願う世
「――仔細は承知した。ご苦労だったな、二人とも」
「いえ。俺の方こそ、昨夜の話を信じてくれてありがとうございました」
神田から街道沿いに南へ下った先。
新橋周辺に大きく広がる武家地の一角。
そこに建つ無骨な平屋の屋敷こそ、江戸北町の
そして今。その屋敷の奥座敷には、居住まいを正して同心と向き合い、昨夜の詳細を報告する
「しかしまさか、得体の知れぬ化け物とばかり思っていた鬼の背後に、
「忍だけじゃありません! さっきお話ししたとおり、忍たちを従えていた異世界帰りの人もいたんです!」
鬼を従える何者かの暗躍。
その驚くべき事実に、さしもの
「あいつらは、目的を果たすまで江戸を襲うと言っていました。放っておくわけにはいきません」
「無論、我らもかような者を野放しにする気はない。すでに町方の絵師に
そう言うと、義幸は下書きらしき絵がしたためられた和紙を二人に確認させる。
そこにはたしかに不気味な面を被った長髪の男が描かれており、元より特徴的なカルマの容姿もあって、知らぬ者が見てもそれとわかる見事な出来であった。
「俺も昨夜の検分を終えた後、上役である
義幸は居住まいを正したまま、自身より上位の役人である奉行との話を聞かせた。
町廻同心は幕府役人の中でも下級の役職である。
いかに義幸が有能かつ火急の用件であろうとも、彼が江戸城に足を踏み入れることは出来ないのだ。
「カルマの話では、あいつ以外にも仲間が大勢いるようでした。理由はわかりませんけど、俺みたいな異世界帰りが今までにもいたのかもしれません」
「うむ……
昨日奏汰が受けた聞き取りにおいて、新九郎以上に柔軟で広い見聞を持つ義幸は、異世界帰りの奏汰の言い分を
元より、この世界には鬼というこの世ならざる者が大手を振って
奏汰の話す〝神隠し〟や〝異世界〟についても、ある程度の見識を持つ者であれば、荒唐無稽と断じられる話でもない。
「でも、もし本当にあの人たちが鬼をけしかけているのなら、あの人たちさえ引っ捕らえてしまえば、僕たちが鬼に襲われる心配もないってことですよねっ?」
「そうだとよいがな……とはいえ、鬼についてはわからぬことばかり。全ての鬼が奴らによるものとも限らん」
鬼による襲撃。
それは、徳川の治世となるはるか昔――記録にあるところでは、千年も前の〝平安の世〟から続いていたという。
鬼によって常日頃より引き起こされる悲劇は、もはや数え切れない。
恐らく今この時も、世の
「だがそうだとしてもだ。昨日の鬼退治に続き、見事な手柄を立てたことは事実。よくやった……剣、そして新九郎」
「ど、同心様が僕を褒めて下さるなんて……! やっぱり僕は、江戸一番の天才美少年剣士だったんですねっ!!」
「調子に乗るな。気を引き締めるはここからぞ」
「俺もそう思います。新九郎が倒した忍者たちは、カルマが異世界人だってことも、鬼を操って江戸を襲わせていることも〝知っていた〟はずですから」
「え……? それがどうしたんですか?」
「考えても見よ。人の放つ言の葉は、どんなに隠そうと必ず伝聞するものだ。鬼などという言葉の通じぬ化け物だけならまだしも、我らと同じ人が関わっていたならば、千年の間に世に知れ渡っていなければおかしいであろう」
鬼の出現より千年。
散々に日の本の民と施政者を苦しめてきた鬼の出所。
その出所が本当にカルマたち異世界人と、彼らが率いる悪党だというのなら、その事実を〝徳川幕府すら知らない〟というのは、明らかに無理のある話であった。
「この一件。ことの大きさもさることながら、どうもひっかかる……気を抜けば、いついかなる時に寝首をかかれるやもしれんな……」
「ひえっ……」
義幸の言葉に冗談の色はない。
あまりの迫力に新九郎は思わずのけぞり、奏汰は姿勢を正したままじっと義幸の言葉に頷いた。
「ときに新九郎よ。そのカルマなる者が剣と同じ異世界帰りという事実は、
「え?」
「かようなことが知れわたれば、剣が江戸で暮らすなどもはや無理筋……まだ江戸での地固めもない剣に、無用な苦労をかける必要もあるまい」
義幸は奏汰の目を見てそう言うと、一度大きく頷いた。
「だがそれゆえに、目付役であるお前の責はより重大だ。先の口止めも含め、決して抜かるでないぞ」
「は、はいっ! この
義幸の鋭い眼差しに射貫かれ、新九郎は雷のような早さで深々と平伏する。
「ありがとうございます。けど……どうしてそこまで俺に?」
「大したことではない……お前は鬼を倒し、多くの命を救った。お前に肩入れするに、それ以上の理由など必要あるまい」
そうして平伏する新九郎の隣。
義幸から格別の配慮を受けた奏汰は、その理由を真剣な表情で尋ねた。
「俺には身重の妻がいる……子は三人いてな。今は妻と共にある四人目も、あと三月もすれば生まれてくるそうだ」
奏汰の問いを受けた義幸は、表情を緩めて答えた。
「お子さんが……」
「そうでしたね……本当におめでとうございます!」
義幸のその話に、奏汰と新九郎はともに耳を傾ける。
「出来ることならば、妻と子には鬼や悪党のおらぬ平和な江戸で生きて欲しいのだ……剣のような
「同心様……」
「鬼や悪党のいない、平和な江戸……」
穏やかではあるが、あまりにも切実な義幸の願い。
それを聞いた奏汰は静かにその瞳に決意を宿し、新九郎もまた姿勢を正して頷いた。
「とはいえ、俺も所詮は下っ端役人。お前たちの力になれることには限りがある。何かあればすぐに報せを入れるゆえ、備えはしておけ」
「はい……!!」
「お任せ下さい、同心様!」
その言葉に二人は同時に頭を下げ、義幸の思いに感謝を伝えたのだった――。
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