2.裏切り

 チガヤの体はぶくぶくと沈んでいく。

 泉は、深くてもチガヤの膝下までの深さしかないはずだ。なのに底にぶつかることもなく、どんどん水面が遠ざかっていく。

 やがて、沈む自分の体の背後から光が差し込んでいることに気が付いた。腕をばたつかせて体を回転させてみれば、水の底に何かが見える。

 その時、チガヤのすぐ傍で水が動いた。

「チガヤ」

 呼ばれて、きょろきょろと辺りを見渡せば、真白な魚がこちらに泳いでくる。

 本来の大きさである、チガヤの身丈と同じぐらいの大きさになっている魚――水神は、チガヤの周りをぐるりと一周した。

「水神様」

 と声を出したところで、声が出ることに気が付いてチガヤは口を閉じた。息も苦しくなく、水の中でも呼吸ができている。すると今度は体の浮遊感が消え、いつの間にか足が水底に着いていた。

 辺りはぼんやりと明るいが、何もない。足が着いている地面も土ではなく、半透明の何かの上に立っているようだった。

「あら、いつものように騒がないのね」

 チガヤの正面に泳いできた水神が感心したように言う。

 そんな水神に、チガヤは苦笑を浮かべた。

「神様たちがやる不思議なことには、だいぶ慣れてきました。それで、ここはどこなのですか?」

「物わかりが早くて助かるわぁ。ここはね、わたしの神域の中。前にも来たことがあるでしょ?」

「えぇっと……崖から落ちた時、ですかね」

 故郷の村にある崖から落ちた時、水の中で水神と出会った場所を思い出す。あの時も、水の中だというのに呼吸が出来ていた。

 チガヤは改めて水神に向かい合う。

「私は何をすればいいのですか? 過去を見てもらう、と言っていましたけれど」

「そう。このままだと間に合いそうにないからね。貴女に、今の世界のことを早く理解してもらおうと思って」

「間に合いそうにない? それはどういう――」

 その時、足元が突然光り出した。

 その光は足元から迫り上がり、あっという間に辺りを包み込む。

 咄嗟に目を瞑ったチガヤが、光が止むのを待ってからおそるおそる目を開けると、辺りの景色は一変していた。

 

 何もない荒野だった。

 土と岩しかなく、草が一本も生えていない。見上げれば空があるが、どことなく色褪せて見える。


 直感的に、現実ではないと理解した。その証拠にチガヤの傍には、水神が浮遊するように宙を泳いでいる。

「ここは……?」

「貴女にもわかるようにいうと、崩壊する以前の世界、ってところかしら。わたしが記録している、世界の風景」

 よく見れば雨が降っているようだが、チガヤの体に雨粒が当たる感覚はない。目の前に広がる何もかもが幻覚のようなもの、ということなのか。

 と、何も無かった荒野に、何かが揺らぐのを見つけた。

 人影だった。チガヤと水神がいる場所から離れた場所に、ぽつんと誰かが立っている。

「火神様……?」

 口から勝手にこぼれ落ちた言葉に、チガヤ自身が驚き、目を凝らす。

 手入れがされていない髪は白髪ではなく、黒と白が入り混じったような髪色をしている。俯いている為に顔は見えないが、身に纏っている服は布きれ同然のようにボロボロになっており、腕には金属製の重そうな手枷が嵌められているようだ。

 その出で立ちは、神というより、まるで奴隷のようで。

 咄嗟にチガヤは駆け寄ろうとしていた。が、足が動かなかった。どうして、と自分の足を見下ろした時、今度はドォンと地響きのような音が聞こえる。

 この音は聞いたことがある。しかも、ごく最近に。そう、あの音は、狂信者たちが使っていた大砲の音に酷似している。

 ハッとして顔を上げた時、彼がいた場所で爆煙があがった。さっと血の気が引くチガヤに、声をかけたのは傍にいた水神だ。

「チガヤ、落ち着いて。これは風景。もう過ぎ去った、過去の記録よ」

「記録……? で、でも、これは」

 どこからとこなく怒号が聞こえ、何百もの足音が聞こえてきたと思えば、後ろ側から大勢の人が雪崩れ込むようにチガヤたちをすり抜けた。

 体がぶつかることはない。実体がないようで、チガヤと水神の体を追い越していく。

 その者たちは甲冑や分厚い皮といった防具を身につけ、それぞれが武器を掲げている。そんな彼らが向かう先は、爆煙が上がった場所――

「火神様っ」

 チガヤが叫んだ直後、一瞬にして辺りは炎に包まれる。

 武装している者たちが上げていた怒号が悲鳴へと変わり、荒野に響き渡る。その場にいる者が全て火に巻かれ、燃えていくその中心には、同じように燃えながらもゆらりと立っている彼がいる。


