勇者屋


 町奉行まちぶぎょうとは、江戸の町民領における治安・司法・消防・土地開発などの全てを取り仕切る上級役人のことである。

 町奉行の実権は町民領のほぼ全てに影響力を持ち、現代における都知事すら越える強大な権力は、幕府三大奉行の一角として知られていた。

 

義幸よしゆきからお前さんらのことは聞かされとった。神田かんだを救い、板橋いたばしに出た鬼を退治したという益荒男ますらおときゅうり侍よ。もっと早くにこうして会ってみたかったんだが、生憎と儂も忙しくてのう」


 三人も入れば窮屈となる新九郎しんくろういおり

 奏汰かなたと新九郎の前に座る初老の男は、老いてなお鋭さを増す瞳に笑みを浮かべ、年若い二人を値踏みするように見つめた。

 この老人の名は、長谷部四郎三郎右衛門之助はせべしろうさぶろううえもんのすけ――泣く子も黙ると言われた、江戸北町を預かる筆頭町奉行その人である。


「い、いえいえいえいえっ! こんな汚いところに町奉行様が来られるなんて……っ! きょ、恐悦至極ですっ!」

「でも、どうしてお奉行様みたいな立派な方がここに?」

「儂のことは〝長谷部はせべさん〟で良いと言っただろうがい。今日ここに来たのは他でもねぇ、お前さんたちに頼みたいことがあってのう」


 長谷部老はそう言うと、新九郎がおそるおそる出した割れた湯飲みに入った茶をぐびぐびと飲み干し、小袖こそでの胸元から分厚く膨らんだ紙束かみたば――奏汰と新九郎が弥兵衛やへえに預けていたはずの奉加帳ほうかちょうを投げ渡したのだ。


「それは……? どうしてそれを長谷部さんが持ってるんですか?」

「お前さんら、弥兵衛の話じゃ鬼退治をあきないにするそうじゃないか。今もその考えは変わっておらんかの?」

「はい。そのつもりです」


 即答する奏汰に、長谷部老は笑みを浮かべた。 


「ならば結構……であれば、儂がその商い〝最初の客〟になってやろう。お前さんらに、幕府直属の町奉行として一つ仕事を頼みたい」

「お、お奉行様が……僕たちにお仕事を!?」

「そうじゃ。せっかくの初仕事、報酬は景気よく言い値で払わせてもらう。だがそれ即ち、此度こたびの一件には鬼が関わっとる可能性が高いっちゅうことじゃ。鬼退治を生業にしようというお前さんらの言葉に二言はあるまいな?」


 瞬間。奏汰と新九郎を見つめる長谷部老の眼光がぎらりと光り、それまでの好好爺こうこうや然とした佇まいから、紛れもない武家役人のものへと変わった。


「断わっておくが、今から話すことは他言無用……儂は義幸の推挙すいきょからここに出向いたが、儂個人としてもお主らは信を置ける者と見込んで頼んでおる……もし依頼を受けられぬというのであれば、まず先に申し出るがよい」

「ごくり……っ! 奉行様直々のお仕事なんて……ど、どうしましょう奏汰さんっ!?」

「受けます……それがどんな依頼でも、鬼と関わりがあるのなら見過ごすことはできません」

「はやっ!?」

「ふむ……」


 だが奏汰はここでも即答。

 思わず奏汰の服のすそをつまむ新九郎をなだめつつ、奏汰は長谷部老の鋭い眼光を正面から受け止め、決然と言い切った。


「なるほどのう……あの義幸がああも惚れ込むわけじゃ。これならば、任せてもよさそうじゃの」


 その返答に、数多の真贋しんがんを見極めてきた鳶色とびいろの瞳は、拍子抜けするほどにすんなりと奏汰の言葉を認めた。

 否――義幸と同様、長谷部老もまた文政ぶんせいの世において無数の悪党と正面から張り合う役どころ。

 だからこそ、奏汰の言葉を信じることが出来たのだ。


「ではさっそくじゃが、お前さんたちには来たる六月十七日に行われる〝山王祭さんのうまつり〟の守護を頼みたい」

「山王祭……?」

「お祭りと鬼と、どんな関係があるんでしょう?」

「お前さんらは知らんだろうが、先の金五郎かねごろう殺害の前より、儂ら町奉行廻まちぶぎょうまわりは、城中の大目付おおめつけ殿と共に獅子身中しししんちゅうの虫を追っておった。決め手となったのは、お前さんらが倒した影鬼衆えいきしゅう大捕物おおとりものよ」

