幸せの在処


新九郎しんくろう……大丈夫かな」

「まったく、そんなに心配なら君が行けば良かったじゃないか。いくら嘘や演技が苦手といっても、それについては君も徳乃とくのもたいして変わりないだろうに」


 黒示救世教こくじきゅうせいきょうの屋敷裏手。

 田畑に囲まれた見晴らしの良い屋敷の立地上、周囲から死角となる建物の場所は限られている。

 ゆえに奏汰かなたとクロムはむしろ堂々と、物珍しさに集まった見物人の体で他の民に混じることで、信徒の目を逃れていた。


「そうだけど……張り切って腰痛の練習してる新九郎を見てたら言えなくてさ……マジで危ないってわかってれば、流石に止めたんだけど」

「ふむ……以前の君ならまだしも、最近の君にしては珍しく甘いことを言うじゃないか。そういえば、君が〝現地人〟とここまで接近したのも久しぶりだろう?」

「そうかもな……」


 クロムの問いに、珍しく歯切れの悪い答えを返す奏汰。

 彼の言うとおり、奏汰が旅した異世界で現地の人々と親交を結ぶことは珍しことだった。

 決して、始めからそうだったわけではない。

 現にクロムが管理する奏汰が救った一つ目の世界では、今も奏汰との再会を望む人々が大勢いる。

 しかしそのような存在は、奏汰が超勇者としての旅を続ければ続けるほど少なくなった――。


「私のせいだね……私は世界をどのように救うかよりも、いかに効率よく多くの世界を救うかを目指した。そうなれば、その世界で誰かと交流を持つことは足かせにしかならない」

「それに賛成したのは俺だろ。それに、俺もそれで何度も〝しんどい目〟にあったからさ……」


 その力で誰を助け。

 その剣で誰を倒すのか。


 奏汰はこれまで、その決断を何度となく強いられてきた。


 たとえ各世界が抱えるイデオロギーや善悪を極力無視したとはいえ、その過程で犠牲になる者がゼロだったわけではないのだ。


 圧倒的な力で世を滅ぼす邪悪を倒してきた奏汰も、時には奏汰こそが世の平穏を乱す悪魔と罵られ、その世界に生きる人々に〝絶望のみを残して立ち去った〟ことすらある。

 奏汰ほどの力をもつ者が〝誰かに肩入れする〟ということは、それ以外の者を蔑ろにすることでもあるのだから――。


「けど……俺はここに勇者として来たわけじゃない。世界を救うとかじゃなくて、この町の人が安全に暮らせて……新九郎が笑っていられるなら、それで……」


 奏汰は呟き、どこまでも広がる青い空を見上げた。

 そしてその青空に重なるようにして、新九郎の可憐な笑みが浮かび、たとえようもない切なさが彼の胸を締め付ける。


「ふーん? どうも二人の距離が近すぎると思っていたけど、どうやら君は、徳乃に恋愛感情を抱いているようだね?」

「……っ!? い、いきなりなに言ってんだよ!?」

「あははは! 実に結構なことじゃないか。むしろ私は、まだ君にそういう〝人間らしい感情〟が残っていてくれて嬉しいくらいさ」


 ずばりと切り込むクロムに、驚くほどの狼狽えを見せる奏汰。

 しかしクロムはそんな奏汰に微笑むと、おもむろに屋敷の塀に手を添えた。


「けどそういうことなら、私としても徳乃は守るべき存在ということだね。君が徳乃に傷ついて欲しくないと思うように、私は君にこそ、これ以上傷ついて欲しくないのだから」

「クロム……」

「とはいえ、気をつけたまえよ……恋や友情は間違いなく尊い物だけど、時に冷静な判断を鈍らせることもある……特に、君はそういう感情と向き合った経験は未熟なようだからね」


 クロムの美しい銀髪がざわめき、彼が持つ神の気がにわかに満ちる。

 ここまで至近での感知であれば、たとえ神や勇者の力でなくとも、内部でなにが起きているのかを知ることができるだろう。だが――。


「……おまえらも、ここの〝嘘つき〟になにか頼みにきたのか」

「ん?」


 クロムが屋敷内部に意識を集中させたのと同時。

 油断無く周囲を見回した奏汰に、薄汚れた一人の少年が声をかけたのだった――。


 ――――――

 ――――

 ――


「貴方の〝亡くなられたお母様〟……この彼岸ひがんの手で、再び現世へと蘇らせて差し上げてもよろしいのですよ……?」

「え……?」


 屋敷内部。

 謁見の小部屋。


 おごそかな気が満ちる祭壇前で、台を挟んで向き合う彼岸と新九郎。

 今の自分に特に願いはないと白状した新九郎に対し、彼岸は『ならば死んだ母を蘇らせてやろう』と提案した。


「そ、そんな……!? そんなことが、本当にできるんですか……!?」

「ええ、もちろん。私の力は、人の心にある闇……悲しみや絶望といった負の感情を糧として奇跡を起こすもの……貴方の心にお母さまを失った悲しみがある限り、どのような願いも叶えてご覧に入れましょう……」