 チガヤにはわかった。これは、この前と同じ光景だと。

 場所も規模も違うが、今見ている光景は、間違いなく観測所が襲撃されたあの時と同じ状況なのだ。


「今の世界は、あの子の歪んだ奇跡で再生されたもの」

 傍にいた水神が、チガヤに寄り添うようにして語りかける。

「その再生には、世界が辿った歴史も含まれている。崩壊する以前の世界の歴史をも、今の世界は再生して、繰り返しているの」

「歴史を再生して、繰り返し……? それだと、この世界は、また――」

「そう。このままだと、世界はまた滅びることになるわ」

 すると周りの炎がより強く立ち上り、気が付けば景色が再び一変した。

 どこかの建物の中なのか。天井が広く、何本もの太い柱が立ち並んでいる。奥側は階段になっており、その頂上に大きく豪華な椅子が置かれていた。実物を見たことがないので憶測でしかないが、玉座というものではないだろうか。

 そんな玉座がある場所が、炎で埋め尽くされている。

 熱さは感じないが、見ているだけで肺まで燃えてしまいそうな熱気を容易に想像できてしまう。柱から燃え上がった炎は天井をも燃やし始めていて、今にも崩れてきそうだ。

 チガヤは自身から血の気が引くのを感じながらも、辺りを見渡す。

 すぐに探していた姿は見つかった。玉座がある階段の下、少し離れた場所で、彼が、何かを抱えるようにして蹲っている。またも表情は窺えないが、荒野の光景で見た時よりも髪色が白くなっている。

 彼が抱えているものは、なんだろうか。燃えて真っ黒になり原型すら留めていないものを、彼は燃えながらも抱きしめている。


 きっと、あれは人だ。人だったものだ。


 直感でそれがわかってしまい、チガヤは息を飲む。

 と、彼がいる更に向こう側から何かを引き摺る音が聞こえてきた。ガラリ、ガラリ、と金属質な音を立てながらチガヤの視界に現れたのは、一人の男。

「ロキさん?! ……じゃない、あの人は――」

 驚いて声を上げたが、すぐに自分で首を横に振った。

 ロキに見えたが、よく見ればロキではない。現在のロキよりも年上のように見えるその男は、おそらく――勇者・ローシュだ。

 ローシュが引き摺っているのは、剣だった。だらりと下げた腕でかろうじて剣の柄を握り、剣先を床につけたまま、ガラリ、ガラリ、と引き摺っている。

 そしてローシュが歩く軌跡には、赤い血痕が続いている。その血の出所は、ローシュ自身の胸からだ。剣を握っていない方の手で胸を押さえているが、その指の間から今なお鮮血が流れ続けて床にまで滴っている。

