神には求めず


「終わりました。あとは傷が治るまで、なるべく安静にしてくださいね」

「……ありがとう、ございました」


 少女が連れてきた子猫の処置を終え、ルナはふうと手ぬぐいで額をぬぐいながら表座敷へと戻ってきた。

 治療が終わるまでじっと待っていた少女は、頷くルナにおずおずと頭を下げて感謝を述べる。


 この少女の名は〝しずる〟というらしい。

 歳の頃は新九郎しんくろうと同年代だろうか。

 江戸の世にあっては立派な大人とみなされる歳だが、奏汰かなたのいた現代であれば、中学生から高校生といったところだろう。


 そしてらしいというのは、この少女が居合わせた奏汰たちとまったく関わりを持とうとしなかったことによる。

 前足に大きな怪我を負った子猫を抱いて現れたしずるは、年端もいかぬ少女が持つにしては〝多すぎる額の銭〟をルナに渡し、子猫の治療を願い出た。

 しかしその後はだまって座敷の隅に座り、同じ場所にいる奏汰たちと言葉どころか目も合わそうとしなかったのだ。


「さすがはルナだ。人だけじゃなく、動物の怪我も治療することが出来るなんてね」

「いいえ、この子は病気や内臓の不調ではなかったのが幸いでした……私も、動物は専門外ですから」

「にゃー……」

「よかった……」


 しかしそんなしずるも、ルナの治療に元気を取り戻した子猫の様子に、安堵の表情を見せる。

 長く、顔を覆うような黒髪は彼女の暗い雰囲気をどうしても強めていたが、時折覗くその表情はいたって普通の少女の物だった。


「子猫さん、元気になって良かったですね……」

「……はい。ありがとうございます」


 しずるの雰囲気が軟化したのを感じたのか、新九郎が彼女の横から子猫を見やりながら声をかける。

 しずるもそれに静かに頷き、これをもって張り詰めていた場の空気は、徐々にだが和やかなものに変わっていった。


「しずるさんは、この猫の飼い主さんなんですか?」

「違います……さっき、たまたまこの子をみかけたので……」

「そっか……優しいんだな」

「そ、そんな……! そんなこと、ありません……」


 ようやく口を開いてくれたしずるに、新九郎だけでなく奏汰も混じり、月海院つきみいんに再び会話の華が咲く。


「月海院のことは知っていました……他の先生は猫を診てくれないけど、ルナ先生ならもしかしてと思って連れてきたんです」

「そうなんですよね……江戸ってほんっとうに沢山の猫さんがいるんですけど、猫さんが病気になったり怪我をしても、連れて行ける診療所がなくて……」

「そういえば、たしかにあっちこっちに猫がいるよな。なのに動物の病院はまだないのか……」

「わ、わたし……っ! 本当は、猫や犬を治す先生になりたかったんです。ですので、今日ここでこの子を治していただいて、とっても感動したんです……っ! 本当に……本当にありがとうございました……っ!」


 施術と痛みに疲れた様子の子猫を綿布団の上に寝かせ、奏汰たちはしずるも交えて会話を続けた。

 しずるも一度話し始めてみればむしろ饒舌じょうぜつで、それどころか興味のある話には積極的に食いつく好奇心旺盛な面もあるほどだった。


「――それとやっぱり、江戸にはお怪我や病気を治す場所が足りないと思うんです。動物だけじゃなくて、人を診る先生もぜんぜん足りてません! もし先生が増えたとしても、今度はちゃんとした知識や技術があるかも問題で……やっぱり、お医者様を育てる専門の場所も――あ……ご、ごめんなさい……つい、わたしばかり話してしまいました……」

「そんなことないって。俺なんかまだここに来たばっかりだから、今の話もむちゃくちゃ勉強になったよ」

「ですです! 江戸では人も猫もどんどん増えてますし、しずるさんのご意見には僕も大賛成ですっ」

「あ、ありがとう……ございます……!」


 そうして話していくうち、最初のしずるの様子はただの人見知りだったのだと奏汰たちも気付く。

 その頃にはみなすっかり打ち解け、そうだそうだ、なるほどなるほどと頷きながら、時折見せるしずるの豊富な知識量に唸らされることすらあった。


「なるほど、たしかにこの町の医療体勢にはまだまだ問題がありそうだ……そしてだからこそ、黒示救世教こくじきゅうせいきょうのようなカルト集団も大手を振っていられるというわけだね」

「黒示救世教……ですか?」


 だがその時。クロムが口にした教団の名前に、しずるの顔色がにわかに変わる。


「ああそうさ。実益を謳う神がいくつもあれば、医療体制の不備があっても受け皿として使えるだろう? 幕府からしても、自分達の福祉政策への不満を逸らすことができる。神の奇跡が本当だろうと、虚言だろうとね」

「そう……そうかもしれません……」


 言いながら、しずるは再びその表情を長い前髪の向こうへと隠した。

 そしてその小さな前足に手当を受けた子猫をそっと抱き上げると、頭を下げて奏汰たちに背を向けたのだ。


「もうお帰りになっちゃうんですか?」

「はい……今日は、この後用事があるので」

「俺たちもよくここにいるから、また会えるといいな」

「あ、ちょっとお待ちになって下さいっ!」


 突然帰り支度を始めたしずるに、奏汰と新九郎は残念そうな声を上げた。

 だがそれを見ていたルナは思い出したように両手をぱちりと合わせると、しずるから渡された報酬の包みを手に土間へと下りる。


「いくらなんでも、ここまでの大金は受け取れません。あちらにお支払いの目安が書かれていますので、その分だけいただければ結構ですよ」


 しずるがルナに診察の対価として渡した包みは、それだけで相当な金額だとわかるほどの大きさだった。

 明らかに規定の報酬を上回るその銭の量に、ルナは返却を申し出たのだ。だが――。


「いいえ……先生はこの子の怪我を診て下さいました。この子はまだ小さいから……もし先生が診てくれなければ、きっとこのまま死んでいたでしょう……」

「それは……」


 だがしずるは、ルナの抱えた銭の入った包みをやんわりと突き返した。

 彼女の言葉には有無を言わせぬ意思が滲み、あのルナをしてそれ以上の追求を思いとどまらせる程だった。 


「神にすがるなんて……そんなの、全部まやかしです。ただ強い人に救ってもらうのを待つだけで、自分ではなにもしようとしない……下らない人たちの考えです」

「え……?」

「でも先生は違いました……先生は、傷ついた命を本当に救うことのできる立派な方です……つるぎさん、徳乃とくのさん、それにクロムさんも……今日は、とても楽しかったです」


 最後。


 そう言って、深々と頭を下げたしずるの前髪から覗く横顔。

 ちらと見えた彼女の瞳には、言い表せないほどの感謝と憧れ……そしてどこかほの暗い、〝灰色の光〟が灯っているように見えた――。


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