最後の嘘


「こんなところで会うなんて、本当に奇遇ですね」

「そうだな。しずるさんは一人で来たのか?」


 江戸の町が煌々こうこうと輝く山王祭さんのうまつりの夜。

 人混みの中に見知った顔をみかけた新九郎しんくろうは、奏汰かなたと共にその少女――静流しずるに声をかけていた。


「はい……人混みは苦手なんですけど、今日は特別な日だったので」

「特別な日か……こんなに大きなお祭りだもんな」


 話しながら、二人は人混みが苦手だという静流のために日枝神社ひえじんじゃ境内けいだいへと入っていった。

 比較的平坦な江戸の中にあって、小高い丘と深い林に囲まれた境内は祭りの喧噪けんそうを遠ざける。

 松明の炎で照らされた日枝神社の拝殿からは、一定の拍子で続く美しい雅楽ががくの音色が響いていた。


「そういえば、あの時の猫さんはお元気ですか?」

「あの子なら、ルナ先生のおかげですっかり歩けるようになりました。きっともう……あの子だけで立派に生きていけると思います」

「……? あの猫は、もうしずるさんの家にはいないのか?」


 祭りの熱気漂う市中とは切り離された清冽せいれつな領域。

 夜の闇に灯るやしろの火。

 そして時折夜空に弾ける花火の輝きに、寂しげな静流の横顔が照らされる。


「あの子は〝逃がしました〟……私の所にいたら、また怪我をしてしまうかもしれないので」

「怪我を?」

「……いきなり変なことを言ってごめんなさい。実は、ここでお二人に会ったのも〝偶然じゃない〟んです。つるぎさんと徳乃とくのさんにお聞きしたいことがあって……ずっと、探していたんです……」

「聞きたいことですか? 僕で良ければ、なんでもお答えしますよ!」


 広々とした日枝神社の入り口。

 赤く塗られた巨大な鳥居が幾重いくえにも並ぶ石畳の上。

 やがて足を止めた静流は、その前髪で己の表情を隠したまま、ゆっくりと二人に向き直る。


「ありがとうございます……思えば初めて会ったときから、徳乃さんはずっとわたしに優しくしてくれましたね……わたしはあなたのそんな優しさが、とても羨ましいです」

「そ、そうですか? いきなりそんな風に言われると、ちょっぴり照れちゃいますねぇ。えへへ……」

「だから――」


 それは、不思議な感覚だった。

 ただでさえ遠ざかっていた周囲の喧噪がさらに遠ざかり、奏汰と新九郎の耳に静流の声だけが届く。


「だから私は、あなたに〝もう一度〟聞きたい。もし……今のあなたにとって一番大切なものを犠牲にすれば、亡くなったお母さまを生き返らせることができると言われたら……あなたはどうしますか?」

「え……? そ、それって……」

「どうしてしずるさんが……?」

「答えて下さい……お母さまの命か、それとも今のあなたにとって〝一番大切なもの〟か……徳乃さんなら、どちらを選ぶのかを」

「い、いきなりそんなこと言われましても……っ」


 その静流の問いには、有無を言わせぬ鋭さがあった。

 誤魔化しも、逃亡も許されない。そういう類いの問いだ。

 問われた新九郎は、静流の圧に押されるように思考を巡らせる。


(大切なものを犠牲にすれば、母上が生き返るなんて……だけど、今の僕にとって〝一番大切なもの〟ってなんでしょう……? 父上も、姉様も、江戸のみんなも……僕は全部大好きで――)


 それはかつて、闇を対価に母を生き返らせると言った彼岸の問いよりも、はるかに難しい問いであった。

 新九郎の脳裏に次々と見知った人々の顔が浮かび、やがてそれは、今も隣に立つ少年の面影へと収束する。


(奏汰さんだって……はわわ、やっぱりこんなの決められませんよっ!?)


