36.伏見城炎上!…せず? 淀川砲撃戦!

※本作は空想の歴史を書いたものなので、史実や実在の自称・人物・史跡とは全く色々微妙に異なりますのでゴメンナサイ。


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 世間は相変わらず慶長の暦のままだった。

 しかし世界では17世紀に突入。


 国内は太閤亡き後早くも二分、国内強化の徳川・織田派と、対外進出(売国とも言う)の石田・島津・毛利派が対立する危機を迎えていた。

 その裏には日本分断を狙うスペイン・イスパニアとその尖兵である切支丹・伴天連があった。

 一度ケチョンケチョンにやっつけられたのに、しぶとく他国船に潜んで日本に潜入してやがる。


 なお本国では「慎重王」フェリペ2世は既に亡く、跡を継いだのは色々残念で後に「怠惰王」と笑われるフェリペ3世。

 あれだ。ハプスブルグ家ならではの問題だ。

 オマケに親譲りのカトリック偏重馬鹿だ。それもまたアゴアゴになった一因なんだけど。


 無敵艦隊を喪失し更に極東の交易船も失い、日本からの金銀獲得がストップしたスペイン・ポルトガルの苦悩やいかばかりだったかは知らない。

 更に言うならそれに先んじて、スペイン経済の重要な拠点であるオランダを、フェリペ2世の強烈なカトリック擁護・プロテンスタント弾圧により独立されてしまう事になったり、経済的な余裕も無くなっている。

 自業自得だなあ。


 だが、またまた仕掛けて来るって言うんなら叩くだけだ。


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 史実同様、豊臣方はガタガタだった。


 淀殿のヒステリーを治部が真に受け、秀頼は太るだけ。

 毛利は「いつ将軍になれるかのう」島津は「鹿児島を日本最大の港とする」って。


 因みに島津は徳川にも通じていた。まあきっと戦後領地をガリガリ削られるだろう。

 毛利は何万石残るかな?

 こりゃ将来長州閥とかなくなるぞ?


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 小田原でブイブイ言わせていた北条が織田に降り徳川領となった後、関東は長らく平穏だった。

 その江戸に駿河殿が隠居するために築城を始めた。

 これを秀頼が、いや淀殿が咎めた。


「東国を根城に太閤様のお家に弓を引くか!」と。

 いやいや、自分の領地なんだからいいでしょ別に。


 これは、スペインの侵略戦争への対抗手段の狼煙に過ぎなかった。


「豊臣家の主は関白秀松様、それを次男が勝手に臣下を非難するとは如何か?」

 徳川家は大坂を占拠する秀頼&淀母子を無視し、京の聚楽第で政務を摂る秀松&秀忠に問うた。

 尚、大和大納言豊臣秀長公は秀松公の関白就任を見守り、既に他界されている。


「大坂の言い分に理非ず、秀頼は駿河殿に詫びるべし」

 この豊臣宗家に食いついたのが石田治部。

「臣下であれば家中の言い分に従うべき」

 あー言っちゃった。これ全国の大名を敵に回すぞ。

「待ってました」

 おお、家康殿スタンバイOK。


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「淀殿にしては中々鋭い。いや、女は鋭い物なのだろうか」

 と言い放つ駿河大納言家康殿。

 元々政治基盤が弱い豊臣家は、「日本をどうするか」という観点で織田、徳川と秘密裡に茶会を重ねていた。

 その結果、

 一つ、秀松公は東国を征伐し、自らの武を持って天下を従わしむる策

 二つ、徳川が東国を、豊臣が西国を分割統治し、日本を連合王国とする

 三つ、大坂を征伐し豊臣家は秀松公による一大名とし、徳川が開幕する


 以外にも秀松公が「最も易く、日本の為也」と評したのは三つ目であった。


 後年、家康公はこの時の、十代に過ぎない若き秀松の苦虫を噛み潰した顔を見て「肝が冷えた」と言った。

「彼は15にして国の行く末、豊臣政権の破滅、そして豊臣家の存続を秤にかけ、最適解を導き出した」とも。


 同伴していた秀次公も何も言えなかった。

 一方で秀松公は

「父が築いた天下を他家に譲り渡すのは、信長公の真似に過ぎない。

 織田家から譲られた大仕事を、次に相応しい大納言殿に引き渡すだけだ」と謙遜していたが。


 ここに江戸幕府構想が発足した。

 後は、大坂の豊臣家が日本に、帝に弓を引くのを待つばかり。


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 先に動いたのは大坂だった。

 イギリス船10数隻が申告外に瀬戸内海を通過しようとした。

 毛利がこれを見逃し、大坂に錨を降ろすと…船はイギリスの旗を降ろし、ポルトガルの旗を掲げた。

 やっちゃいけねぇ国際協定違反だ。


 これに先んじて石田三成配下の兵が浪人に扮して大坂城に入城した。

 暫くすれば大坂、広島を拠点とした瀬戸内海の制海権、そして大坂城を拠点とした陸戦力が充実する、そう秀頼方、いや三成は考えた筈だ。


 しかし大坂城内の動きは秀松・徳川方の予想の範囲内だった。


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 大坂城の鉄船団はポルトガル艦隊到着寸前に京へ退避、小規模な軍船も密かに建設された琵琶湖疎水を通じて大坂攻めに参加できるルートを確保していた。

