3.裏切りの裏切り

 エリックが腕を拘束された状態で時計塔から出てきた時、出口にはロキが待ち構えていた。

 ロキの姿を見たエリックは、薄らと笑っていた。ただし、その笑みはロキへの嘲りではなく、諦めからくる自嘲のようだった。

「いつから、俺が内通者だとわかっていたのですか」

 エリックの問いかけに、ロキは口を開きかけ。

 すぐに首を横に振ってから、改めて言葉を発する。

「……疑問に感じたのは、チガヤを故郷に連れて行った時だ。チガヤが撃たれそうになった時、お前はすぐさま反撃したのに的を外した。お前の腕であれば確実に仕留められる距離だったというのに、お前はわざと敵を逃がしていた」

 それから、とロキは続ける。

「疑惑が確信になったのは、観測所が襲撃された時だ……エリック。あいつを撃ったのは、お前だな」

 観測所が襲撃され、青年が撃たれて倒れた、あの時。

 侵入した狂信者たちはあの瞬間、誰一人として銃を撃てる状態ではなかった。

 そうなると、あの時に青年を撃ったのは侵入者ではなく、観測所側の人間。さらにあの距離で確実に青年の脳天を狙える腕を持つ狙撃者となると、ロキの脳裏には一人しかいなかった。

「お前にライフルの使用許可を出していたのは俺自身だ。それに、泉に繋がる扉へと侵入者は迷うこと無く辿り着き、閉鎖したはずの扉をいとも簡単に突破していた。観測所の内部構造を奴らに流している者がいると確信すると同時に、あの時、自由に動けのはお前だけで――」

「嘘だ」

 ロキの言葉を遮り、エリックは否定する。

 だがその否定は、自身の犯行疑惑に対してではない。エリックが否定したいのは、ロキがいつから自身を疑っていたかという言葉。

「貴方は、俺を最初から疑っていた。俺が貴方の部下に任命された時、いや、俺が貴方と初めて会った、あの時から、すでに」

 何故ですか。

 そう問いかけるエリックに、ロキは、目を逸らす。


 養父であるラルフ・エルドランが亡くなった時、その死亡原因を追求する上で、ハードン家とアルクハイト・グレイスが癒着していることは、ロキの独自調査で事前に判明していた。

 おそらく、グレイスとハードン家の家長は、前世で繋がっていたのだろう。養父のこともそういった理由で手元に置きたがっていたグレイスだ。あの老人の周りには前世に関わる者で固められているはずである。そうであるならば、グレイスが指揮していた『赤の使徒』も、グレイスの前世と関係があるもので構成されており、それにハードン家が関わっていることも容易に想像できる。

 故に、ロキにとって疑う余地は、十分にあった。それでもエリックを部下に置いたのは、下手に放置するよりも、目の届く範囲内で行動を監視しやすくする為であり――


 ――否。

 エリックが聞きたいのは、更にそれ以前の問題について、なのだろう。


「……お前のことは、信じていたさ。必ず俺を、裏切ってくれると」


 世界が崩壊する、その直前。

 勇者ローシュに致命傷を与えたのは、仲間からの狙撃であり、裏切りであった。

 その事を、ロキは覚えている。ローシュが受けた絶望の記憶として。

 この世界が、邪神へ堕とされた火神の歪んだ奇跡によって再生された世界であり、繰り返しの歴史だというのであれば、状況や場所が変化したとしてもかならず裏切りは繰り返される。

 だからこそ、ロキは初めから確信していたのだ。エリックが、いつか自分を裏切るということを。


 ただし、そのことをロキは言葉にするつもりはない。

 その代わりに、今この時、この瞬間に至った事実だけを口にする。

「信じてはいたが……仮に、俺がお前が裏切ることを知っていたとしても、こうも段取りよくお前たちの計画が破綻したことに、お前は何も思わないのか。俺がどのようにして、今日、お前たちの襲撃を予測し、確実な手配をすることができたのか」

