光陰の列


 文政ぶんせい当時、江戸の町は関東に居を構える徳川幕府の城下町として栄え、その人口は百万人を優に超えていた。

 一つの都市における総人口としては当時の世界最多であり、なおも増え続ける人口に、医療を初めとした幕府による福利厚生は後手に回ることが殆どだった――。


「どうかお願いします! 彼岸ひがん様のお救いをお恵みくだされ!」

「息子が……息子が流行り病なんです! 彼岸様のお力で、息子をお救い下さいっ!」


 東西南北に広がる江戸の果て。

 実質的に江戸の東端となっていた隅田川すみだがわのほとりに、のどかな田畑が広がる景観には不釣り合いな、見事な屋敷が建っている。


 屋敷の周囲には等間隔で旗が立っており、そこには漆黒の布地に白抜きで、黒示救世教こくじきゅうせいきょうの文字が描かれていた。


「ならぬ。我らが開祖であらせられる彼岸様は不在。救いを得たいならば、心静かに我らが教えを念じるべし」

「そんなっ! 息子は今にも死にそうなんです! お願いします、彼岸様がどちらにいかれたのかだけでも、教えて下さいませんかっ!!」

「俺の妻も死にそうなんだ! せっかく子供が生まれたってのに、肥立ひだちが悪くて……!」


 ここは、黒示救世教の開祖である彼岸が住まう屋敷前。

 田畑を貫くあぜみちには果てすら見えぬほどの行列ができ、屋敷前には大勢の人だかりでごった返している。

 人々はみなその背や腕に重病の者や傷ついた者――中にはすでに〝息絶えた者〟すらを抱え、声も涙も枯れんばかりに救いを求めていた。


「――おやおや。このように大勢の方がいらっしゃるとは。これはまたどのような一大事でしょうか?」

「彼岸様!? お出かけになられていたのでは!?」

「たった今戻ったところでしてねぇ……このような暑い中、皆様を待たせてはいけないと思いまして」


 そしてその時。

 まるで人々の救いの声に応えるかのように屋敷の門が開き、幾人かの付き人を従えた蒼白の狐面をつけた法師――常闇来者彼岸とこやみくるものひがんが姿を現わした。


「彼岸様!? 彼岸様がおいでになられたぞ!」

「ああ、彼岸様……! どうか、どうか私の大切な家族をお救い下さい!」

「彼岸さまぁ!!」


 その姿を見た人々が、一斉に彼岸の周囲へと群がる。

 屈強な信徒たちが錫杖しゃくじょうを持って怒涛どとうのような勢いの群衆を押さえ込もうとするが、到底抑えきれるものではない。

 あぜ道を乗り越え、周囲の田畑を踏み荒らし、我先にと救いを求める人々の姿は、まるで甘味に群がる蟻のようですらあった。しかし――。


「――鎮まれ」


 にわかに制御不能となった人々の耳を、まるで雷鳴か氷柱つららのような鋭い一喝が貫く。


「鎮まりなさい。そう慌てずとも、私の力は貴方たち全てを救うために与えられたもの。貴方たちの心に闇がある限り、必ずや救いは行き届きましょう」


 押し寄せた群衆の中心。まるで巨大な海を割るかのように前に進み出た彼岸の圧倒的な神々しさに、集まった人々は我知らずうちに次々と膝を突き、その額を大地にこすりつける。


 彼岸はそんな人々を見て満足そうに頷くと、〝灰色の光〟を灯した手で一人、また一人と傷ついた者たちに触れていった。


「あれ……ここはどこ? おっかあ……どうして泣いてるの?」

「ああ……! ぼうや……っ!?」

「ちよこ! 元気になったんだな!?」

「じいさんが……じいさんが目を覚ました!」


 するとどうだろう。

 それまで息も絶え絶えだった者が何事もなかったように立ち上がり、病は収まり、傷すらも塞がって、最愛の家族や思い人と喜びの抱擁を交わしていくではないか。


 その奇跡に生者と死者の区別はない。


 たとえその身が欠損し、腐敗が始まった死者であろうとも、彼岸は一切の躊躇なくその手を触れ、見事に生前そのままの姿と命を取り戻して見せるのだ。


「あ、ああ……! 彼岸様……!」

「彼岸様!!」

「なんと神々しい……!」

「彼岸様こそ、まこと現人神あらひとがみだ!