 彼岸のその言葉に、新九郎の胸がどっと早鐘はやがねを打つ。

 それは果たして、喜びか疑問か。

 否――彼岸の発した突然の言葉は、新九郎の胸を無数の感情で埋め尽くし、一種の混乱状態へと落とし込んだのだ。


「で、でも……っ! 母上はもうずっと前に亡くなって……お墓参りだってちゃんとしてるんですよ!?」

「時や場所など、私の力の前では関係ありません……それとも、貴方はお母様に会いたくはないのですか?」

「……っ」


 新九郎の白くなめらかな肌に、じっとりと汗が滲む。

 口の中がまたたく間に乾ききり、一滴の唾を飲み込むことすらできない。


「しかし一つだけ……私の力は、貴方の内にある闇を糧として奇跡と成す技。すなわち、貴方の闇が尽きれば私の奇跡も消える……それだけは、ご承知おきくださいませ」

「僕の闇……母上がいなくて、悲しいっていう気持ちのことですか……?」

「ええ、ええ……しかし貴方が今日までに味わった辛さは相当なものでしょう……きっと蘇ったお母様は、立派に成長した貴方の姿を見てお喜びになられることでしょうねぇ……」

「母上が……今の僕を見てくれる……喜んでくれる……」


 汗ばんでいるはずなのに、彼岸から放たれる空気はぞっとするほどに冷たかった。

 新九郎は我知らず胸元を手で押さえ、浅くなる呼吸を必死に繰り返す。

 

「なにを悩むことがありましょう……? ただ一言、私に願えば良いのです。またお母様に会いたいと……お母様を蘇らせて欲しいと。そのために闇を捧げると……ただ一言口に出せば、それで奇跡は成されますゆえ……」

「あ、ああ……っ」


 新九郎の手が、着流しの胸元へと伸びる。

 そこには肩掛け紐にくくられた小袋があり、奏汰から渡された〝白の光〟を宿した石が入っていた。


(母上に、また会える……? 今の僕を見て、喜んで貰える……っ? そんな……そんなの……っ)


 何かあればすぐに使えと。


 そう奏汰に言われた石を握りしめながらも、すでに新九郎の脳内には母のことしかなかった。

 新九郎の薄桃色うすももいろの唇が震え、今にも目の前の法師に救いを求める言葉を発しようとした。しかし――。


〝ごめんね……吉乃よしの……〟


 だがその時だった。

 許容量を超えた混乱の渦に沈みかけた新九郎の胸に、かつて――どこかで聞いたはずの声が響いたのだ。


〝いつも失敗ばかりで……なにも守れなかった僕だけど……最後に、吉乃を守れて良かった……〟

 

 忘れるはずもない。

 その声は、遠い昔に聞いた母の声。

 新九郎が何度思い出そうとしても思い出せなかった、母の残した最後の言葉だった。


(はは、うえ……?)

 

 それは、新九郎がまだ物心がついて間もない頃。

 青く輝く月明かりの下。

 激しい戦いで半壊した江戸城の屋敷と、近づいてくる侍従たちのざわめき。

 

 少しずつ熱を失っていく母の腕に抱かれ、新九郎はたしかにその声を聞いたはずだった。


〝ああ……生きてて良かった……僕は、今日まで精一杯に生きて……あの人と会えて……この力で吉乃を守れたんだ。それ……だけで、僕は――〟


「あ……っ?」


 やがて――その声が遠ざかったとき。


 新九郎は、両のまなこから大粒の涙をぽろぽろと零し、声も上げずに泣いていた。

 そして涙で滲む視界の先には、そんな新九郎をなにも言わずにじっと見つめる彼岸の姿――。


「少し、意識がここから離れていたようですね……」

「す……すみませんっ。僕、急に……どうして……!?」

「いいえ……〝謝るのは私の方〟です。闇を覗き見ることに夢中となり、貴方の心に踏み込みすぎました……先の提案は、どうぞお忘れ下さい……」


 そう言うと……彼岸はなおも溢れ続ける新九郎の涙を、台の上に置かれた絹布でそっと――慰めるようにして拭う。

 仮面の下に覗く彼岸の黒い瞳には、その言葉通りの申し訳なさが滲んでいた。


「彼岸、さん……?」

此度こたび……私のたわむれが過ぎたこと、心から謝罪します……面談の刻限となりましたので、本日はどうぞお引き取りを……」


 彼岸は両手を合わせて頭を下げると、そのまま立ち上がって新九郎に背を向けた。

 一方の新九郎は、泣きはらした目で呆然とその背を見つめることしかできなかった。


「〝徳乃とくの様〟……どうか、今ある幸せを大切にして下さい。きっと、貴方のお母様もそれをお望みになっているはずです」

「母上が……」

「そして願わくば……もう二度と、私たちがこうして顔を会わせることのなきように……道中、お気を付けてお帰り下さいませ」


 幾重いくえにも垂れた薄幕うすまくの向こう。

 音もなく去って行く彼岸の背。

 新九郎の目に映るその背は、たとえようもなく寂しく……泣いているようにすら見えたのだった――。


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