 ロキの言葉に、エリックは怪訝な顔をし。

 そして徐々に、表情を強ばらせた。

 ロキは続ける。


「……お前の裏切りを信じていた俺の、唯一の誤算は……彼女が、お前ではなく、俺を選んでしまったということだ」


「う、嘘、だ」

 エリックが絞り出すように声を発する。

 ロキはそれ以上は何も言わず、口を閉ざした。

「嘘だ、嘘だと言え、嘘だと言ってくれ! 姉さんが……姉さんが俺を裏切ったなんて、そんなこと!」

 両腕を拘束されているにも関わらずロキに飛びかかろうとするエリックを、傍にいたユークリッドが押さえつけた。

 エリックはそれでも叫び続けたが、包囲していた軍人たちに取り押さえられ、連行されていく。

 ロキはただそれを見送った。エリックの叫び声が遠くなり、傍に停車した軍用車へ押し込まれたのを見届け、ロキは目を伏せる。

「ロキ所長」

 声をかけてきたのはフィルだ。フィルは敬礼した後、気遣うように小声で話しかけた。

「後のことは、俺と兄でやっておきます。所長は、先に行って下さい」

「…………すまない。任せた」

 それだけを言い、ロキはふらりとその場を後にする。


 気付けば夜が終わり、日が昇り始める時間帯になっていた。空からはポツポツと雨が降り始めている。

 ロキが一人になった頃を見計らい、バサバサと空から真っ黒な鳥が飛んできた。そして器用にロキの肩に止まると、嘴を開ける。

「自分の死を回避したんだね。ローシュ」

「……ローシュと呼ぶな、バカ鳥」

 言い返すロキの声には、覇気がなかった。

 真っ黒な鳥――風神は、やれやれと言いたげに「あーあ」と声を上げた。

「そんなに気落ちするなよ。お前のおかげで歴史の加速が少しだけ緩んだ。もう少しだけ猶予ができたよ」

「……少しだけ、か」

「ああ、少しだけ。まだ繰り返しは終わっていない。まぁ、これだけ加速してちゃぁ、そう簡単には止まれないってことさ」

「…………風神。質問に応えろ」

 ロキは足を止める。


「今の世界は、何度目なんだ」


 更に続けて、ロキは言う。


「俺は、何度失敗した」


 それに対し、風神は嘴を閉じた。

 ふるりと体を震わし、ロキの肩から飛び降りると、翼を使って空へ舞う。

「知らない方がいいよ、そんなこと」

 去り際に、それだけを告げて。

 ロキは風神を見送り、ああ、と小さく声を上げる。

「……聞く順番を間違えたな」

 反省するように、溜め息を吐く。

 個人の感傷に引き摺られすぎて、先に聞くべき問いを間違えてしまった。

 ロキは誰も居ない路地で、聞きそびれた疑問を呟く。

「チガヤは、誰の生まれ変わりなんだ」


 雨は徐々に強さを増していった。


 ×××


 プリシア・ハードンにとって、ロキ・エルドランは、得体の知れない人物だった。


 彼女にとってこの婚約は、家同士の政略結婚であると同時に、もう一つ、家長からの命令を遂行するという目的があった。その命令とは、グレイスと癒着関係であるハードン家による、観測所所長への密偵行為である。


 嫁ぐ前まで家を出ることを許されていなかったプリシアにとって、ハードン家家長の命令は絶対だった。絶対厳守であると洗脳されていた、と言っても過言ではない。「子孫を作れないのであれば、せめて家長の命令には逆らうな」と言い聞かされて育ったからだ。

 その経緯を踏まえての、政略結婚と密偵命行為令であった。

 エリックがプリシアの結婚に反対した本当の理由は、この密偵が危険なものであったからである。ハードン家は深く『赤の使徒』と関わりがある。もし密偵を怠ったり、偽の情報を掴んだりすれば、過激派集団である彼らの矛先がプリシアに向く可能性だってあったのだ。

