとあんたに従う。どんな決断でも、俺から太助への信頼はかわりゃしねぇ!」

「せ、拙者も怖くてたまらぬでござるが……それでも、やはり拙者が目指す剣の師は太助殿ゆえ!」

「ありがとうございます……みなさん」


 道場に戻ったエルミールは、またたく間に帰りを待っていた大勢の高弟に囲まれた。

 怯えている者も、気勢を上げている者もいたが、誰もがエルミールを心から信じ、大切に思っていることはその光景からも痛いほどにわかった。


「…………」

「奏汰さん?」 


 そしてその輪から少し離れた場所。

 板間の入り口で門弟たちに囲まれるエルミールを見つめる奏汰に、新九郎は不思議そうに声をかけた。


「どうかしたんですか?」

「うん……ちょっとな」

「あいつになにか言われたの?」


 新九郎の問いに、奏汰は思わず言葉を濁した。

 だがそこに緋華ひばなが踏み込む。


「あいつがあなただけを誘ったときから、怪しいと思ってた」

「だ、大丈夫だって。別に俺がなにかされたとか、そんなんじゃないからさ……」

「ほんとに?」

「ああ……心配してくれてありがとな、緋華さん」

「むぅ……」


 極めて珍しく、緋華は奏汰を案じるような様子を見せる。

 それは緋華からエルミールへの警戒の強さと、二ヶ月半という日々がもたらした、彼女から奏汰への態度が軟化したことによる変化だった。


「えへへ……なんだか、姉様が奏汰さんを心配してくれるのを見ると、僕まで嬉しくなっちゃいますっ!」

「心配してない。けど……こいつの強さは私も認めてる。こんなのがわたしたちを裏切ったら、あなたが危ない」

「奏汰さんはそんなことしませんよー! ねっ、奏汰さんっ!」

「ああ。なにがあったかは後で話すよ。とりあえず俺たちも行こう」


 いまだ憮然とする緋華と、二人の様子に心底嬉しそうな新九郎。

 奏汰は二人を伴って門弟たちの輪の後ろに座り、太助の言葉を待った。

 

「――では、私の決定をお伝えします。今回の台覧試合には、私と三郎さぶろうさん、そして春日かすがさんの三人。そして、そちらにいるつるぎさんと徳乃とくのさんを加えた五名で参加します」


 ――――――

 ――――

 ――


愛宕あたごくだり権現ごんげん

 江戸の浜にこそ寄りたまへ

 市谷いちがやの丘にて逢うたれば

 年はゆけども若皇子わかおうじ


 しゃらん。

 しゃらん。


 鈴が鳴る。


 広がるは白石の海。

 初砂うぶすなの流れ。

 琵琶びわ龍笛りゅうてきに、楽筝がくそうの音色。


 何処いずこより聞こえしわらべ歌。


 こうこうと輝く満月の夜空。

 月の青白い光に照らされる荘厳そうごんな造りのやしろ――鎌倉かまくら鶴岡八幡宮つるおかはちまんぐう


 文政ぶんせいの世から数えて七百年の昔。

 日の本に武士の世の始まりをもたらした、源氏一門げんじいちもんの守護をつさかどる由緒ある社である。


 そして今。

 月の光のみならず、無数のかがり火によって明るさを増した境内けいだいには、緩やかな雅楽ががくの音色が流れていた。


「……粗野なものよ。どちらを向いても、いくさと血の臭いが染みついておる」

「不服か?」

「ほっほ……むしろ、我にとっては好ましい寝所しんじょであろう。褒めて遣わすぞ、時臣ときおみ


 かがり火の赤。

 その赤に照らされる鶴岡八幡宮の拝殿はいでん


 そこでは見上げるほどの巨躯に〝左目を眼帯で隠した大男〟――時臣と名を呼ばれた一人の剣士と、壮麗そうれい公家装束くげしょうぞくをまとう線の細い美男が言葉を交わしていた。


「鎌倉では十日を過ごす。それが過ぎれば、ようやくお前が待ち望む江戸につく。だがな……今回のお前の振る舞いはいささか物好きが過ぎるぞ、無条むじょう

「物好きとな?」

「物好きでなければなんだ? 我らは先に、命を賭して我らのために戦った彼岸ひがんを失った。にも関わらず、お前は京から下洛げらくし〝女を見舞う〟と言うではないか」


 時臣の顔に勇者としての素性を隠す漆黒の面はつけられていない。

 月光の下、不動明王ふどうみょうおうもかくやという暴を感じさせるいわおのような相貌そうぼうが露わになっている。


「〝想い人〟を見舞うことのなにが悪い? 愛する者が病に苦しんでいると聞けば、心痛で夜も眠れぬのが人情であろうに?」

「やめろ。〝己が人であるかのような〟口をきくな」

「クク……手厳しいことよの」


 勇者である時臣と対等に言葉を交わすこの男。

 この男こそ、今世の上方かみかたを掌握する宮中の最高実力者――無条親王むじょうしんのうである。


 無条は恐るべき時臣の視線にも優雅な笑みを浮かべるのみ。

 見事な満月を眺め、手に持つ杯をゆるゆると口元に運ぶ。


「お主がなんと言おうと、我の恋心はまことぞ……十年前、一度は行き場を失ったこの想い、二度も逃す我ではない」

「…………」

「時臣よ、お主と共に過ごした今世の時はもはや幾星霜いくせいそうを越えて久しい……ゆえに、十年前にお主が犯した取り返しのつかぬとがは、血涙を流しながらも許した。しかし次はない……そのこと、ゆめゆめ忘るるでないぞ」

「ふん……好きにしろ。だが、我らの邪魔はするなよ」


 余裕の態度を崩さぬ無条に、時臣は最後まで厳しく釘を刺す。

 それは友や主従というよりも、どこか親子のそれを思わせた。


「ほっほっほ……久方ぶりに顔を見るのが楽しみだ。きっとあの可憐な母に似て、さぞ美しく咲き誇っているのであろうな……〝乙女椿おとめつばきの姫君〟よ」


 果たして、無条が見上げる月に浮かぶ〝想い人の面影〟は何者か。


 無条はその虚無的な瞳を細め、ほの暗い情念を露わに酷薄な笑みを浮かべたのであった――。


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