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 時は三日ほど遡る。

 今日から六月。衣替えで二ヶ月お世話になったブレザーとはおさらばし、ネクタイを結んだカッターシャツの上からグレーのサマーセーターに袖を通す。もう十日ほど前から暑い日が続いていたので、日中はとてもブレザーなんて着ていられなかった。それでも朝夕は少し冷えるので、この時期に適した服装と言えよう。

 しかし、この格好で登校するのは今日が初めてだ。学校のホームページでも紹介されているスタイルだし、先輩が着ている姿を去年まで街中などでよく見かけていた。

 そんな些細なことであっても新たなことを始めるのはドキドキする。それが普通の感覚であると俺は信じたい。

 そして、キッチリと制服を着込んでから自室を出る。

 階下に降りてリビングに入ると、テーブルの上には食パンにマヨネーズを和えた炒り卵が乗せられている朝食が用意されていた。


「あら、今日からその格好で行くのね。とても似合っているわよ、ひーちゃん」


 台所で洗い物をしている母親――、禍津真宵(まがつまよい)がいつものにこやかな笑顔で褒めてくれた。ひーちゃんというのは俺のこと。禍津聖(まがつひじり)なので、ひーちゃん。外では絶対に呼ばれたくないあだ名だけど、家の中では幼い頃から慣れ親しんだ呼ばれ方なので嫌いではなかった。


「うん。でも、俺だけこの格好でみんながブレザーのままだったらどうしようって不安になる」

「中学生の頃も衣替えの時期は同じこと言っていたわねー。大丈夫よ、今日から六月だってテレビでも言っているし」

「まあそれはそうなんだけど」


 椅子に座って食パンをひとかじり。多めに乗せられた卵がポロポロと皿の上にこぼれる。

 テレビでは近場で起きた殺人事件を伝えていた。俺が興味があるのはその画面上の天気予報。今日は晴れらしい。


「今日は何の授業があるの? 友達とは何を話したりしているの?」


 食器を洗いながら母さんが話しかけてくる。それに対し俺は――、


「うーん、まあ色々かなー」


 話を聞いていないような曖昧な返事をしてしまった。

 ガタン! とシンクの上に食器が落ちる音が響く。驚いてそちらに目を遣ると、母さんが今にも泣きそうな顔をしていた。


「ひーちゃんが、ひーちゃんが……、ついに反抗期に……。でも、子供の成長としては良いことよね……。悲しいけど受け入れないと……」


 そう自身に言い聞かせるようにぶつぶつと呟いているので、俺は慌てて訂正する。


「いや! 色々な友達と色々なことをしているってことだよ! テレビに集中していたせいであんまり聞いてなかっただけだよ!」

「そ、そう? ああ、あたしったら早とちりしちゃって……。今すぐにでも心次郎(しんじろう)さんに報告しないとって思ったけど、まだ反抗期じゃないのね」


 ほっと胸を撫で下ろした母さんは何事もなかったかのように再び食器を洗い始めた。いや、鼻歌を歌い出したので息子が反抗期になっていないことが喜ばしいのだろう。

 このように、母さんは俺のことが大好きだ。それはもう過保護なほどに。もちろん俺も好きだから悲しませたりしたくないので神経を使う。良いことなのか悪いことなのか、他の家庭をそんなに知らないからわからないが、幸せな家庭ではあると思う。

 母さんが報告しないと、と言った『心次郎さん』は俺の父親だ。二ヶ月ほど前に脱サラして世界を旅している。その経緯については俺も母さんも納得しているし、父さんには父さんの人生があるのでやりたい事をやって欲しいとも思う。

 ただ、そのせいで俺は禍津家の重要な役目を背負うハメになったのだが……、


「そう言えば、昨晩に『不死殺し』の依頼が来ていたわよ。どうする? ひーちゃんがまだ決心できてないなら断っておくけど……」

「……うん。その『不死者』の人には悪いけど、また期間を空けて依頼してくれるように返事しておいて。まだちょっと……」


 禍津家の重要な役目とは、日本中にいる不死者を殺すことだ。もう少し詳しく言うと、『死を望む不死者』を殺すことである。

 不死殺しは一子相伝の技であり、遺伝によるものだ。また非常に困ったことに、この不死殺しと呼ばれる存在の数が不死者と比べて圧倒的に少ない。不死者が日本に数千人はいるのだが、不死殺しの看板を掲げ活動しているのは六人ほど。つまり、俺はその六人のうちの一人になってしまったわけだ。これももう少し正確に言うと、不死殺しである父さんの〝代理〟として不死殺しの活動をしなくてはいけなくなってしまった。

