乙女椿の姫君


「――本当に行くの?」

「行くよ。新九郎しんくろうの頼みだし」

「ありがとうございますぅぅううううっ! 実のところ、僕一人でお城に帰るのは心細すぎてぇえええええぇぇっ!!」


 みんみんとせみの鳴き声が響く文月ふみづきの朝。


 珍しく心配そうな様子を見せる緋華ひばなに答えつつ、奏汰かなたは仕立てたばかりの茜色あかねいろの着流しに袖を通し、同じく仕立て上げられた黒羽色くろばねいろはかまを腰帯で結ぶ。


「もしも新九郎のお母さんが本当に勇者なら、俺も無関係じゃいられない。それにまあ……新九郎と一緒に暮らしてるのは本当だし……」

「それならわたしが報告してる。とっくに上様も承知のこと」

「そ、それはそうだろうけどさ。やっぱりこういうことは、ちゃんと挨拶しとかないと……」

「納得いかない。そもそもわたしがあんなに言ってるのに、最近のあなたたちは距離が近すぎる」

「そ、そうでしょうか? 僕はあまりそんな風には……」

吉乃よしの……あなた、本気で言ってるの?」


 新九郎が江戸城への一時帰宅を決めた数日後。


 緋華から登城の許可が出たことを伝えられた奏汰は、山王祭さんのうまつりの直後に呉服屋ごふくやで仕立てを依頼していた現地の服――〝粋でいなせな〟最新の江戸よそおいに身を包み、緊張した面持ちで将軍との謁見えっけんにのぞもうとしていた。


「よし、と……どうかな? おかしくない?」

「わぁ……!! とってもお似合いですよっ! いつもの奏汰さんもいいですけど……着物姿はもっと……その……あの……はわわ……っ!?」

「気にくわないけど……〝京でモテそう〟」

「なんだそれ?」


 普段のシャツにパンツという洋装から一変。

 ぴしゃりと決めた着流し袴姿に、薄く手に取った〝鬢付びんつけ油〟で前髪を後ろに流した奏汰は、まげこそっていないものの、江戸にあっては目立つ立派な体格と相まって精悍せいかんそのもの。

 

 新九郎のような細面ほそおもてが持てはやされた江戸の流行とは異なるが、男性的な力強さと優しさをとした〝上方京都〟であれば、町を歩くだけで目を引くであろう見事な出で立ちとなっていた。


「へぇ……やっぱりこの時代にも、見た目の流行りってあったんだな」

「馬子にも衣装」

「本当にお似合いだと思いますっ。僕も奏汰さんに合いそうな柄やお色を選んだかいがありましたっ!」

「色々やってくれてありがとな、新九郎。前から思ってたけど、新九郎って普段からむちゃくちゃお洒落しゃれだもんな。さすが、江戸一番の天才美少年剣士! って感じだよ」


 言って、奏汰は真新しい着物に身を包んだ自分の姿を、ひび割れた鏡でのぞき込む。

 その奏汰の言葉通り、奏汰の着物は全て新九郎が仕立ての注文をつけたものだ。

 彼女がまとう淡い色合いの着物も実に鮮やかで風流なもので、どうやら新九郎には着付けや見立ての才もあるらしかった。


「ふっふっふーん……さっすが奏汰さん! 粋といなせのなんたるかをよくご存じで! でしたらこれからも、奏汰さんの着物選びはこの僕にすべてお任せくださいっ! どやーっ!」

「あはは! なんだか、新九郎の〝それ〟も久々だな」


 ただ新しい着物に袖を通しただけだというのに、奏汰と新九郎はわーわーぎゃーぎゃーと大盛り上がり。

 しかしそれを見た緋華はすぐさま新九郎を無理矢理に奏汰から引き離すと、鋭い視線を奏汰へと向けた。


「はわっ!?」

「二人とも調子に乗らないで。特に剣奏汰つるぎかなた……あなたにもう一度聞くけど、本気で上様に会うつもり?」

「そのつもりだけど、なにかまずいのか?」


 そう尋ねる緋華の眼光は〝普段の五割増し〟で鋭い。

 当初に比べれば相当に柔らかくなった緋華からの当たりだが、奏汰へのその問いには、出会った頃以上の鬼気迫る凄みが滲んでいた。


「吉乃は徳川家の姫……上様は捨て置いているけど、吉乃への縁談は今も山ほど来てる」

「ええ!? まだ来てるんですか!?」

「世に一輪のみの大花……七宝しっぽうに勝る徳川の珠玉しゅぎょく……天から下りし八面玲瓏はちめんれいろうの姫……一笑千金いっしょうせんきん乙女椿おとめつばきの姫君……こういうのが、ぜんぶ吉乃あての文に書いてある」

「す、すごいな……さすがお姫様……」

「いやぁー! それほどでもありますよ! なーっはっはっは!」

「笑い事じゃない……吉乃を手に入れれば、どんな外様大名とざまだいみょうだって譜代ふだいになれる。しかも吉乃は〝日の本一の美姫〟でとても有名……狙ってるやつらも、みんなしつこい」


 新九郎が諸藩しょはんの大名や公家くげはおろか、皇族にすらその名が知れ渡っていることは奏汰も度々聞いていた。

 しかし緋華が語るその実情は、奏汰の想像を遙かに超えたものであった。


「吉乃が城を出てから、外には〝吉乃は病気〟って言ってある。大抵の相手はそれで引き下がるけど……諦めないやつも多い」

「それは、そうだろうな……」

「吉乃は姫……それもただの姫じゃない、日の本一の姫。上様にそのつもりがなくても……きっといつかは、吉乃もどこか大きな家に〝輿入こしいれ〟する時がくる……」

「輿入れって……結婚するってことか……」


 緋華のその言葉に、奏汰はありありと顔をしかめ、胸の内に沸き立つ心の痛みをはっきりと自覚する。


 だが緋華の話は冗談を言っているわけでも、奏汰と新九郎を傷つけようとしているわけでもない。

 武士の頭領とうりょう……〝将軍家の姫〟という新九郎の立場を、ただありのままに伝えているだけだった。


「そんな……っ! 僕には、まだそのつもりはありませんっ!」

「関係ない。いくら上様が吉乃に甘くても、上様の周りはそうじゃない。吉乃は軽い気持ちでこいつを登城させるつもりみたいだけど、それはあなたにとっても、こいつにとっても大変なこと」


 緋華の鋭い眼差しは、奏汰を射貫き続けている。

 その瞳には言外げんがいに、〝おまえは吉乃を幸せにできるのか?〟という問いが込められているように見えた。


「だからわたしは聞いている。剣奏汰……あなたにその覚悟があるのか。上様に会って……それで吉乃をどうするつもり? 吉乃の背負っている重荷を、あなたはどうするつもりなの?」

「俺は……」

「だ、だからって……どうして奏汰さんがそこまで言われないといけないんですか!? たしかに、僕と奏汰さんはここで一緒に暮らしてますけど……別に、〝ただそれだけ〟で……!!」

「はぁ……本当に困った子」


 思わず口ごもる奏汰と、無自覚すぎる新九郎。

 あまりにも初心うぶな二人に緋華は首を振り、ふうとため息をついた。


「今はまだそれでもいいかもしれない……けど覚えておいて。上様は人の心の真贋しんがんを見抜くお方……わたしがちょん切る前に、上様に斬られても知らないから」


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