 それでも、その頃はハードン家しか知らなかったプリシアは、役立たずの自分でも家の為になるのであればと、決死の覚悟でエルドラン家へ嫁いだのである。


 だというのに。

「――俺は基本的に家にはいないだろうから、貴女には好きに過ごして欲しい」

 プリシアが嫁いで早々、ロキはそう告げた。そして、嫁いでまだ間もないプリシアに呆気なく全財産を教え、好きに使えと容認した。

 エルドラン邸の中身は、立派な庭園がある外見とは裏腹に、あまりにも空っぽだった。養父にして先代であるラルフ・エルドランが亡くなった際に、先代が大事にしていたという庭園以外の、資産になる家財等を早々に手放してしまったのだという。沢山いたのであろう使用人もそれ相応の金額を渡した上で解雇し、残っているのはロキを幼少期から世話していたという老夫婦だけだった。

「元々、この家は父の代で終わるはずだったんだ。父は早くに亡くなった奥方以外の人と子を作るつもりもなく、自身の死後は家を畳めるようにと早くから手配をしていた。だというのに、そこに俺が来てしまったから、予定を狂わせてしまったようでな……生前の父からは俺の好きにすれば良いと言われていたが、俺は父の意志を引き継ぎ、俺の代でしっかりとこの家を終わらせるつもりだ。だから、貴女もそのつもりでいてくれると有り難い。俺の身に何かあった時の、貴女の後見人にも話をつけてある。俺が元々いた孤児院で院長をしているイリス先生なんだが……」

「ま、待ってください。わたくしは嫁いできたばかりですよ。そんな先の話までされても困ります」

 慌てて話を遮ったプリシアに、ロキは一瞬きょとんとした様子で瞬きをした。

 そしてすぐに、取り繕うように苦笑する。

「……そうだな。すまない、先走り過ぎてしまった。とにかく、俺に何かあっても、貴女があの家に戻らなくてもいいように手配しているということだけ、頭の片隅に置いておいてほしい。貴女が家に帰りたいというのであれば構わないが」

 まるでその内に自分の身に何かが起きることが確定されているかのような口ぶりだ。

 そんな生き急ぐようなロキに、プリシアは呆れ。

 同時に、どこかホッとしていた。

 あの家に、ハードン家に、戻らなくてもいいのかと安堵する自分に気付いてしまった。


 それからのプリシアの生活は、拍子抜けするほどに平和だった。

 使用人の老夫婦はとても優しい人たちで、不便が無いかをよく気に掛けてくれ、声をかけてくれる。作った手料理を褒めてくれ、家事や庭園の手入れを手伝えば喜んで貰えた。

 それにロキも、最初の宣言通りにあまり家に留まることはなかったが、決して自分のことを放置するわけでもなかった。帰ってくれば必ず声をかけ、時には物を贈ってくれることもあり……夫婦としては遠くても、プリシアにとっては程よい距離感で接してくれた。

 そして、そんなロキへの密偵行為も、想像していたよりも苦労することはなかった。ロキは仕事内容を別段隠す様子は無く、聞けばある程度のことは応え、プリシアが屋敷内の執務室に出入りすることにも意を問わなかった。おかげで適度な情報は常時手に入り、ハードン家からも狂信者たちからも反感を持たれることなく過ごし続けることができた。