 だが、父さんが旅に出て二ヶ月。そんな頻繁に依頼が来るわけではないが、俺はまだ一人も不死者を殺していない。

 不死者と言えど人間である。本人が死を望んでいるからと言って、はいそうですか、と簡単に命を奪うことができないでいた。


「わかったわ。ひーちゃんはそんなに気負わなくても良いのよ。確かにそのうちは心次郎さんから継がないといけないけど、今すぐに無理する必要はないわ」

「……ごめん」


 母さんの優しい言葉に俺は謝ることしかできなかった。父さんも俺を信じて代理にしてくれたのにこの体たらく。もし、次の依頼が来たらその時こそは、と思ってはいるのだが……。

 食べ終わった皿を母さんがいる台所へ持っていく。


「ありがと――」

「あっ!」


 腕を伸ばして受け取ろうとした母さんの手から皿が滑り落ちて落下する。一瞬の後に割れる音が響くはずであったが、


「ほっ」


 母さんがスリッパを履いた足の甲で受け止めてそれを阻止した。

 普通の家庭の母親はこんなことはできないんだろうな、と思う。うちの母さんは武術の達人であり、こと格闘においてはこの人以上に強い人を俺は知らない。昔、何か格闘技を習っていて大会で優勝したという話は聞かない。なので、何故こんなにも繊細であり鮮やかな動きができるのか、息子である俺でも謎であった。


「ごめんね、洗剤が手に付いたままで滑っちゃった」


 そして、足を軽く上に振ったかと思うと、宙に舞った皿が母さんにキャッチされる。


「じゃあ、今日も気をつけて行って帰って来るのよ。ひーちゃんが帰って来る時間は、あたし買い物に出かけてるかもしれないけど」

「う、うん、わかった」


 そうしてまた鼻歌交じりに皿を洗い始める。

 まあ、これが俺の日常だ。普通であることを願う俺だけど、今日も色々と起こりそうである。


 ♢


 家から駅まで徒歩二十分ほど。そこから電車で途中乗り換えを挟んで三十分。それが今年から通い始めた高校への通学経路だ。

 もう入学して二ヶ月が経った。そして、一ヶ月ほど前から通学中の楽しみもできた。その楽しみは電車に乗っている際のことなのだが、駅まで行く途中にとても普通ではない知り合いと出会ってしまう。


「やあ、聖君。偶然だね」

「おはようございます、タチバナさん」


 髪を金色に染めて一見チャラそうに見える青年。母さんや父さんの話によると、俺が生まれた病院にも足を運んで赤ん坊の俺を眺めていたらしい。性格は大雑把と言うか適当な性格だが、悪い人ではない。いや、〝人〟とは言えないか。


「心次郎君の様子を見に来たんだけど、彼は元気にしてるかい?」

「父さんなら四月に世界を旅して来ると言って、今は日本にいないので詳しいことはわからないです。母さんと連絡は取っているようなので元気なのは元気だと思います」

「へえ、そうなんだ! ということは、今の禍津家の不死殺しは聖君ということで良いのかな?」

「はい。あくまでも代理ですが」


 俺が答えると、タチバナさんは微笑む。


「なるほどねえ。じゃあ、聖君にもちゃんと挨拶というか言っておかないといけないね。〝不死者になった人たちを無暗やたらに殺さないでくれたら嬉しいよ〟」


 一般的に忌み嫌われる存在である不死者を殺さないでくれ。

 何故タチバナさんがそんなことをわざわざ俺に言うのか。

 それは、〝不死者は全て彼の力で生み出されている〟からだ。

 聞くところによると、タチバナさんは江戸時代に起きた大飢饉で人々の死にたくないという思いから生まれた神らしい。それが何故こんなチャラ男風な青年になってしまったのかわからないが、時代に合わせながら人間社会に根付いているのだろう。


「……まだ誰も殺していないです。その、踏ん切りがつかなくて」

「うんうん、他の不死殺しの子たちも聖君みたいだと自分としてはありがたいんだけどねえ。でも、そのうち聖君も立派な不死殺しになっちゃうんだろうね。キミって真面目だから」

