1.密談

 雪が降っていた。

 鉄格子だけの檻は外に設置されている為、この雪から身を守る屋根や壁はない。手足が凍りついているが、どうせ兵器として死ねば再生されるのだからと放置されている。

 神の奇跡に適合しているとは言え、この体は人なのだが。だから、せめてと、両足を抱えて座り込んでいた。


 さくり、さくりと、雪を踏みしめる音が遠くから聞こえてくる。

 その音はだんだん近くなり、檻の外で止まる。雪が積もって重い頭を少しだけ持ち上げ、視線を向けてみれば、白い外套を頭から被っている人物が檻の前に立っている。

 彼女だ。

 鉄格子越しに何かを言っているが、うまく聞き取れない。耳が言葉を受け付けるのを拒否している。

 辛うじて聞き取れたのは、一言だけだ。


「貴方のお嫁さんになってあげる」


 目を覚ます。

 この数日で押し付けられた毛布を使うようになって、少し眠りが深くなった気がする。何百年経とうと、この体は少しの切っ掛けで人の感覚を思い出すようだ。

 ……とはいえ、毛布で温かいはずなのに、雪の記憶を見るとは。

 体を起こし、毛布から抜け出てベッドから降り、床に足をつける。

 小屋の扉を開けると、少女がいるのが見えた。

「あ、火神様。おはようごさいます」

 いつかの彼女に似た顔で、少女が笑っていた。


 ×××


 チガヤ・アルベルネの引っ越し作業は、観測所の総員を上げて迅速に行われることになった。

「この小屋は元々、先代があいつと交流する為に作ったそうだ。初代所長はあいつを隠すことばかりに注力していたようだが、先代はあいつと対等に接しようと試みていたらしくてな……まぁ、先代もあいつの前だとまともに動けず、結局この小屋は資材置き場になってしまっていたんだが」

 ロキ・エルドランがそう説明しながら、小屋内の設備を確認していく。チガヤはその後ろをついて行きながら、改めて小屋の中を見渡した。

 泉に流れ着いたあの日は混乱していたこともあり、よく中を見てはいなかった。しっかりした造りの暖炉があり、傍には乾いた薪が常備されている。最初に使わせてもらっていた安楽椅子も、よく見ればちゃんと手入れがされていた。

 部屋の隅にはロキが持ち込んだらしい物資も置いてある。それらは後で観測所に運ぶから手を出すな、とロキに言われて、チガヤはそっと手を引っ込めた。

「そういえば、ここって電話が繋がっているのですか? 火神様が使っていましたが」

「ん、ああ、俺の代になった時に、俺が私用で繋げたんだが……あの時は驚いた。何かあった時の為にとあいつを引き摺ってまで無理矢理に使い方を教えたのはいいが、本当に使ってくるとは思っていなかったからな……受話器を持ち上げたら、そのまま観測所にかかるようになっている。何かあればチガヤも使ってくれ」

 だからあの時、受話器から漏れ聞こえていた声が酷く焦った様子だったのか、とチガヤはこっそりと納得する。

 その時、開け放しの扉からジャン・ユライドが荷物を抱えて入ってきた。

「お、重い~っ、所長ぉ、これ、どこっすかぁ?」

「その辺に置いてて良いぞ。次はあれを観測所に持ってってくれ」

「うへぇ、勘弁してくださいよ。俺、肉体労働には向いてないんすから」

 ぜぇぜぇと肩で息をするジャンの後ろには、大きな家具を協力して運んできているフィル・アドソンとユークリッド・アドソンが見える。

 チガヤは邪魔にならないように小屋を出て、扉を最大限に開いて押さえる。フィルとユークリッドが無事に扉を潜ったのを見届けていると、ふいに向こう側で扉の開く音が聞こえた。

 青年がいる方の小屋の扉だ。振り向けば青年が扉を開いてこちらへと顔を向けていた。

「あ、火神様。おはようございます」

 実は、引っ越し作業で誰かがいる場合は青年の気を逸らすように、と言われていたチガヤである。青年が別のことに気を取られている上で距離が離れている間は、ロキとチガヤ以外でも動くことは可能なのだそうだ。現に、チガヤがぱたぱたと駆けだしたその後ろで、ロキが素早く部下たちに指示を出していた。