 これは本能寺の変の反省として、琵琶湖~京~大坂~瀬戸内の航路確保のためであった。

 その労力は、日本転覆を謀り集結していた切支丹達であった。


 難工事の末多数の犠牲を出して完成した幅3尺(9m)程度の水路トンネル。

 しかし織田家はその後も拡張工事を進め、大砲を積んだ軍船が往来可能な規模にまで掘り進めていたのだ。


 鉄船団をとり逃した三成は急ぎ淀川の各地に堰を築いた…これが民心の離反を産んだ。

 琵琶湖・大坂間の水利が止まってしまい、商業と生活も泊まってしまい、この地の物価上昇が人々を苦しめた。

 徳川方はこの失策をこれぞとばかりに世間に喧伝した。

 人々の怨嗟は大坂に向かった、特に石田三成に。

 そいう所だぞ、治部殿。


 更に陸上では、徳川家と秀松公に忠誠を誓う大名への踏み絵として、姫路、尼崎、篠山、彦根、名古屋、伊勢亀山、津、伊賀上野の各城を短期の内に築城させた。

 これ以前に完成していた膳所、丹波亀山、更には瀬戸内を見下ろす下津井、甘崎の城も含め、大坂城は誰がどう見ても詰み将棋の様相を呈していた。


 だが淀と三成は諦めなかった。

 大野長治もずっと淀君に従った。

 その結果が、苦心して退去させたポルトガルまで巻き込みやがった売国行為だ。


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 秀頼に対し船籍偽装、入国禁止違反等の詰問状が発せられたが、大坂城は受け取りを拒否した。

 秀松の使者の入城も拒否された。


 大坂城を根城とする豊臣の天下を護る為、秀吉の威光を守るため、豊臣臣下は使者の受け入れと徳川排除のための交渉を訴えたが秀頼、淀、大蔵卿、石田の馬鹿連合とその配下。

 片桐勝元と大野長治は両者の仲介に勤めるも失敗、片桐は命の危険を感じ大坂城を退去、大野は覚悟を決め大坂に残った。


 そして、大坂征伐の準備の為伏見に入っていた秀松を討つべく、石田に賛同した小早川、宇喜多、毛利の軍勢が伏見城包囲を企んだ。


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 伏見城包囲戦を狼煙に、大坂の乱殲滅作戦が開始された。


 敵勢約2万は淀川沿いを北上、未だ軍備の整わない伏見城を首尾よく包囲しつつあった。

 がその時。


 淀川が爆発した。轟音が響くその次の瞬間、街道を進んでいた軍勢が各地ではじけ飛んだ。

 伏見城の対岸、向島城の裏側に黒い煙が上がっていた。


 大坂から逃げた鉄船団の様な大きさは無い、しかしもっと小さく帆が無い船団が、城や中州の陰に隠れ敵を正確に砲撃した。


 これに呼応し伏見城からも大砲が斉射され、包囲の完了していない敵を粉砕した。


 大坂方は伏見城攻めに失敗し、撤退を始めたが、向島城艦隊はこれを追撃、敵兵は半数を失って統率を失った。

 結局大坂に戻ったのは武将と手勢のみ、精々数百であった。

 他は途中の町や村で落ち武者狩りに合い、消息不明のまま歴史から消えた。


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 かくて、実際の歴史の関ケ原合戦では…

 4万対1800の絶望的な戦いを10日間持ちこたえ、籠城方の猛将鳥居元忠の名を歴史に刻んだ戦い、それは真逆の結果で終わってしまった。


 知るか、敵国と組んだ間抜けが悪いんだ。

 私は知らんからな。鉄船作ったり琵琶湖疎水設計したりしたけど、知らんからな。

 私には守らなければならない、見捨てることができない女の子達がいるんだ。


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※顎のお話は有名なハプスブルグ家の血の濃さ故の劣性遺伝のお話。しかもフェリペ二世以降はカトリック至上主義によって更に煮詰まった感がありました。


※一時徳川家康の邸となっていた向島城。巨大な伏見城ですら二千足らずの守兵しかいなかったので実際の関ケ原前哨戦ではどうなっていたか、調べられませんでした。


※実際、どの大きさの船ならどの程度の大砲を乗せられるか、その辺の計算はできていませんです。すみません。

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