 そう、何故だか、全てがプリシアの思うように、物事が回っていて。

 何にも睨まれず、疎まれず、生きていて良い日々に、心が安まると同時に不安にもなった。


 今の日々はプリシアにとって、心苦しいほどに、平穏で。

 泣きたくなるぐらいに、愛おしい日々だった。


 こんな平穏をプリシアに与えてくれたのは、間違いなくロキであり。

 その事を実感するにつれて、ロキが時折、死に急ぐような行動や発言をすることに、心を痛めるようになってきている自分自身にも、プリシアは薄々気付き始めていた。

 ――そんな日々に終わりが来たと悟ったのは、弟・エリックと数年ぶりに再会した時だった。


「家長から、ロキ所長を殺すようにと、命令を受けました」

 チガヤの護衛としてエルドラン邸に来訪したエリックに、チガヤの薦めで対面した時、エリックは開口一番にそう告げた。

 プリシアは息を飲み、言葉を失った。

 頭が真っ白になってしまい、何と言えばいいのかわからない。なんとかして口を開いても、「どうして」という言葉しか出てこなかった。

「先日の観測所襲撃が失敗に終わったことで、グレイス様が事を急ぐことにした、と。その暗殺方法に、俺の狙撃の腕が買われたようです」

「……な、何故……? わたくしからの情報では足りなくなったということ? どうして、殺害までする理由が……」

「先方にとってロキ所長の存在自体が邪魔になった、ということでしょう。詳細なんて俺にはわかりません。ただ、家長の言うことに、俺は逆らえない」

「どうして」

「俺が暗殺命令を引き受ける代わりに、姉さんに与えた密偵命令を取り下げるよう、家長に誓約してもらいました」

 またもプリシアは言葉を失った。

 密偵行為の取り下げ……それはつまり、ハードン家の束縛から、自由の身になるということだ。

 エリックに罪を被せ、ロキの命と引き替えに。

「ま……待って……どうして、そんなこと」

「これで姉さんはハードン家からは完全に縁が切れたことになります。そして、所長を暗殺した後、俺は軍に自首します。自分の犯行を自白し、同時に家長のことを軍に明かすつもりです。そうなるとハードン家全体に捜査の手が回ることでしょう……でも、この家に嫁いでハードン家から離れていた上に離縁したと家長が誓約している姉さんには、そこまで捜査の手は追求されないはずです。なので、姉さんは一切のことを黙秘してください。自分は関係がないと、被害者の妻であると、それだけを貫いてください」

「待ちなさいエリック、そんなこと、わたくしは」

「姉さん」

 困惑して止めようとするプリシアの言葉を、エリックは遮る。

 そして、ほんの少し微笑んだ。

「ハードン家と繋がっているままの姉さんだと、この先、どう足掻いても幸せにはなれない……俺はただ、姉さんが幸せに生きてくれるなら、それだけで良いんだ」

 プリシアは再三、言葉を失った。

 もう何も言えない。俯いてしまって、エリックの顔を見ることが出来なくなってしまった。

 愛する弟は、最後の挨拶として、こう告げる。

「姉さん。どうか、お幸せに」


 エリックと話せたのは、それだけだった。

 これ以上は使用人の老夫婦にもチガヤにも怪しまれるからと持ち場に戻ったエリックの背中を見送り、プリシアは必死に考えを巡らせる。

 何が最善か。

 何をすれば良いのか。

 何をするべきなのか。

 チガヤが荷造りを終えて部屋から降りてくるまでの短時間、咄嗟にできたのは、クッキーを入れた袋の中に走り書きのメモ用紙を入れ、チガヤに託すことだった。

 ロキが甘い物が苦手であることは知っている。それを把握しているはずのプリシアからのクッキーの差し入れというだけでも、彼は警戒するはずだ。だから、きっと、メモ用紙にも気付いてくれるはず。あとは、チガヤが確実に袋をロキに届けてくれさえすれば。