「作業は一旦中断だ。お前たちは今のうちに観測所に戻れ」

「ひょえっ、了解っす! って、これも重い?! ちょ、フィル、手伝ってぇ!」

 そんなやり取りが聞こえている。気になりながらも青年の元まで足を運んだチガヤは、その場でぺこりと頭を下げた。

「今日からこちらでお世話になります。ご迷惑をおかけしないように頑張りますので、どうぞよろしくお願いします」

 頭を上げて青年の顔を見れば、青年は溜め息を吐いていた。本当にここに住むのか、と言わんばかりの表情だ。

 チガヤが何と言おうか悩んでいると、部下たちを退避させ終わったロキが遅れてこちらにやって来る。

「お前とチガヤの安全確保の為だよ。そんな顔するな。お前だって、俺から聞くより自分の目でチガヤの安否が見れる方が安心するだろ」

「え? どういうことです? ロキさん、私のことを火神様に喋ってたのですか?」

 チガヤが思わず尋ねれば、青年が余計なことを言うなとロキを睨み付ける。が、ロキは肩を竦めただけで、自分から振った話を自分で逸らした。

「チガヤ、まだ屋敷に荷物が残っていると言っていたな。運び出すのに何人必要だ?」

「あ、いえ、あとは着替えがいくつかと、孤児院のお仕事道具一式だけですので、一人でも大丈夫です」

「なら念のために護衛として誰かをつけるか。ちなみに、チガヤは観測所の外では単独行動は厳禁だぞ。この前はそれで誘拐されたのだからな。観測所の外に出たい場合は、誰かに声をかけるようにしてくれ」

「え、は、はい」

「それと、俺は暫く観測所を離れる」

 えっ、とチガヤが声を出す。

 ロキは腕組みをして、んん、と唸った。

「そうだな……二日ほどで戻ってこれると思う。この前の襲撃について、書面だけでは軍中央部が納得しないようでな。セントラルフィナンド本部に呼び出されている。さすがに無視するわけにもいかないから手早く済ませてくる予定だが、どうなるかわからない」

「そうなのですか……引っ越ししたばかりで、いろいろ教えて頂こうと思っていたのですが……」

「俺が離れるから大至急でチガヤの安全確保をする必要があった、というのもある。部下は観測所に残していくから、心配しなくていい」

 そういうロキに、チガヤは何も言えない。自分と同じ物が見えるらしいロキが暫くいなくなるのは心許ないが、自分が誘拐されたことによる後始末なのだとすると、不安を言っていられる立場ではないからだ。

 とはいえ、ロキとしてもチガヤの心情は理解しているようだ。腕組みを解き、苦笑を浮かべる。

「女性がいた方が君も話をしやすいだろう。アルテにはかならず観測所にいるように伝えている。それに、孤児院の方にも連絡を入れておいた。君の仕事の都合上、行くことも多いだろうしな」

「あ、はい。お心遣い、ありがとうございます」

「君を保護する立場として当然のことをしているだけだ。気にしなくて良い……お前も、俺が戻るまでは大人しくしてろよ」

 ロキはチガヤから青年へと視線を戻す。

 青年は何かを言いたげな表情をしていた。そんな青年の頭を、ロキはわしゃわしゃと撫でつける。

「だから、そんな顔するな。十分気をつける。ヘマはしない」

 まるで小さな子供にやるような扱いだ。青年は呆れたように肩を竦めるとロキの手を振り払い、小屋へと戻って行ってしまった。

 と、二人のやり取りを見て、チガヤは首を傾げる。まるで青年が必要以上にロキの身を案じていたように見えたのだ。

「あの、ロキさん……」

「チガヤ、先に観測所に戻って、手が空いていそうな奴に声をかけておいてくれないか。俺は残りの資材を回収してから戻るから」

「え、は、はい」

 遮るようにそう言われ、咄嗟にチガヤは返事をしてしまった。そのままロキは資材を取りに行ってしまったので、チガヤも言われた通りに観測所へと足を向ける。

 もしかして、話をはぐらかれてしまったのだろうか。と頭の片隅で考えたが、もしそうならば自分には話せない内容だったのかもしれない。チガヤはすぐに頭を振って考えるのを止めた。