「影鬼衆……僕のことを〝味噌漬けにする〟とか言ってた、失礼なしのびたちのことですねっ!」


 幕府三大奉行である長谷部老直々の依頼。

 それは、数日後に迫った江戸一番の大祭――山王祭の守護であった。

 長谷部老の話では、幕府は近年急増する鬼の出所について、人や組織的な関わりの存在をすでに掴みつつあったらしい。

 そんな折り、奏汰と新九郎の活躍によって立て続けにそれらの証拠が見つかったことで、幕府の調査は大きな進展を見せたのだという。


「詳しいことは言えんが、お前さんらが先に訪ねた〝黒示救世教こくじきゅうせいきょう〟……あれの信徒が、近頃城中にも増えておってのう……」

「はわわ……僕たちが教団に行ってたのもお見通しなんですかっ!?」

「つまり長谷部さんは、教団が鬼と繋がっているかもしれないと……そうお考えなんですね」

「そういうことじゃ。特に、くだんの金五郎は〝教団の熱心な信者〟だったからのう……」


 奏汰の言葉に、長谷部老はあごひげをさすりながら頷いた。

 長谷部老によれば、こうも人との鬼の繋がりが表面化したのは本当に〝ここ数年のこと〟。

 そしてそれら怪しげな事件を辿ると、不思議と教団との繋がりがうっすらと浮かび上がっていたのだという。

 特に今年に入ってからはその傾向がより顕著けんちょとなり、教団の奇跡を受けた者による苦情申し立ても、一気に増加していたのだと――。

 

「儂らの掴んでおるところによれば、奴らは山王祭に乗じて必ず動く。儂ら町方と大目付殿は先手を打って成敗に動くつもりじゃが、やつらが悪あがきをせんっちゅう保証はないからのう……そこで、いよいよお前さんらの出番ってわけじゃ」

「なるほどー! お祭りに鬼が出たり悪党が暴れたりしたら、皆さんと協力してぼこぼこにすればいいんですねっ!」

「……わかりました。お引き受けします」


 長谷部老の説明を受け、奏汰と新九郎は改めて頭を下げた。


「うむ……儂らも万全を尽くすつもりじゃが、鬼についてはなにがあるかわからんでの。上様の身を守るにも、民の身を守るにも、使えるもんは全て使う……それが儂の流儀よ」


 そう言うと、長谷部老は腰帯こしおびにくくりつけていた小さな巻物を二人の前に広げる。

 そこには幕府が城下の商人と商いの契約を結ぶ際の取り決めが箇条書きにされており、最後の部分に署名と血判を施す形となっていた。


「そいじゃあ、ここに商号しょうごうを書いて判を押してくれ。お前さんら、〝商いの名〟は決まっておるかね?」

「お店の名前ですか……? どうしましょう奏汰さん、お店の名前は全然考えてませんでしたっ!」

「うーん……ならとりあえず、適当に〝勇者屋〟なんてどうかな。気に入らなければ、後で変えれば良いし」


 まさに思いつきとしか言い様のない奏汰の提案に、しかし新九郎は大喜びで賛同した。


「とってもいいと思いますっ! じゃあこれからは、僕も〝勇者屋の天才美少年剣士〟――徳乃新九郎とくのしんくろうですねっ!」

「かっかっか! 結構結構、されば勇者屋よ……山王祭守護の任、見事果たして見せるがよい」


 勇者屋。

 

 奏汰は新九郎から受け取った筆で巻物にそうしたためると、浅く切った親指をぐいと押しつけ、ここに契約成立の血判としたのであった――。

 

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