Chapter.7 ✿ アイステ声優がエゴサしてんの?
「声優の卵の朝は早い。放送のための台本を準備して、ランニングとダンスのステップのトレーニングして――なんて冗談は置いておいて、今日も日課だし、走りにいきますか」
朝6時過ぎの時間、アタシはスポーツウェアへと着替えていた。
ストレッチ代わりに腕を回す。
右の手につけたリストバンドには『i-Stella☆Sirius』のロゴが書かれている。アタシのお気に入りで、愛用しているライブグッズの一つ。
隠れた裏側に、彼女のサインがあることは、もちろんその本人には秘密なんだけどね!
準備を整えて、いざ寝室を出る手前でアタシは踵を返して、そのひとのいるベッドへと近づく。
目を閉じて、寝息をたてる藍里の姿。アタシにとって彼女は”声”の存在だった。
だからこうして隣にいるっていうのが、まだピンとこないんだけどね。
――そろそろ私も辞めちゃおうかなーってくらいの立ち位置だからさ
初めて会ったとき、藍里はそう言ってどこか寂しそうにはにかんでいた。それが哀しくて、同時に心から腹立たしくもあった。
彼女にじゃない。
一ファンでしかない、なにもできない自分自身にだ。
アタシは指先を伸ばす。
藍里の喉元に。
触ってみようかな、って思ったけど起こしちゃいけないからやめておく。
――この喉から生まれる物語に……この喉が命を吹き込んだキャラクターに、アタシは憧れた。
「もっと、自覚してよね。貴女はプロの声優で、アイドルなんだから――」
思わず漏らしたアタシのモノローグに、応えるかのように藍里はパチリと目を開いた。
「へ、起きてたの?」
「ううん、いま起きたんだけど。絵梨なんか言ってた? てかその格好」
思わずリストバンドのロゴを左手で覆い隠した。
だってあなたのファンですなんて、いまさら恥ずかしくて言えないし。
「これは! えっと、あの。いつもアタシ……日課でトレーニングのために早起きしてるから、藍里こそ。今日はどうしたのこんな早くに」
「仕事」と藍里は即座に答えた。そのあと、『――をもらうためのオーディションがあるの』と言葉を付け加えて。
そんなどこか自虐的な言葉のつなぎはいつもどおりだけど。
そうなんだけど、今日の彼女はなにか違うって思った。
「ああ、そうだったんだ。言えば起こしたのに」
「どれだけ社会人やってると思ってるのよ、自分の仕事のことで高校生に迷惑かけるわけにいかないわ」
――ああそっか。”声”が違う。
ううん、声だけじゃない、目つきも。
雰囲気なんていう言葉でしか今のアタシには片付けられないけど。
明らかにアタシとは、アタシたち一般人とは違うオーラをもった彼女は、すごく遠い世界のひとみたいで。
「多分遅くならないけど、夜はさきに食べてていいから、ね?」
藍里はアタシを置いて、足早に寝室をあとにした。
―――――――― Chapter.7 ✿ アイステ声優がエゴサしてんの? ―――――――
事務所から支給された物々しいゲーミングチェアのうえで、アタシはタブレット端末を見つめていた。
これまでの配信内容を見直して、ふたりのダメだった点をメモしながら、気づけば藍里の声に何度も聞き惚れながら。
オーディションに向かう藍里の表情は強張っていた。ただの不安を思ってのものではないことは、あのつくられた声でわかった。
起きたときのその最初の一言目の声で。
その空気の震わせ方で、彼女の声がいつもと違うことも。それがVtuberとしての活動のとき以上に仕上がっていた。
藍里はいまも戦ってる。そんな彼女になにも言えなかった。
第一線にいる彼女にかけられる言葉なんて、いまのアタシには持ち合わせていない。
「でも……せめて、頑張っての一言くらい、言ってあげればよかったかな」