 残っていた資材を腕に抱えて小屋を出たロキは、足を止めて小屋の屋根を見上げた。

「……何の用だ、バカ鳥」

 屋根の上から、真っ黒な鳥がロキを見下ろしている。

 鳥は大きく羽ばたいて飛び上がると滑空し、ロキが抱えている資材の上へと器用に降り立つと、嘴を開けた。

「相変わらず失礼な奴だなぁ。どうして素直に崇拝しようとしないのかな、お前は」

「退けよ。前が見えない」

「やれやれ、そういうところだぞ、お前たち兄弟は」

 真っ黒な鳥――風神は、ぶつぶつと文句を言いながらも飛び跳ね、ロキの肩へと移動する。

 どうやら冷やかしに来ただけではなさそうだ。ロキは息を吐き、風神を肩に乗せたまま歩き出す。

「今日は忠告しに来たんだよ。ローシュ、最近ちょっと、隙がありすぎるんじゃないか。このままだと足元を掬われるよ。あの日みたいにさ」

「煩い、耳元で騒ぐな。それに」

 ロキは眉を顰めながら、一度口を閉じた。

 辺りの気配を探り、意図的に声を潜める。

「あえて隙を見せているんだよ」

「……ふぅん。それならいいけどさ。前世のお前がどうして死んだのか、本当の死因を忘れないようにしろよ。ローシュ」

 それだけを言うと、風神はロキの肩から飛び上がってどこかへ飛んで行ってしまった。

 ロキはそれを見送り、小さく呟く。

「……わかってるさ」


 ×××


 観測所からエルドラン邸までの護衛は、エリック・ハードンがついて来てくれることになった。

 手が空いている者がエリックとジャンだけだったのだが、ジャンは戦闘技術を持っていない為、護衛には適していない。そうなると必然的にエリックに同行を頼むしかなかったのだが、チガヤに遅れて観測所に戻ってきたロキは少し難しい顔をしていた。

「エリック、お前……」

「俺のことなら気にしないでください、所長」

「……わかった。任せる」

 そんな短いやり取りだったが、傍にいたジャンが何故かおろおろとした様子だったのが不思議だった。チガヤは首を傾げながらも、先導するエリックの後ろをついて行くことにした。

「お手数おかけしてすみません、エリックさん」

「これも仕事だ。構わない」

「えぇっと……は、はい……」

 エリックの素っ気ない返答に、チガヤはそれ以上何も言えなくなる。

 故郷へ行く時に同行した際もそうだったのだが、エリックは基本的に口数が少なく、気持ちを顔に出すことがあまり無い性格のようだ。なので当然のように会話は続かず、少し気まずい空気が二人の間を流れていく。

 そのまま黙々と足を動かし、気が付けばエルドラン邸は目の前だった。

「あ、プリシアさん」

 屋敷の玄関口に、丁度プリシアが立っているのが見えた。庭の手入れをしていたのか、腕には剪定された花が抱えられている。後で屋敷内の花瓶に活けるのだろう。

 チガヤが声を掛けると、プリシアは玄関扉を開ける動作を中断して振り返る。

「あら、チガヤさん――」

 そして、不自然に硬直した。

 目を見開き、腕に抱えていた花がバサリと落ちる。そんなプリシアの反応にチガヤが驚いて足を止めた、その横で、エリックが恭しく一礼をする。


「お久しぶりです。姉さん」

「……エリック……」


 ただ一人、きょとんとして二人を交互に見たチガヤは、エリックの言葉を反芻し、なんとか理解して、思わず声を上げた。

「えっ、ご、ご姉弟なのですかっ?」



「――正確には、わたくしとあの子の父親が一緒で、母親が違うの。腹違いの子供、と言われている関係ということね」

 プリシアは気まずそうに言った。

 彼女とチガヤが居るのは、チガヤが借りていた部屋だ。エリックは「女性の荷造りに同行するわけにはいかない」と玄関ホールで待機している。プリシアに荷造りを手伝ってもらいながら、チガヤはおろおろと言葉を探した。

「えぇっと……すみません、まさかお二人がそんな関係だとは知らず……あの、私一人でも荷造りできますから、エリックさんとお話されて頂いても……」

「いいえ、良いのよ。あの子とは、その……少し、気持ちのすれ違いをしてしまっていてね」

「えっ、仲が良くない、ってことですか?」

 聞き返してしまって、チガヤは慌てて手で口を塞ぐ。不躾な質問をしてしまった。

 それに対して、プリシアは苦笑した後、そうね……と言葉を濁しながらも口を開いた。

「わたくしと、主人――ロキとは、家が決めた政略結婚だったの」

 唐突にロキの名前が出てきて、チガヤは目をぱちくりとさせる。

「せいりゃくけっこん……?」

「お互いの心の内とは関係なく、両家の取り決めで籍を入れているだけ、ということよ。主人の先代様が亡くなられて直後のことだったから、両家というよりも、ハードン家の要望ばかりを通した結婚だったのだけれど」

