吉乃姫


 将軍、徳川家晴とくがわいえはる


 言わずとしれた当代徳川将軍であり、すべての武士の頂点に立つ武の頭領。

 しかしその肩書きとは裏腹に、将軍としての家晴は必ずしも市井しせいの者にとって馴染みのある存在ではない。

 目に見える重要な取り決めは全て彼を支える家臣団が行っており、家晴の名が江戸城下で話題となることもほとんどなかった。


「――けど本当は違うんです。父上も以前は、今の僕のように城を抜け出し、民を苦しめる悪党や鬼をばったばったとなぎ倒していたんですっ!」

「マジで時代劇の話だな……」


 新九郎しんくろう自身の口から明かされた彼女の真実。

 その事実は、江戸の世の実情にうと奏汰かなたですら驚くべき内容だった。


 少年剣士として江戸を駆け回っていた新九郎が、実際は少女であったこと。

 徳乃新九郎とくのしんくろうという名前そのものが偽りであり、本当の名は徳川吉乃とくがわよしの――徳川の血に連なるどころか、当代将軍家晴の実の娘であること。

 さらには将軍家晴までも、かつては新九郎と同様に世を忍ぶ仮の姿で市井しせいへとおもむき、その剣で民を苦しめる悪鬼羅刹あっきらせつを成敗していたのだと――。


「だからって、あなたまで同じ事をする必要はないはず」

「そんなことはありません! 僕には父上から受け継いだ天道回神流てんどうかいしんりゅうの技と才があります! お忙しい父上に代わって、みんなのために戦いたいんです!」

「あなたが強いのは知ってる……けど鬼も悪党も、あなたみたいな優しい子が戦えるほど甘い相手じゃない。いつか……きっと殺される」


 それまで鋭い眼差しで奏汰をけん制していた緋華ひばなも、新九郎が自ら全てを暴露したとあっては打つ手もなし。

 その顔は相変わらずの無表情だったが、たかぶった新九郎の気をなだめるためか、諭すように言った。


「そういえば、初めて会ったときも危なかったな……」

「ひゃわっ!? あ、あれは……たまたま! ちょっと驚いて足を滑らせただけでしてっ!」

「あのときも、あなたが落ちてこなければわたしが助けてた。さっきの爆弾だってそう。吉乃は、いつも危なっかしい……」


 そう呟く緋華の言葉には、新九郎を心の底から案じる思いがありありと込められていた。

 新九郎の話すところによれば、緋華と新九郎の間に実際の血のつながりはないのだという。

 緋華は新九郎付きの〝側仕そばづかえ隠密おんみつ〟であり、物心ついたときより共に城内で育てられた仲。

 そしてそれだけに、彼女が新九郎を思う気持ちもひとしおだった。


「けど、お城のみんなだって酷いんですよ? 僕を狭い部屋に閉じ込めて一日中勉強させたり、あげくの果てには皇族との縁談を持ってきたりしてっ! だから怒って飛び出してきちゃったんです!」

「家出したってことか? お姫様なのに!?」


 新九郎の話を聞いた奏汰は、改めて新九郎が住むいおりをぐるりと見回す。

 あまりにも薄すぎて、月明かりすら透けるぼろぼろの茅葺かやぶき屋根。

 あちこちが腐り、今にも崩れ落ちそうな粗末な木戸。

 布が破れて綿が飛び出すせんべい布団に、どこからか拾ってきたような割れた椀と箸。

 片側の足が折れてなくなり、そこに石を積んで並行にした筆台と、その上に置かれた真新しい御伽文庫おとぎぶんこ――。

 恐らくこの庵そのものが、元から住む者のいない廃墟だったのであろう。


「……新九郎は、ここにどれくらい住んでるんだ?」

「もうすぐ三月みつきになります。最初の頃ははらぺこで死ぬかと思いましたけど……最近は鬼退治や用心棒のお仕事をして、少しずつお金も貯まってきまして。この御伽文庫は、僕が初めて自分で稼いだお金で買った品なんですっ」