 それはまさに聖者の行進。

 彼岸が歩みを進めるたびに悲しみが消え、その後には喜びだけが残る。

 これを奇跡と呼ばずなんと呼ぶのか。

 まさにそのような光景が現実となって顕現けんげんしたのだ。しかし――。


「ちがう……! みんな騙されてる。そいつに騙されてるんだ――!!」


 だがその時。

 間もなく彼岸の奇跡が全ての者に行き渡ろうとした頃。

 穏やかに歩みを進める彼岸に向かって、一人の少年が厳しい言葉を浴びせた。


「なんだこのがきは!? 彼岸様のことを馬鹿にするってのか!?」

「なにが騙されてるってんだ!? 現にこうして、みんな元気になってるじゃねぇか!!」

「ちがうちがうちがう……っ!! そいつの奇跡は、〝ずっとは続かない〟んだ……! おいらのおっかあは、そいつに治して貰った後でまた倒れて……今度はずっと〝目が覚めない〟んだ!! これなら、お前なんかに頼むんじゃなかった!!」

「ああ!? なに言ってんだこのがきゃあ!? そんなもん……俺たちだって〝百も承知〟だよッ!!」


 突然現れた少年の言葉に、周囲の群衆はにわかにざわめき立つ。だが――。


「そのとおり……私は嘘などついてはおりませんよ。私の力は、皆様が抱える悲しみや絶望を糧として奇跡を成す。貴方のお母様が目覚めないというのであれば、それは貴方の心にあった悲しみが所詮〝その程度だった〟ということでございましょう……」

「そ、そんな……っ!? そ、そんなわけ……そんなわけあるか……っ!! おいらには……おいらには、おっかあしかいないのに……!!」

「どちらにしろ、私に縋ったのは貴方ご自身がお決めになったことのはず……それとも、私にもう一度縋ってみますか? もしかしたら、貴方がたった今抱えている〝私への怒り〟を対価にすれば、お母様を再び目覚めさせることができるかもしれませんよ……?」

「な……っ!?」


 救いを求める群衆の前だというのに、彼岸は悪びれもせず堂々とその少年の前に立ち、はっきりとした口調でそう〝言い切った〟。


 そしてその言葉を聞いた人々もみな彼岸の言葉に同意し、〝己の悲しみはその程度ではないから大丈夫だ〟と、少年をののしる者すら現れる始末。


 そう。すでにここにいる人々は承知しているのだ。


 己の心にある闇……愛する者を失った悲しみや絶望が少なければ、彼岸の奇跡は〝長続きしない〟ということを。

 彼岸の起こす奇跡に、不確定ながらも〝限り〟があるということを。


 しかしそれでも、人々はこの法師に縋った。


 いくら祈ろうがなんの救いももたらさない神仏。

 いかに高い銭を積もうと、命を呼び戻すことはできない医者。

 丹精込めて育てた作物を、年貢と言って持ち去っていく幕府。


 たとえ限りがあろうとも。

 たとえ一瞬の夢幻ゆめまぼろしであろうとも。


 この法師は、それら全ての苦しみからたしかに人々を救ってくれるのだから――。


「彼岸様への誹謗ひぼうは断じて許さぬ!」

「薄汚れたがきが。さっさと消え失せろ!」

「ちくしょう! ちくしょう! おいらはただ、おっかあに元気になって欲しくて……! おっかあを返せ……おっかあを返せよぉおおおお!!」


 彼岸の言葉に、少年がそれ以上答えることはなかった。

 即座に駆けつけた彼岸の従者によって、少年はすぐさま縛り上げられ、どこぞへと運ばれていってしまう。


「ふふ……さあさ、残る人はどちらに? 貴方たちの心に闇があるかぎり、私はすべてを救ってみせましょう……」


 連れ去られる少年を狐面の奥でみやりながら、彼岸は再び人々に向き直り、厳かな足取りで行進を再開する。


「どいつもこいつも……自分だけは違うと信じ、力ある者にすがるしか能の無い馬鹿ばかり。ご安心なさい……あなたのお母様にも、ここにいる馬鹿どもにも……立派に私たちの〝供物〟となっていただきますよ。ククク……」


 果たして、その行進は真の救いであるのか否か。

 力なき民衆の列を従え、彼岸は蒼白の狐面の下で誰にも聞こえぬように呟くと、ほの暗い笑みを浮かべたのだった――。


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