 どう見ても、致命傷だった。

「ロアン――」

 そう、ロキに似た声でローシュが言葉を発した時。

 彼の腕の中にいた者は、完全に灰となって崩れていた。

 俯いていた彼が、ローシュの呼びかけに反応してのろのろと頭を上げる。その顔には、全てのことに絶望し、一切の感情が抜けてしまったかのような表情が浮かんでいる。

 それを見ているチガヤは、唐突にロキの言葉を思い出していた。


 ――完全に心を閉ざして抜け殻のようになっている弟に向かって、剣を振り下ろした事だけ、鮮明に覚えている。


「――頼むから、死んでくれ」

 ローシュが最期の力を振り絞るように、剣を振り上げる。

 これは過去の光景だということは、わかっている。

 が、チガヤの体は思わず動いてしまっていた。

「火神様!」

「あっ、待ってチガヤ、そっちに行っちゃ――」

 すぐ傍で水神が止める声が聞こえたが、動かなかったはずのチガヤの足は一歩、二歩と前へと進む。


 すると突然、辺りが光に包まれた。


 驚いて目を瞑れば、足元にひやりとした感覚がする。ぎょっとしてすぐに目を開けると、辺りの景色は再び一転していて、真っ白になっていた。

 雪だ。雪が降っていて、辺り一面が雪景色になっているのだ。しかも今度はただの光景ではなく、雪の冷たさまで感じ取れる。

 ハッとして、前を見る。

 先程まで彼がいた場所には、別の誰かが蹲っていた。

 白い外套を頭から被り、こちらに背を向けている。チガヤが声を失っている間に、その誰かがゆっくりと立ち上がる。

「――チガヤ」

 凜とした、透き通るような女性の声だ。

 女性は僅かにこちらを振り向くが、頭に被っている外套で顔は見えない。ただ、外套からこぼれ落ちて胸元に流れている女性の髪が、チガヤと同じ赤色をしていることだけがわかる。

 そして、辛うじて見えている女性の口元が、動く。

「まだ、こちらに来ては駄目よ」

「え……?」


 刹那、チガヤの体は何かに弾かれるように後ろへと倒れた。

 バシャン、という水の音。それと同時にチガヤは再び水の中にいて、己の口からごぼごぼと空気の泡が零れている。

 驚いて硬直してしまったチガヤだったが、ふいに首後ろの襟ぐりを誰かに掴まれた。

 そしてそのまま、ぐいっと上へと引っ張られ。

 

 気が付けば、泉の中にいて、泉の底に尻餅をついた状態になっていた。


「……ふぇ?」

 思考が追いつかない。

 呆然として瞬きだけをしていれば、頭上から長く息を吐く音が聞こえる。え、と目線を真上へと向けてみれば、こちらを覗き込んでいる青年の顔が見えた。

「え、火神様? あれ、私、えっと」

 どうやら水神の神域だという空間から戻ってきたようだ。

 混乱するチガヤの傍らで、青年は呆れたような、ホッとしたような、曖昧な表情で再度息を吐き。

 そして唐突に、チガヤの体を抱き上げた。

「ひぇっ?! ひ、火神様、あのっ」

 横向きに抱きかかえられ、足が宙に浮く。

 青年はチガヤを抱えたままザブザブと泉の中を歩き、陸地へと上がると、すぐにチガヤを地面に降ろした。その頃にはずぶ濡れだったチガヤの体と服は乾ききっており、チガヤはおろおろと青年を見上げる。

「えっと、あの、火神様……」

 ひとまず礼を言おうとした。

 が、青年はそんなチガヤの言葉を遮り、チガヤの頭をなで始めた。

 落ち着け、と言われているようだった。チガヤは何も言えなくなり、大人しく頭をなでられている内に、混乱していた思考が徐々に冷静になっていく。


 先程まで見ていた光景を、思い出す。辺りを埋め尽くす炎の中で、絶望に押し潰された彼の表情と、そんな彼に剣を振り上げる、兄であるローシュの姿。

 きっと、あの後、ローシュの剣は彼を貫き、そしてローシュはあの致命傷でそのまま――


 けれど彼は、まだここにいる。

 あの光景の当時に比べて髪は完全に白くなっているが、姿はそのままで、まだここに居続けている。

 実の兄に死ぬように懇願され、世界が崩壊し。

 彼は今まで、どのように孤独だったのだろうか。


 気付けばチガヤの瞳からは涙が溢れ、ぽたぽたとこぼれ落ちていた。

 せっかく青年に乾かしてもらった服に雫が落ちて濡れていくが、涙を止めようとしても止まらない。見せられた光景の衝撃と、感じた恐怖心で、今のチガヤの心は埋まってしまっている。