 プリシアの言葉に、チガヤはこっそりと納得する。

 屋敷で生活している時、プリシアとロキの距離がやけに遠いような、と思っていたのだ。居候である自分の前だからかと思ってもいたのだが、それにしても、夫婦としてはどこか余所余所しい二人だ、と。

「その結婚に、親族内で唯一反対したのが、エリックだったの」

 ここでようやくエリックの名が出てきた。なるほど、とチガヤは頷く。

 プリシアは言葉を続けた。

「わたくしはね、結婚自体は別に良かったの。ハードン家にとって、わたくしは役立たずだったから……わたくしがエルドラン家に嫁ぐことで家の為になるなら、それで十分だった」

「プリシアさんが役立たずって……ど、どうしてですか? プリシアさん、お料理はすごく上手ですし、家事もたくさん教えてもらうばかりでしたし、他にもたくさん……」

「ふふ、ありがとう。でもね、わたくし、子供が産めない体なのよ」

 チガヤは声が出なかった。

 驚いてプリシアを見れば、彼女は困ったように眉を下げて笑っている。

「ハードン家はね、昔から血筋を一番に優先する家柄なの。より優秀な血を繋いでいくことばかりを考えているような一族で、だからこそ、生まれつき子供が産めない体のわたくしは、一族にとっては邪魔で役立たずな存在だった」

 プリシアは、実家であるハードン家では不遇な扱いをされていたのだという。

 子を作れないならせめて有力な縁談を進められるようにと厳しく作法を躾けられ、それ以外ではそこに居ないかのように徹底的に無視された。

 そんな生活の中で唯一、プリシアのことを気に掛けてくれたのは、エリックだけだったそうだ。

「エリックが結婚に反対したのも、わたくしのことを心配してくれたからだ……ということは、わかっているわ。ハードン家が強引に進めてしまった縁談だったものだから、嫁いだ先でも酷い扱いをされるのではないかって……でも、あの家を出たい一心だったわたくしは、あの子の心配を振り切ってこの家に嫁いでしまった。エリックときちんと会ったのは、それっきり。主人からあの子が部下になったという話は聞いていたけれど、お互いに会いに行くことはなかったものだから、今日は驚いちゃったわ」

「そうだったのですか……」

 チガヤは視線を落とす。

 自分の荷物と、誤魔化すように手を動かし続けているプリシアを交互に見て、もう一度顔を上げたチガヤは口を開いた。

「あのっ、そういうことでしたら、やっぱりエリックさんとお話されてきた方がいいと思います。荷造りは私一人でもできますから」

「でも……」

「三十分ぐらいで片付けられると思います。ですから、是非」

 尚も食い下がるチガヤに、プリシアは小さく息を吐くと、微笑んだ。

「……そうね……あの子を避け続けるのも、良くないわよね」

 彼女としても、このままの状態では後ろめたさがあったのだろう。チガヤに礼を言い、プリシアは部屋を出る。

 そんな彼女の背中を見送り、いらぬ世話だっただろうかと不安になりながらもチガヤはせっせと荷造りを進めた。


 ×××


 荷造りは三十分足らずで終わったが、あえてチガヤはゆっくり目に部屋を出た。

 裁縫道具一式と着替えを詰めた鞄をもってそろりと階段を降りてみれば、玄関前にエリックが立っている。プリシアと話はできたのだろうか、と心配になっていると、食堂の方からプリシアが出てきた。