「そうですね……。真面目かどうかはわからないですけど、不死殺しの家系として全うしたいとは思っています」

「その辺は人間たちの問題だから強く言えないのが自分としては悲しいよ。なんてね」


 と、神からの嘆きが冗談であったかのように締めくくられた。嘆いていたと言っても、常にその整った顔は笑顔であったが。


「これから学校だろ? 呼び止めて悪かったね」

「いえ、時間には余裕を持たせているので」

「そうかいそうかい。高校生になって新生活はどうだい? 彼女とかできた?」


 急に俗世にまみれた会話を始めたタチバナさんの言葉に、俺はドキリとしてしまう。


「ぼ、ぼちぼちですね。か、彼女は……、その、まだ……」


 急に挙動不審になってしまった俺に、神の目を誤魔化すことはできなかった。


「ははーん。彼女はいないけど、好きな子はいるってところだね。いいね! 青春を楽しむのは良いことだ。自分には縁のない話だけどね、ははは」

「は、はあ」


 ゴッドジョークと言ったところだろうか。ゴッドと付けると凄そうだけど、特に笑えるジョークでもなかったのは内緒だ。


「じゃあ、学校気をつけてね。またそのうち様子を見に来るよ」

「はい、それでは」


 タチバナさんは日本各地にいる――と言っても偏っているが――不死殺しの様子を見て回るのが仕事なのか趣味なのかわからないが、そういう使命があるらしい。要するにわからないだらけの神である。

 別れの挨拶を済ませ、俺たちは別々の方向に歩き出した。


 ♢


 途中、タチバナさんと立ち話をしたけどいつもの時間に乗る電車に間に合った。車内は通勤通学する人たちで埋まっている。とは言っても、これは普通電車なので座る席がない程度で通路は空いている。

 問題は、数駅先で新快速に乗り換えた時だ。都会に向かう速い電車ということで、込み具合が尋常ではない。中学校までは地元だったので電車を使う機会は休日に遊びに行く時ぐらいであったが、高校生になり都会まで通学することになって日本の通勤ラッシュの凄さを味わっていた。

 入学当初の四月はうんざりしていた。

 しかし、五月になってから反転する。

 別に乗車率が半分になったというわけではない。そことは別のところに楽しみを見つけたのだ。

 それが新快速に乗り換えてすぐにまた停車するこの駅に理由がある。

 席は当然全て埋まり、つり革も空いておらず人が一人通るのも苦労する通路。降車する人もいるが、乗車してくる人の数の方が圧倒的に多い。

 しかし、その乗客の中に俺の気持ちを高めてくれる天使がいた。

 おとなしめの私服にリュックを背負った長い黒髪の女性。その髪は束ねられて上で止められている。大人びた美人だけど、おそらく大学一年生か二年生と言ったところだろうか。身長も俺と同じぐらいの百六十センチ半ば。女性としては背の高い方だろう。

 今日は少し離れた場所に立って電車に揺られることになったが、ここからでもその姿を確認することができる。

 そう、俺は彼女に恋をしてしまったのだ。

 まさしく一目惚れ。ゴールデンウィーク明けで憂鬱な気分だったのが、彼女を一目見て俺の脳内でサンバカーニバルが開催されたほどだ。

 それからというもの、俺はできるだけ同じ時間、同じ車両に乗るようにしている。

 たまに会えない日もあるが、ほとんど毎日同じ車両に乗り合わせることに成功していた。

 現在、彼女はたまたま空いていたつり革に掴まり、何かの文庫本を広げて読んでいる。今時、老若男女問わずスマホをいじるのが当たり前の世の中で本を読むなんて「私は知的で魅力的な女性です!」とアピールしているようなものだ。

 もちろん、そういうところも含め俺は惚れている。

 しかし、気になることもある。

 この車両だけ男性の乗車率が高いのではないだろうか、と。

 きっと魅力的な彼女目当てなのだろうと俺はものすごく周りを敵視していた。彼女の身を案じれば、女性専用車両に移ってもらいたいところだけど、そうすると俺も彼女の姿を見ることができないので葛藤がもの凄いことになっている。

 そんなことを考えているとあっという間に二十分が経過し、降車する駅に着いた。

 この県で一番の街なので、皆が一斉にどっと降り始める。その波に流されながら俺は改札に続くエスカレーターに乗った。

 不審に思われない程度に周りを見る。すると、三段後ろに例の彼女の姿を見つけた。後ろを振り向いている時点で十分不審なのだが、なりふり構っていられないのだ。

 エスカレーターを降り、わざと歩く速度を落として彼女の後ろに回る。そして、同じ改札を通って出た。

 本当はそのまま一緒に学校へ行きたいところだが、俺はこれから違う電車に乗り換えなければならない。反対方向に行ってしまう彼女も電車を乗り換えるのか、この街に用事があるのかわからないけど、とにかくここでお別れである。

 一度大きく息を吐く。

 そして、今日も彼女と出会えた喜びを噛みしめながら学校へ向かうことにした。

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