母を想う朝


「わぁ……! 朝からこんなご馳走が食べられるなんて……ありがとうございます、緋華ひばな姉様っ!」

「こっちはお肉か。そういえば、江戸時代には肉をあんまり食べなかったって習った気がするな」

「…………」


 川のせせらぎに包まれた新九郎しんくろういおり

 夏は本番を迎え、かえるの鳴き声にみんみんというせみの鳴き声が混ざり始めていた。


 今、庵の中には奏汰かなた、新九郎、そして新九郎付きの側仕え隠密である緋華の三人の姿があった。

 三人は広げられた折敷おりしきに乗る、緋華が持ち込んだ手料理を前に向かい合って座っていた。


「そうそう、そうなんですよ! 僕もお城ではお肉を食べるのは駄目って言われてたんです。けど、町では結構みんなぱくぱく食べててびっくりしました!」

「……肉には滋養じようがあるから。今回は特別」

「たしかにな。魚や野菜もおいしいけど、やっぱり肉があると気分が上がるよ。ありがとな、緋華さん」


 奏汰はそう言うと、一度両手を合わせてから並べられた料理に箸を伸ばした。

 今朝の並びは、二人がすでに用意していた馴染みの芋飯とお揚げ。そしてネギを入れた味噌汁。

 そこに緋華が持ち込んだ〝菜の花寿司〟と〝さば寿司〟。

 さらには、塩をまぶしてあぶり干しにされた猪肉いのししにくの切り身が添えられていた。


「うっっっっま!? 〝野菜のお寿司〟なんて初めて食べたけど、さっぱりしててむちゃくちゃうまいよ! こっちのお肉とも凄く合ってるし!!」

「菜の花寿司は姉様の得意料理なんですっ。僕がお城にいた頃も、おやつ代わりにこっそり作ってくれて……」

「作ってあげないと、吉乃よしのはすぐにつまみ食いするから」

「はわっ!?」

「あはは! 新九郎は食べるの大好きだもんな」


 中でも奏汰の口を喜ばせたのは、彼が初めて口にした菜の花寿司と猪肉だった。

 菜の花寿司のネタとなる菜の花はさっぱりと薄塩で漬けられており、しゃきしゃきとした歯ごたえと、爽やかな菜の花の風味が夏の暑さを和らげてくれる。

 そこに添えられている猪肉の切り身も見事な仕上がりだ。

 一度火で炙ってうま味を閉じ込め、その上で塩干しされたことで猪肉特有の臭みが完全に消え、ぴりりとした塩みと香ばしさを食卓に加えていた。


「寿司っていったら魚とか貝だと思ってたけど、野菜でもこんなにおいしいんだな……」

「わたしは野菜の方が好き」

「でも、どうして朝からこんなに良くしてくれたんですか? 姉様は、父上から〝僕の手助けはしないように〟って言われてるんですよね?」


 緋華が腕によりをかけて作ったという料理をもぐもぐと頬張りながら、新九郎は首を傾げて尋ねる。


「それはそう。わたしが助けるのは、吉乃が本当に危なくなったときだけ。だけど……」


 新九郎の問いに、緋華はそのガラス玉のような瞳をなぜか新九郎ではなく奏汰へと向けた。


「ゆうべ、吉乃と手を繋いで寝たでしょ……」

「うえっ!?」

「ぶふぉーーーーっ!?」


 瞬間。特大の氷柱つららのような鋭さで放たれた緋華の言葉に、二人は一瞬にして赤面すると、大慌てで両手をぶんぶんと振った。


「いや、その……あれはなんていうか……新九郎が落ち着くならいいかなと思って……っていうかそこまで見てたのかっ!?」

「そ、そそそそそ、そうですよっ!! ゆ、昨夜は帰ったあとも全然寝付けなくて……! それを見た奏汰さんが僕の手をぎゅって握ってくれて……そうしたら、不思議と心がぽかぽかと……っ!」

「…………」


 なんとか言い逃れしようと試みる二人。

 しかし緋華はそれを刺すような〝無言無表情〟で粉砕し、鋭い殺意を秘めた眼光で奏汰を見つめた。

 