「そっか……頑張ったんだな」


 にこにこと――満面の笑みを浮かべてそう話す新九郎。

 聞きようによっては、ただわがままを通しただけの跳ねっ返りともとれる話だ。

 実際、城中には相応の迷惑もかけているであろう。

 しかし奏汰は新九郎の苦労を苦労とも思わぬ無邪気な笑みと、ここまでに見た町の人々の新九郎へのあたたかな接し様から、彼女の中にある〝真の強さ〟を垣間見てもいた。


「あなたは姫。そんな苦労をする必要なんてない……けど上様は、〝吉乃の好きにさせよ〟って仰ったから……」

「それで緋華さんが来たのか……」

「きっと父上は、僕の気持ちをわかってくれてるんだと思います。だって僕に剣を教えてくれたのは、他ならぬ父上なんですから……!!」


 そう言っておもてを上げた新九郎の瞳には、一切の汚れを持たぬ強い決意の灯が輝いていた。


「父上は言っていました……僕の剣は、弱き人々を守るために天から授けられたものだと。母上は言っていました……才を持って生まれた者は、その才を世のため人のために使いなさいと」

「新九郎……」


 そこで奏汰ははっきりと理解した。


 城から飛び出し、空腹で死にかけとなりながらも。

 周囲から青二才と侮られ、きゅうり侍とからかわれながらも。

 事実としてまだその心技体は未熟であり、自らの詰めの甘さで何度となく危機に陥りながらも。

 それでも彼女は、その身一つで江戸の人々から慕われるようになり、立派に戦い抜いてきたのだと。


「姉様やお城のみんなには、本当に申し訳ないと思ってます……けどそれでも、江戸に巣くう悪党は今日も人々を苦しめ続けているんです。それを見過ごすなんて……僕にはできません!!」


 彼女の決意を聞き終えたとき。

 もはや、奏汰は新九郎の行動に〝なぜ〟とは思わなかった。

 奏汰が勇者として戦ってきた理由。

 そして新九郎が剣客けんかくとして市井に下りた理由。

 その二つに違いなどないと。

 そう奏汰は感じたのだ。そして――。


「それでもだめ……吉乃の気持ちはわかるけど、あなたたちがさっき戦っていた男……あれはかなり強かった。あんなのがまた出てきたらどうするの?」

「……その時は、俺も一緒に戦う」

「え……?」


 それでもなお新九郎の身を案じる緋華に、決然と応じたのは奏汰だった。


「新九郎がこの町を守るために戦ってるのなら、目的は俺と同じだ。だからこれからは、俺も新九郎と一緒に戦う」

「本当ですかっ!?」

「勝手なこと言わないで。あなたが一緒に戦うからなに……? まさか、あなたが吉乃を守るって言うの?」

「そうだ。それに俺だって、ここでもう何度も新九郎に助けて貰ってるんだ。守って守られて……一緒に戦うって、そういうことだろ」


 緋華をかわし、奏汰は新九郎の目をまっすぐに見つめる。

 異世界に召喚されてから一年。

 過酷な戦いで深く傷ついていた奏汰の心。

 そんな奏汰にとって、果たして新九郎の明るさと優しさがどれほどありがたく、かけがえの無い物だったか。


 奏汰が江戸にやってきてから一日。


 その僅か一日の間に新九郎が奏汰に与えたぬくもりは、間違いなく奏汰にとっての救いだったのだ。


「頼む新九郎……迷惑かもしれないけど、俺も新九郎と一緒に戦わせてくれ。君の力になりたいんだ」

「奏汰さん……」

「本気なの……?」


 奏汰の眼差しに宿る熱にあてられたのか、新九郎は我知らず頬を染め、自らの手で高鳴る胸をきゅっと押さえた。


「そ、そんなの……いいに決まってるじゃないですかっ! むしろ大歓迎ですっ!」

「良かった! 断わられたらどうしようかと思ってたから……」

「断わるなんてないですよ……奏汰さんが一緒に戦おうって言ってくれて、凄く嬉しかったです……」


 一時は石のように固まっていた新九郎。

 しかしやがて奏汰の決意を正しく理解すると、喜びも露わに居住まいを正した。


「なら、改めてよろしくな……新九郎!」

「僕の方こそ……不束者ふつつかものですが、よろしくお願いしますっ!」


 新九郎はその可憐な頬を染めたまま、感謝と共に頭を下げる奏汰に向かって軽やかに三つ指をついたのだった――。

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