「チガヤさん、お裾分けがあるから、こっちに来てちょうだいな」

「え、は、はい」

 エリックのことを気にしながらも荷物を抱えてプリシアの元へと行ってみれば、彼女は小さな紙袋を用意していた。

「ありがとう、チガヤさん。少しだけ、あの子と話ができたわ……仲直りとまではいかなかったけれど」

「そうですか……」

 詳細は聞かない方がいいのだろう。それに、これ以上はチガヤが口を挟むべきでもない。

 神妙な面持ちでいると、プリシアは優しい笑顔で用意していた紙袋をチガヤに差し出した。

「今朝焼いたクッキーよ。良かったら食べてちょうだい。観測所の皆さんの分までは足りなかったから、こっそり内緒でね」

「わぁ、ありがとうございますっ。プリシアさんのクッキー、大好きなので嬉しいです」

「あとそれから、こちらも」

 と、プリシアは紙袋をもう一つ渡してくる。中身は同じクッキーのようだが、こちらはしっかりと封がされている。

 プリシアは急に声を潜めた。

「こっちは主人に渡してくれるかしら。あの人、家には帰らずに、そのまま出張に行ってしまうようだから」

「え、は、はい、わかりました」

「このことはエリックには内緒にしてね。あの子が嫉妬しちゃうといけないから」

 エリックは嫉妬するような人なのか、と心の内で思いながら、チガヤは頷いて紙袋を受け取る。

 そしてしっかりと鞄の中に、潰れないように紙袋を入れた。顔を上げればプリシアはにこにこと笑っている。


 エリックと合流し外に出ると、日がちょうど真上に来たところだった。

「たまには遊びにいらっしゃいね。いつでも歓迎するわ」

「ありがとうございます。お世話になりました」

 深々と頭を下げて感謝を告げ、プリシアの見送りを受けながらエリックと共に屋敷を後にする。

 最後にプリシアが何とも言えない表情でエリックの背中を見つめていたのをチガヤは見た。当のエリックは振り返ることもなかったが。

 その後は行きと同じくお互いに無言で歩き、あっという間に観測所に戻って来れた。観測所に着いた際にエリックにも改めて礼を言い、こっそりとロキの姿を探す。

 ロキは外套を羽織り、小さな鞄を手にしていた。

「戻ったのかチガヤ。俺が出る前に間に合ったな」

「あれっ、ロキさん、もう行かれてしまうのですかっ? わ、ちょっと待ってくださいっ」

 慌てて駆け寄り、きょろきょろと辺りを見渡す。ちょうど廊下で出会った為に周りには他の誰も居ず、エリックも見回りだと言って早々に屋上へと向かった後だった。これ幸いとチガヤは荷物から紙袋を取り出した。

「これ、プリシアさんからお届け物です。クッキー、ロキさんにも、と」

 そう言って、封がしてある方の紙袋をロキに差し出す。

 ロキは少し驚いた様子だった。

「……彼女が、俺に……?」

 チガヤは首を傾げた。ロキにしてはどこか挙動不審で、戸惑ったように見えたからだ。

「ロキさん、もしかしてプリシアさんのクッキーを食べたことなかったりします?」

「…………ああ」

「えぇっ? おいしいですよ、是非食べてみて、プリシアさんに感想を言ってあげてくださいっ」

「あぁ、わかった、わかったから」

 思わず前のめりになるチガヤを押さえ、ロキはやれやれと肩を竦めた。

「道中で食べることにする。チガヤも、俺が不在の間にプリシアに会うことがあったら、俺が受け取ったことを伝えてやってくれ」

「はいっ、わかりました」

 チガヤは勢いよく頷く。

 そんなチガヤに苦笑しつつ、ロキは事務所の方を視線で示した。

「街に買い出しに行っていたアルテが戻ってきている。泉の方も、アイツには暫く小屋に篭もるように言っておいたから、今のうちに部屋の内装をアルテと一緒に進めると良い。終わったらアイツに声をかけてやってくれ」

「わかりました。ロキさんも、道中お気を付けて」

「ああ」


 ぺこぺこと頭を下げながらロキを見送り、事務所にいるアルテに声をかけて新居の整理を進める。

 街に買い出しに行っていたというアルテは、カーテンやタオル、毛布などを運び込んでくれていた。その他にも可愛らしい小物を選んで買ってきてくれたようで、チガヤは一つ一つに目を輝かせながら何度も頭を下げた。

「ありがとうございます、いろいろ買ってくださって」

「良いの良いの。こういうのは男共に任せるわけにはいかないからね。女の子の部屋なんだから、これぐらいはしなくちゃ」

「あの、ちなみに、お金はどこから……」

「所長から経費を使って良いと了承済み。あと少しだけ私からも出してるけれど、気にしないで。チガヤちゃん、貢ぎがいがあるし」

「み、貢ぎがい……えぇっと、ありがとうございます……あ、そうだ、一緒にクッキー食べませんか?」

 そういうことで、プリシアからもらったクッキーをアルテと分けることになった。

 アルテも彼女が作る菓子は好物なようで、大変喜んでいた。なんでも、たまにロキ経由で観測所にお裾分けとしてもらえることがあるらしい。休憩用に持ち込んでいた水筒の茶をお供にし、二人でこっそりとクッキーを堪能することにする。