 緋華が言うように、昨夜二人はついに部屋を区切る間仕切りを下げ、ほんの僅かに布団を寄せて、互いの指先をそっと触れ合わせて横になった。

 それは亡き母への想いから泣きに泣いた新九郎を、少しでも支えようという奏汰の優しさだったのかもしれない。そして――。

 

「俺の父さんと母さんももういない……だから、新九郎の気持ちはよくわかるよ」

「そんな……奏汰さんのご両親も……?」


 本当の意味で初めて床を並べた夜。

 触れるだけの指先から感じるぬくもりと共に、奏汰はそこで初めて自分の両親も亡くなっていることを新九郎に語った。


「うん……本当なら、俺も見て貰いたかった。もっと、父さんと母さんに喜んで貰いたかったな……」

「奏汰さん……ごめんなさい。僕……自分のことばっかり……」

「ううん……そんなことないよ」


 初めは触れ合うだけだった指先は、やがてしっかりと握られていた。

 奏汰と自分が同じだと知った新九郎もまた、たった今奏汰がしてくれたように、彼を支えたいと自らその手を取ったのだ。

 果たしてその光景は、たとえ両人にその気がなかろうと、もはやどこから見ても〝ただならぬ関係〟そのものであったであろう。


「お、お願いですから話を! わけを聞いて下さいっ!」

「俺もやましい気持ちがあったとか、そういうことじゃなくて……!!」

「じー……」

 

 以前〝吉乃に手を出したらちょん切る〟とまで言った緋華のその眼光は、言葉以上の恐怖をもって奏汰と新九郎に迫った。しかし――。

 

「いい……今回は見逃す。あなたは、吉乃を助けてくれたから」

「え?」


 しかし驚くべき事に、緋華は一度ふうとため息をつくと、そのまま自らが持ってきた菜の花寿司をぱくりと口に運ぶ。


「もぐもぐ……あの金貸しに不覚を取ったのは吉乃の落ち度。そして、わたしにはあなたみたいに捕まった吉乃を助けることは難しかった。だから、今日はそのお礼……うまうま、もぎゅもぎゅ……」

「な、なるほど……」


 その抜き身の刃にも似た美しいかんばせにほんの少しの柔らかさをたたえ、緋華は無表情のまま言った。


「それに……わたしにも吉乃の気持ちはよくわかるから」

「新九郎の?」

「……僕と姉様は、小さい頃から母上のもとで一緒に育てられたんです。僕が緋華姉様って呼ぶのも、そういう理由で……」


 新九郎と緋華の関係を聞かされ、奏汰はなるほどと頷いた。


「吉乃はお母さまにそっくり……その緑色の髪も目も。いつも笑顔で、誰にでも優しくて、すぐに調子にのって危なっかしいところも、ぜんぶ……」

「姉様……」

「そうだったんだ……」


 母譲りだというその緑がかった瞳に笑みをたたえ、新九郎は母のことを語る緋華の姿を……大切に思う姉の姿を見つめた。


「わたしはお母さまから、吉乃をお願いって言われた。吉乃が幸せになることだけがわたしの願い……だから、吉乃があなたと一緒にいて嬉しいのか、嫌がってるのか……そのくらいはちゃんとわかる……」

「そ、そうなのか……?」

「はえっ!? いや、あの……そ、それはもちろん……いくら僕だって、嫌いな殿方と一緒に暮らそうなんて思ったりはしないというか……っ」

「……でも、まだだめ」


 だがそこまで言って、緋華は再び奏汰に鋭い眼差しを向ける。

 しかもその手には、いかなる原理か〝ばちばちと帯電するクナイ〟まで抜いて――だ。


「手を繋いで寝るのは許したけど……もし同衾どうきんしたら、今度こそぜったいにちょん切る」

「ひえっ!?」

「やっぱり怖すぎだろ……!?」


 そうして。水無月みなづきとなり、二人の共同生活が間もなく一月となる盛夏の頃。

 

 庵の横を流れる神田上水かんだじょうすい。その突きだした岩くれに、どこぞより流れ着いた一枚の〝紙切れ〟がひっかかる。

 すでに文字の大部分は掠れて消えていたが、残る部分にはたしかに、〝常闇とこやみ〟と〝救世教きゅうせいきょう〟の文字が見て取れた。

 

 川の流れのように瑞々しく流れる二人の日々。

 しかしその足元には、新たな闇の渦が迫っていたのだった――。

 

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