「ふ、ぇ……っ、ひ、ひかみ、さまぁ……っ」

 意識すると余計に涙が溢れ、チガヤは青年にしがみついて泣き出した。

 そんなチガヤを、青年は肩を竦めながらもも受け止め、落ち着くまでチガヤの背中をなで続けた。


 ×××


「それで、どうだったの」

 青年とチガヤから少し離れた、泉の淵。

 そっと水面から顔を出した水神に向かって、待ち構えていた風神が問いかける。

 水神は少し、悩むように、声を出した。

「チガヤが、あの子に接触したわ」

「まさか! 水の神域から『あそこ』に繋がったというわけ? 有り得ないよ! ……でも、それが本当なのだとしたら――」

 風神が驚いて跳ね上がり、すぐに考え込むように嘴を閉じる。

 そして、大きく翼を広げた。

「――ローシュの傍にいることにするよ。今、ここであいつが死んだら、元も子もないからね」


 ×××


 ロキは公共の交通手段を乗り継ぎ、半日をかけて軍中央本部へと辿り着くと、ここに来るまでの道中で仕上げた報告書を叩きつけ、全てを早々に終わらせた。

 報告書ではなく詳細を口頭で報告しろと苦言する上層部には、「数日前に襲撃を受けたばかりだというのに責任者をここに呼び出し時間を割くということは、その後の対策を放置し作業を遅らせ、かつ近隣への安全面をも蔑ろにして軍施設への不信感を扇動するということになるが、それでも良いのか」と早口に啖呵をきって黙らせた。

 あの観測所という場所が軍内部でも特異な立場にあり、且つ大国の軍であっても持て余してしまうような危険視する場所であるのに、文句一つ言わないどころか自ら進んで管理を遂行しているのだ。そんなロキに対して軍上層部が多少目を瞑ることもある、と理解しての啖呵だった。今回はそれが上手く作用できたらしい。

 休む間もなくロキは来た道を逆走する。

 時刻はすでに真夜中。当初の予定ではこの辺りで宿を探して翌日に帰る予定だったが、帰路を急ぐことにし、公共の交通手段が今日の営業を終了した後も道を歩き続ける。

 急遽予定を変更したのには、訳がある。

「……この辺りでいいか」

 呟いて、立ち止まる。

 あと数刻歩けば見慣れた街が見えてくるはずの位置だ。この辺りは工場や施設が多く、今の時間帯は人気がない。道を照らす街灯も少なく、暗がりの中で辛うじて路地の突き当たりに、時計塔なのだろう、細く高い塔が立っているのが見える。

 その塔を見上げた後、ロキは視線を前方へ戻す。

 先程まで誰もいなかった路地に、数人分の気配が散らばっている。

 ロキはゆっくりとした動作で、持っていた鞄から手を離す。


 ボトリ、と鞄が地面に落下した瞬間、四方の横道から黒い影が一斉に飛び出した。


 夜の闇に紛れるように全身黒の服を来ている人間、性別不明、その数五人。

 まず真っ先に突っ込んできた小柄な影に視線を向け、突き出された銀の軌道を軽く避ける。持っている得物はナイフか、すぐに判別し、ナイフを握っている手首を素早く掴んで捻り上げる。

「っ、な」

 相手が驚いて声を上げている間に、ナイフを取り上げ、そのナイフの柄で相手のこめかみに狙いを定めて殴り飛ばす。小柄な影が吹き飛んで地面に倒れるのを見届けることなく、次に突撃してきた長身の影へ向かって足払いをする。そして、前のめりに倒れ込んできたところを、相手の鳩尾へとナイフの柄ごと拳を入れ込んだ。

 がっ、という相手の呻き声をしっかり聞きながら、ロキの視線は次の敵を見定めた。三歩離れた場所に、拳銃を構えている影がいる。すぐさま入れ込んだ拳を一旦下げ、長身の影を、拳銃を持っている影へと向けて蹴り飛ばす。ぎゃ、という声と共に、長身と拳銃を持っていた二つの影が地面に叩きつけられた。

 あっという間に三人を伸し、ロキは素早く残った二人へと視線を向けた。出鼻を挫かれた相手は怖じ気づいたのか、引き攣った顔でお互いを見やり、悲鳴を上げてその場を逃げ出した。

 身を引くのであれば、深追いはしない。ロキは長身の影に押し潰されてもがいている三人目へと近付くと、慌てて向けられた拳銃をさっさと奪い取った。そして拳銃の弾倉から銃弾を全部引き抜き、まとめて地面に投げ捨てる。