 そんなプリシアの願いが叶ったことを知ったのは、早朝にかかってきた一本の電話だった。

『――エリックが確保されたと、連絡がありました』

 電話の相手はアルテだった。

 プリシアは受話器を持ったまま硬直した。

 飲み込んだ息をなんとか吐き出し、震える声で問いかける。

「あの、主人……ロキは」

『ロキ所長は無事のようです。現場を任せて、先にこちらへ向かってきていると』

「そう……そう、ですか」

『奥様、できるだけ早くそちらに人を向かわせます。それまで、ご自宅で待機して頂いてもいいですか』

「えぇ、はい、お待ちしております。わたくしの知っている限りであれば、お話させて頂きます」

 受話器を置いた手は震えていた。

 エリックを裏切ってしまった後悔と、ロキの身が無事であった安堵とで、感情が入り乱れている。

 早駆けする鼓動を深呼吸で押さえつつ、ソファーに座ってじっとする。しかし、どうにも落ち着かず、ふらふらと家事を一通り終わらせた後、プリシアは屋敷の外へと出た。

 生憎と雨が降っていた。

 屋根の下で佇み、雨に濡れる庭園を眺める。と、強まる雨の中、ふいに庭園の向こうから門を開ける聞き慣れた音が聞こえた。

「……ロキ……」

 門を開けて入ってきたのは、ロキだった。

 彼は玄関先に佇むプリシアに気付いたのか、足を止める。この雨の中、傘もささずに立つ彼は、気まずそうに、ただ視線を逸らした。

 その行動だけで、彼が袋の中のメモに気付き、それがプリシアがしたことだと確信しているのだと察した。

 慌てて傘を差し、雨の下に出る。ロキの元に駆け寄れば、彼はここまで雨に晒されながら歩いてきたのか、すっかりずぶ濡れになっていた。

「――すまない」

 プリシアが声を発するよりも先に、ロキが口を開く。

「……貴女に、身内を裏切らせる選択をさせてしまった」


 その瞬間に、プリシアは悟った。

 きっと彼は、全てを知っていた。

 プリシアが密偵行為をしていたことを。そして、それを承知の上で、敢えて情報を露呈し、プリシアの立場が危なくならないようにしてくれていた。

 それで自分自身の身が危険に晒されようとも。


 彼の死に急ぐような発言は、プリシアを守る為であり。

 自分の身よりもプリシアを優先した結果の、行動だったのだろう。


 それがわかった。

 わかってしまった。

 わかってしまった、その瞬間、プリシアは傘を放り出してロキを抱きしめていた。

「……ごめんなさい、あなた」

 瞳から流れる涙は、雨に混じって落ちていく。

 縋り付き、同じように雨に打たれて濡れながら、懇願した。

「あなたのことを、愛させてください」


 雨はより一層強くなり、激しい雨音のせいで彼の返事が聞こえない。

 それでも彼はただ、プリシアのことを優しく抱きしめ返してくれたのだった。


 ×××


 アルクハイト・グレイスが逮捕されたことにより、グレイスに関わっていた個人や一族が取り調べられることになった。

 その対象にはハードン家も含まれている。そのことで何か問題があったらしく、エリックは観測所から別の場所へと左遷されることになった。


 ――と、チガヤはそう説明を受けた。

 その説明が自分向けの内容であることは、流石のチガヤでもぼんやりとわかった。が、軍の機密情報だと言われると、チガヤからは詳細を聞くことはできない。

 なので、チガヤは別の質問をする。

「プリシアさんは大丈夫なのですか? プリシアさんも大変なことになっているのでは……」

 事務所に帰ってきて早々に小屋まで顔を出しに来てくれたロキに、チガヤはそう質問を投げかけた。

 ロキが観測所に帰ってきたのは、宣言通りの二日後だった。本当はもっと早くに帰ってきてはいたようだが、仕事の対応で観測所にまでは来れなかったようだ。

 二日ぶりに見るロキは何だか肩の荷が少しだけ降りたような顔をしており、心なしか纏う雰囲気も柔らかくなっていた。

「彼女のことは心配しなくていい。周りからの疑いの目はあるだろうが、軍本部には俺が監視するから免除するように報告している。捜査の間は自宅謹慎を言い渡されてはいるが、厳しい制限を強いられているわけでもない。買い出しに行くぐらいの自由はある……これぐらいは俺が守らないと、流石にエリックに恨まれるしな」

「う、恨まれ……えぇっと、それなら良いのですが……」

「プリシアが心配だというのなら、近い内にでも顔を出してやってくれ。彼女も喜ぶ」

「はい、そうさせてもらいます。あ、そうだ、この前はクッキー、大丈夫でしたか? あの後、ロキさんが甘い物が苦手だったと聞いて、無理に食べるように言ってしまったのかと心配していたのです」