「ロキ所長も残念な人よね。こんなに美味しいのに、食べないなんて」

「え、なんでですか?」

「聞いてないの? 所長、甘い物が苦手なのよ。甘さが控えめなら食べれないこともないみたいだけれど、自分からは極力口にしないみたいね」

「えっ、えぇ……?!」

 チガヤには初耳の新事実だった。

 ロキに渡してしまったクッキーの紙袋を思い出す。食べたことがないと言っていたが、まさか甘味が苦手だからだったとは。

 いや、しかし、一緒に住んでいるプリシアが、ロキが苦手なものを知らないはずはない。エルドラン邸で料理を担当していた彼女は、屋敷にいる使用人夫婦の好き嫌いまでをも把握していたのだ。チガヤが何度か手伝わせてもらった時も、誰が何を好むのかをよく聞かせてもらっていた。

 だが、そうだとしても。

「ど、どうしましょう……ロキさんに、プリシアさんのクッキーを食べて感想を言ってあげてくださいね、って言っちゃいました……」

「え? ――あははっ、まぁ良いんじゅないの。きっと奥様のことだから、所長用に砂糖の量を加減してるわよ。それにチガヤちゃんはさっきまで知らなかったんだから、気にしなくて大丈夫」

「そ、そうでしょうか……うぅ、ロキさんが帰ってきたら謝らなきゃ……」


 その時、部屋に設置されている電話がジリリと音を立てた。


 おそらく事務所からの連絡だ。アルテが受話器を取ると、微かにフィルらしき声がチガヤにも聞こえた。

「……そう、了解。すぐに戻るわ」

 短くやり取りをして受話器を置いたアルテは、少し難しそうな表情をしている。

「チガヤちゃん、急用ができちゃったから、事務所に戻るわね。大事な会議をしなきゃだから、チガヤちゃんは暫くここに居てくれる?」

「あ、はい、わかりました。後は着替えを片付けるだけですし、一人で進めておきます」

「ごめんね。終わったら電話で連絡するわ」

 そういって、アルテは急ぎ足で小屋を出て事務所へと向かった。

 チガヤは彼女を見送り、ふと、アルテが戻るまで時間がかかりそうだなと考える。となると、青年に外に出ても大丈夫だと伝えておいた方がいいだろうか。

 部屋の中には戻らず、泉の方へと足を向ける。

 と、目の前の泉で、唐突に魚が飛び跳ねるのを見た。

「あぁ、居た居た、チガヤ」

「水神様? わぁ、ここでは初めてですね。こんにちは」

 泉の淵に駆け寄って膝をつけば、全身が真白な魚――水神がスイスイと泳いで近寄ってきた。水面から顔だけを出し、何処に目があるのかわからないが顔を向けてくる。

「ちょうど良かった。風ちゃんと貴女の話をしていたところだったのよ」

「風ちゃん? えーと……もしかして風神様のことですか?」

「そうよ。それでね、風ちゃんと一緒にいろいろ考えたのだけれど、貴女にあの子の過去を見てもらった方がいいんじゃないか、っていう話になって」

「え?」


 その時、向こう側からバンッと荒々しく扉を開く音がした。

 驚いて水神から視線を外し、音が聞こえた方向へと目を向ければ、青年が小屋から飛び出してきている。

 青年は焦った表情をしていた。すぐに泉の淵にいるチガヤを見つけて、こちらに駆けてくる。


 それと同時に、チガヤは自分の背後で、黒い何かが大きく羽ばたくのを感じた。


「――説明は後だよ。ほら、行ってきな」

 聞こえてきたのは、風神の声に違いなかった。

 刹那、ごうっ、と突風が吹き荒れる。

「えっ」

 更に驚いて声を上げたが、遅かった。

「ええええっ?!」

 突然の突風に背中を押され、青年が自分に手を伸ばしているのを見ながら。

 チガヤはそのまま、ドボンと水の中へと落ちていった。

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