 そうして倒れた三人から戦闘意欲が完全になくなった。

 それを確認した後、ロキは時計塔がある方向へと顔を向ける。

「……余興はもう良いでしょう。用件があるなら聞きます。初代所長――アルクハイト・グレイス氏」

 確信を持って、声を出す。

 その呼びかけに応えるように、暗がりから別の影が現れる。 

 年老いた男性だった。元は黒髪だったのだろう白髪はしっかりと纏められ、杖を着いてはいるが背筋は伸び、暗がりでもわかる質の良いコートを着ている。観測所に残っている記録から考えれば八十に近い歳のはずだが、内から滲み出る威厳は未だ衰えてはいない様子だ。

 アルクハイト・グレイス――最初に泉を発見し、観測所の巨大な壁を建築指示した、初代所長。

 高齢からすでに軍を引退しているはずだが、どうして彼がここにいるのか。その理由を、ロキは口に出す。

「軍上層部に圧力をかけて俺を呼び出したのは、貴方ですね」

「……なるほど、エルドランの養子になっただけのことはある。察しが良い」

 低く高圧的な声が老人から発せられる。

 その傍らで、まだ意識がある二人が脳震盪を起こして気絶している一人を抱えて暗がりへと逃げていった。ロキは彼らへ視線だけを向け、更に推測を口にする。

「そいつらは『赤の使徒』で、貴方の手駒ですね。そして目的は、俺の殺害、ですか」

「ああ、その通り。さすがにそう易々とは死んでくれないようだがね。相変わらず君はしぶとい男のようだ――ローシュよ」

 老人はロキに向かって、そう呼ぶ。

 ロキは僅かに息を止め、そしてゆっくりと吐き出した。

 予測はしていたのだ。冷静に、ロキは老人を改めて見つめる。

「……貴方がそう呼ぶなら、こちらも改めないといけない。グレイス氏、いや……アンドレアス王」

 その名を口にする。

 それは、世界が崩壊する以前、火神を祀る国を統治していた最期の王の名だ。国を力で支配し、神の奇跡を自分のモノにしようとし、そして火神を、邪神へと堕とした、その全ての元凶である男の名。

「俺自身という事例がいるんだ。他に前世の記憶がある者がいてもおかしくない。それに、貴方は泉に流れ着いた一人目。世界再生後に誰もあいつの存在に気付いていなかったというのに、泉に流れ着いた後の貴方の行動は、異常なほどに的確で早かった。残されている記録が貴方にとって都合の良いように改ざんされていることを考慮しても、だ……あいつが何者なのか事前に知っている者でなければ、あいつを真っ先に隠そうとは考えない。あいつの正体を知り、且つ、世には出さずに隠し、自身の管理下に置きたがる人物……そう考えていけば、前世の記憶があれば答えには辿り着ける」

 ロキの言葉を、老人は静かに聞いていた。

 そして手を叩く。暗い路地に、拍手の音と共に老人の甲高い笑い声が響き渡る。

「はは、は……そうだ、その通り。私には前世で王をしていたという記憶がある。思い出したのは、泉でアレを見た時だったがね……泉に流れ着き、水から這い上がった私を、アレは、背筋が凍るような目で見下ろしていた」

 当時のことを思い出したのだろう。老人の目に暗い光が灯る。

 今の老人は、グレイスなのか、それともアンドレアスなのか。探るように老人を注視するロキに、老人は聞かれてもいないのに滔々と語り出す。

「前世を思い出した時、私は真っ先にアレを隠さねばならないと考えた。アレがどれほど危険な存在なのかは、私自身が身をもって知っている。しかし、それと同時に、アレの利用価値を理解しているのも私だ。故に、まずは隠し、私の管理下に置いた後、機を窺うことにした……というのに、あの男が」

 老人の顔が忌々しげに歪む。

 あの男。それが誰か、ロキは知っている。

「先代であるラルフ・エルドランが貴方の横領を内部告発し、貴方を失脚させたことは聞いています。先代はそれ以上を俺には語りませんでしたが、その様子では、それ以外にもいろいろとあったようですね」

「ああ、あの男、前世のよしみで私の右腕にしてやったというのに……! 罠に嵌められて大幅に計画が狂い、更にはローシュまで……前世では私に忠誠を尽くしていたというのに、あの男、あの男はっ!」