 思い出して、チガヤは慌てて確認をする。

 ロキはきょとんとした顔をした。そして首を横に振る。

「いや、別に、俺は甘味が苦手というわけじゃないぞ。というか、君と孤児院に行った時、院長先生に薦められるままに一緒に食べていただろう」

「え? あれ? そういえば、そうでしたね?」

「ああ、でも、そうだな。ここ数年は食べないようにはしていたか。父の死亡原因が毒入りの洋菓子だったから、俺も用心して避けていたし」

 サラリととんでもないことを言われた。

 思わず耳を疑って硬直するチガヤには構わず、ロキは合点がいったように一人頷く。

「それで昨日プリシアに菓子の礼を言ったら驚かれたのか。というか、チガヤのその様子だと、もしかして全員に勘違いされているのか? 後で皆にも言っておくか」

「と、とにかく、すみませんでした。いろんな噂に振り回されちゃって」

「君が謝ることはない。それに……君のおかげで、得られたものもある」

 一瞬だけ、ロキの表情が和らいだ。

 今度はチガヤがきょとんとする。

 が、すぐにロキは顔を引き締めた。

「ところでチガヤ、俺に何か話すことがあるんじゃないか。俺が観測所を離れて僅か数時間後に、君があいつにしがみついて大泣きしていたと、アルテから報告を受けているんだが?」

「あー……えぇっとー……」

 確かにあの時、なかなか泣き止むことができない上に青年からも離れられず、困った様子の青年に新居の小屋まで送ってもらい、青年が事務所へ無言電話したことで驚いたアルテが飛んで戻ってきた……という経緯があった。思い返すとどうにも気恥ずかしく、大泣きしたことは忘れてしまいたい記憶なのだが、水神の神域で見たことはロキに報告した方がいいのだろう。


 と、小屋の電話がまた鳴り出した。事務所からロキ宛てだろう、やれやれとロキが肩を竦めて受話器を取る。

「俺だ。どうした?」

『所長、大変です。グレイス氏が――』

 電話の相手はアルテのようだった。冷静に報告をするアルテの言葉に、ロキの顔が徐々に険しくなっていく。

 ハラハラとチガヤが見守る中、受話器を置いたロキは忌々しげに溜め息を吐いた。

「……あれで終わるとは、確かに思ってはいなかったが……」

「どうしたのですか?」

「グレイス氏を護送していた車両が『赤の使徒』に襲撃され、グレイス氏が行方不明になったらしい。チガヤ、暫くは観測所から外に出ないようにしてくれ。何が起きるかわからない。俺は一旦事務所に戻る」

「あ、は、はい」

 慌ただしく小屋を飛び出すロキを見送る。

 結局、水神の神域で見たことを話そびれてしまった。どうしようかと、何となしに窓の外を見る。

 と。


「――」

「え?」


 窓の外に、誰かいたような気がした。

 それに、名前を呼ばれたような気もする。導かれるように小屋の外へと出たチガヤは、辺りを見渡す。

 すぐに泉の傍に立つ青年の姿を見つけた。が、チガヤは首を傾げる。窓から見かけた人影は、青年の背丈ではなかったように思ったのだが――

 と、ふいに泉の淵に立っていた青年が、泉の中へと入っていく。チガヤは驚き、慌てて泉の傍へと駆け寄った。

「火神様、どうされたのですか……って、水神様?」

 青年が泉の中でしゃがみこみ、両手で掬い取ったのは、小さくなった水神だった。

 水神を両手に乗せたまま、青年は泉の淵にまで戻ってくる。青年の手の中で、水神はぐったりとした様子で横たわっていた。

「水神様、水神様っ? どうされたのですかっ?」

 チガヤが呼びかけるが、水神からの返答はない。

 青年の顔を見上げれば、彼は何とも言えない難しい表情をしており、ただ水神が乗った両手をチガヤへと差し出してくる。チガヤに受け取ってほしいという意思表示だとわかり、チガヤは慌てて両手で水神を受け取った。

 水神は意識が無いのか、チガヤの両手の上でもぐったりとしたままだ。そして、受け取ってようやくわかったのだが、苦しげに小さく唸っているようでもある。

「ど、どうしましょう……」

 チガヤはおろおろと呟いた。


   第三章 勇者 完



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死にたがり邪神と嫁入りした生贄少女 第三章 勇者 光闇 游 @kouyami_50

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