 果たして――新九郎は悩みに悩み、懸命に答えを探して考えを巡らせる。そうして、やがて自信なさげな様子で顔を上げると、恐る恐る口を開いた。


「ごめんなさいっ!! やっぱり僕には選べません……! 母上がいないのは、今もとっても悲しいんです……でも僕のせいで、大切な誰かが酷い目に遭うのも絶対に嫌で……っ!」


 それは、曲がりなりにも武士を名乗る者としてはあまりにも情けなく、正直すぎる答えだった。

 しかしそれを聞いた静流はすっと目を細めると、前髪から覗く口元に優しさの滲む笑みを浮かべた。


「謝らないでください。わたしは、あなたのそんなところも素敵だと思います……正直に答えてくれて、ありがとうございました」

「しずるさん……」


 おどおどと眉を八の字にしてしょげかえる新九郎に微笑むと、静流は次に奏汰にその眼差しを向けた。


「では……つるぎさんはどうです? たとえば、徳乃さんを守るために、この世に生きる全ての命を犠牲にしなければならないとしたら……あなたはどんな決断をするのでしょう?」

「…………」

「そんなっ!? 僕かみんなかなんて……そんなの、みんなに決まってるじゃないですかっ!!」


 静流の問いがもたらした静寂の空間。

 新九郎への問いと中身は異なるものの、やはりその問いは奏汰の信念を問うものだった。だが――。


「……その二択なら、俺は新九郎を助けるよ」

「ちょ……!?」

「…………」


 だが奏汰は悩まない。

 むしろ、答えなど最初から決まっていると言わんばかり。


「か、奏汰さんっ! 僕のことならお気になさらず……!!」

「……理由を、聞かせてもらってもいいですか?」


 奏汰のその答えに、一番驚いたのは他でもない新九郎だ。

 いかにお調子者の新九郎とはいえ、己の命一つと世界全てを秤にかけて、己を優先しろなどとはつゆとも考えていなかったからだ。しかし――。


「新九郎を諦めれば他は全部救える……そんな奇跡みたいな力、俺にはない」

「……っ」

「もし力があったとしても答えは同じだ。みんな自分で考えて、自分の幸せのために頑張って生きて……最後には死ぬ。そんなみんなをまとめて救えるなんて、俺には考えられない」


 そこで奏汰は言葉を句切り、隣に立つ新九郎を見つめた。


「けど新九郎がどうすれば喜んでくれるとか、何をしたら悲しいとかはなんとなくわかる。だから俺は、今俺の隣にいてくれる新九郎のために出来ることをしたい……もちろん、そんな二択を選ばなくていいようにするのが最優先だけどな」

「奏汰さん……」

「そう……ですか。答えてくれて、ありがとうございました……」


 二人の答えを聞いた静流が、深々と頭を下げる。

 周囲の喧噪と花火の音が戻り、雅楽の音色が再び響き始める。

 顔を上げた静流は、周囲を見回しながら二人に背を向けた。


「わたし……お祭りは久しぶりだったんです。わたしが子供の頃、両親に連れて来てもらったのが最後で……」

「……? しずるさん?」

「……だめだ、新九郎」

「えっ?」

 

 その時に静流が見せた寂しげな横顔に、新九郎は思わず彼女の元に歩み寄ろうとしたが、その手を奏汰が引き留める。


「あの頃は、とても楽しかったんです……父も母も、すごく優しくて……いつかわたしも、両親みたいな優しい大人になりたいって……そう思っていました」


 もはや何度目かもわからぬ花火の音。

 気付けば、いつしか拝殿から流れる雅楽の音は絶えていた。


「やめろ、しずるさん……今ならまだ間に合う」

「静流です……わたしの名前は柚月静流ゆづきしずるゆずの月に、静かに流れると書きます。すこし前までは、〝天恵てんけいの勇者〟と呼ばれていました――」

「天恵の、勇者……?」


 江戸の町から届く祭りの喧噪。

 その喧噪の質が、突如として変わる。

 宴にわく喜びの声が、〝絶望と恐怖の悲鳴〟へと変わったのだ。


「やっぱり、最後にお二人とお会いできて良かったです……これでもう、静流としてのわたしには何も思い残すことはありません……」


 そうして振り向いた静流の顔。

 そこには、かつて新九郎の前に現れた蒼白の狐面――彼岸の姿があった。


「静流さんが、彼岸さんの正体……? そんな……!?」

「嘘をついてごめんなさい……けど、わたしの嘘もこれで終わり。今より私の持つ全ての力をもって貴方たちを倒し、我らの大願を成しましょう」


 荘厳なる赤鳥居の前。

 狐面を被り、常闇来者彼岸とこやみくるものひがんとなった静流が静かに呟く。


 同時に、静流がまとう淡色の小袖こそでが瞬く間に豪奢ごうしゃなな法衣へと変じ、頭上へと掲げられた静流の――否、〝彼岸〟の手の平から天上へと光芒こうぼうが伸びた。


「おいで……〝アステリ星群ズム〟。今より始まるこの戦いを……私たちの最後とします」 


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