 恨みを露わにする老人は、もはやグレイスともアンドレアスとも呼べない。

 混ざってしまっている。ロキは小さく息を吐き、老人の言葉を遮るように声を張り上げた。


「ラルフ・エルドランを毒殺したのは、貴方ですね」


 老人の声がぴたりと止まる。

 一瞬の静寂の後、老人から再び笑い声が上がった。

 笑い続ける老人へ、ロキは言葉を続ける。

「観測所の管理者という座から失脚した貴方は、狂信者集団である『赤の使徒』を作り上げた。失脚したとは言えど軍人であった貴方には財力があった為、狂信者を洗脳し、武装させることは困難ではなかったはずだ。そうして洗脳させきった狂信者たちを一般市民に紛れ込ませ、事故を装い、先代へ毒を盛った」

「ああ、ああ、そうだとも! ラルフを殺すように指示したのは私だ! あの男が苦しんで死ぬ光景は実に滑稽だった! そうだ、そして……あとは、お前だ。お前さえ死ねば良い、そうすれば、アレは再び私のモノになる!」

 老人は勢いよくロキを指差す。


 刹那、ロキの体は後ろへと崩れ倒れた。


 一瞬遅れて、ターンッ、と微かに銃声が響く。遠方からの狙撃音だ。

 老人は倒れたロキを視認し、更に笑い声を上げる。

「そうだ、これで良い! どうだローシュ、信用した者に裏切られる気分は! お前も私と同じ、裏切られる苦しみを――」

「えぇ、そうですね」

「――知れ! ……は……?」


 倒れたはずのロキが、呻きながらも起き上がる。

 そして上着の内ポケットへと手を入れると、そこから金属片を取り出した。

 金属片には銃弾がめり込んでいる。

 つまり狙撃された銃弾は、あらかじめ仕込んでいた金属片に阻まれ、ロキには届いていなかった。


「生憎と、こちらは貴方より、仲間からの裏切りには慣れている」


 ロキが立ち上がる。

 それと同時に、ロキの背後からバタバタと武装した軍隊が駆け出し、あっという間に老人を拘束した。

 彼らは、ロキが赴いた軍本部にて、ロキが手配を依頼した別働隊だ。「観測所襲撃を計画支持した元凶に心当たりがある。ついてはその犯人をおびき出して自白させる為の囮となるので、部隊を配備してほしい」と、報告作業を手短に終わらせる代わりとして軍上層部へ交渉していたのである。

 ロキの身に何かが起きた際、その犯人を現行犯として確保するように、と。

 別働隊はすぐさま周辺へと散り、隠れていた狂信者たちを次々に捕らえていく。

 ロキは自力で歩き、老人の目前に立つ。

 そして、老人を冷ややかな目で見下した。


「アルクハイト・グレイス。貴方を、観測所襲撃犯、および先代所長ラルフ・エルドランの殺害、そして現所長ロキ・エルドランの殺人未遂の件で、拘束させてもらいます」


 ×××


 ライフルのスコープ越しに、一度倒れたロキが起き上がったのを見て、この計画が失敗したことを悟った。

 ロキが見上げていた時計塔。その最上階に構えていた狙撃手は、すぐさまこの場を離れるべくライフルを担いで階段を駆け下りる。

 だが、階段を降りていく先、待ち構えるようにこちらへ銃を向けている見知った顔を見つけて、狙撃手は足を止めた。

「動くな。抵抗してくれるなよ、頼むから」

 銃を構えながらそう声を発したのは、ユークリッド・アドソンであり、彼の傍にはフィル・アドソンも控えている。

 ユークリッドは武術に優れていて、今まで体術で勝てた試しは無い。それにフィルは人脈が広く、人を集めることは容易だ。おそらくこの時計塔はすでに包囲されている。仮にこの二人を突破できたところで、自身の身柄が確保されるのは時間の問題だろう。

「……はは……」

 笑い声が口から漏れる。

 大人しく両手を上げれば、ユークリッドが苦々しく顔を歪めた。

「所長から聞いた時は、何の冗談かと思ったんだがな……『赤の使徒』へ内部情報を漏らしていた内通者は、お前だったのか……エリック」


 ロキを撃った狙撃手にして、仲間からの裏切り者。

 エリック・ハードンは、全てを諦めたような乾いた声で小さく笑った。


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