――その日、藍里は帰って来なかった。
アタシが彼女と顔を合わせたのは朝方、ランニングへ向かう手前になってのことだった。
✿
アタシはいつものようにランニング用のシューズを履いて、靴紐を結びなおした。
いつもと違うのは、藍里の姿をまだ一度も見ていないことだ。
そして玄関を出ようとしたときに、ちょうど鍵穴の音がした。
すぐに気づいたのは、アルコールの発酵臭と彼女の香水が混じり合う匂い。
開かれた扉の隙間からすり抜けるようにして藍里は帰ってきた。
「え、ちょ、藍里!」
ふらふらとした足取りのまま、倒れ込むようにアタシに覆いかぶさった。
距離は限りなくゼロで、さすがに戸惑いを隠せない。
「絵梨〜〜、もうでかけちゃうの〜?」
「飲んできたの? 朝帰り? 酒臭いわね」
「え〜、よくわかったねー。絵梨は鼻が効く子だよね〜〜」
「誰だってわかるでしょ、顔もまだ赤いし。――オーディション、だめだったの?」
藍里からの返事はない。
代わりに背中に回した手で、アタシの着るウェアの生地をぎゅっと掴む。
力ないその手で。
返事なんてなくてもすぐにわかる。
「そう、水でも飲む?」
「……自覚してるわよ。ちゃんとやるのがプロって言うんでしょ、やりますよ。いままでだってそうやって仕事してきたんだから!」
――もっと、自覚してよ
そんなアタシの言葉、気にしなくていいのに。
あなたを責めての言葉じゃない。ただ、アタシはあなたにまた元気になってほしいだけ。ずっと、アタシの先を走っていてほしいだけ。
なんだけど……。
「ちょっと、どうしたの。酔って絡むなんて、らしくないじゃない」
「らしさってなに? 水無月藍里はどういう声優なの? 私は、どういう役を演じていけばいい? オーディションを何十回、何百回と落とされる気持ち、あなたにわかる? あとから入った後輩がどんどん先をいって――。エゴサなんてしようものなら、私もう引退はおろか、死んだひとだと思われてたりするのよ!」
「わかんないわよ。仕事もない崖っぷちななかで、お酒飲んで未成年に絡むダメな大人の気持ちなんて! てか、……ぷくく……なにそれ。ウケる。え、アイステ声優がエゴサしてんの?」
彼女のために作り上げた高瀬絵梨というキャラクターが、まるでアタシの心を置き去りにセリフを吐く。
あまりにも酷いセリフを。大好きなひとを傷つける言葉を。
「馬鹿にしないでよ。絵梨は……! あなたは才能もあるし、未来もあるじゃない。放送の台本も、絵梨が全部用意してるってプロデューサーに聞いたわ。ダンスの練習も、朝いつもマンションの前でやってるのも知ってたわよ。でも、そんな頑張れるほど私は……私はもう……なんで。絵梨は、なんでそこまで頑張れるの」
「……なんで? わからない?」
彼女が泣いてる。
ぼろぼろと涙の粒をこぼしながら、顔をくしゃくしゃに歪ませて。
そんな藍里に対して、ホントはアタシが言えることなんてなにもないってわかってる。だからこの言葉は本心なんかじゃない。
本心じゃないけど、口から出るその言葉は、紛れもなく本音の一つで。
「もし……その役を得るのに声だけで優劣がつかないってなったときに。歌、踊り、可愛さ――求められるすべての付加価値でもって、その枠を奪いに行くつもり。なんだよねアタシ」
「……」
「――水無月藍里。そんな、覚悟もなしに……これまでよくやってこれたわよね。じゃあ、私、走ってくるから」
靴を履いたまま玄関でへたり込む藍里の横を、アタシはすり抜けるよう、逃げるように通り過ぎる。
ごめんなさい。の言葉もまた、言えないまま。
出したいときに、出したい言葉が出てこない。
アタシの喉はやっぱり欠陥品だ。
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