カース
神原
第1話
プロローグ
ほの暗い館の一室に描かれた魔法陣。その幾何学模様の白い線が朧にかすむ。
ナイフを滑らせ、指から滴る雫が零れ落ちた。
ぽつり。
ぽつりと。
◆
数日が経った夜の街を、犬の悲痛な声が響き渡る。夜中。誰も起きていない様な時間の中で、不定形の物体が死肉を漁る。
雲に覆われた空の下、咀嚼音だけが響きわたっていた。
カース
「聞いたか? 紗羅っ。おい、さら?」
教室で響がおかっぱ頭の少女を、後ろから片手で揺さぶった。黙っていれば可愛いのに、男っぽい口調が響の欠点かもしれない。
「う、ん?」
寝ていたのだろう。ぱっと見では起きている様に見えていた少女が、手に乗せていた顎を滑らせて顔面を机にぶつける。
「いたーい」
鼻の頭をさすりながら、紗羅が響へと視線を巡らせてくる。響はやれやれと言いたそうな顔で、
「なによお」
と紗羅が睨み付けてくるのを見ていた。伝えたかった事を思い出した様に響は言い募った。
「近所でまた犬が死体で発見されたって。内臓を食われて」
起きがけに嫌な事を聞いたとばかりに歪む顔もまた可愛い。急いで知らせに来たせいで響は黒髪の下に汗を浮かばせていた。
「解けない問題があって昨日から眠いのに」
紗羅の恨みがましそうな独り言を響は聞き流す。
「そんな事より中間の結果を見にいこうよ」
思い付いたかの様に紗羅が立ち上がった。立ち上がるついでにごみ箱に破いた紙を捨てているのを、なんとなく響は目で追って彼女の後に付いて行った。
当然と言えば当然なのだろう、紗羅の名が一位の位置に、そして。
「二位」
響の口から悔しげな声が漏れる。同時に、
ぎりっ!
と言う音がこだましたのだった。
「響?」
響の顔色を伺う様に紗羅が見つめてくる。試験の後はいつもこんな感じだった。紗羅が一位で響が二位、三位は。
三位までいつもと同じ、と、響の視界に見覚えのある様な子が駆けていく。
「次は負けない!」
それは自身に対して言ったのか、紗羅に向かって言ったのか、ただ、その瞳は真剣そのものだった。
ほんのひと時、響が怖い顔をしていた。少しの間深呼吸をするといつもの笑顔を取り戻す。
「こわいこわい」
茶化す様な紗羅の言葉に一瞬だけむっとして、なにおうっと逃げる紗羅を追い始めたのだった。
「響!」
階下から母親が呼んでいた。またかと思いながらも、寝そべっていたベッドから嫌々降りると階段へと向かう。
「また二位だったんですってね。あの子はいつも一位なのに、あなたときたら」
「一問だよ、一問。それが違ってたら私だって」
「気が緩んでるからよ。いつもそれ。あなたは」
母親の詰問攻めが始まった。どう答えても小言が続く。親同士は一見仲がいい、そう一見だけ。
紗羅の親が自慢する訳ではないのは知っていた。隣同士と言うのが問題なのかもしれない、とも思った。そしてなにより響だって悔しかった。自信のあった今回ばかりは。
一時間にも及ぶ小言を受け流し、軽い服装で玄関を飛び出ていた。
一人公園近くの茂みへと足を運ぶ。今頃紗羅は、そう、思い浮かぶのは机に向かって一心不乱にペンを動かしている姿だ。
「何やってるんだろう、私」
なんとなく惨めな気持ちになっていた。薄暗闇の中それでもとぼとぼと足を進める。紗羅を恨む気になんてなれない。大切な親友だ。
五月も半ば。風が気持ちいい。だと言うのになぜか背筋に悪寒が走った。大きな何かが動く気配がする。それは闇の中ですぐ近くを通り過ぎていく。腕には鳥肌が立っている。
ざわりっ。木々のざわめきと何かが蒸発する様な溶ける音がした。
危うく叫びそうになった口をきつくつぐむ。近所で犬が死体で発見された。それは昼に自分で言った言葉だ。脳裏にその事が浮かぶ。
響は怖さからか体を動かせなかった。
数分の間、生きた心地がしなかった。直接目にした訳でもないが、あれは良くない生き物だと直感が告げていた。
ひいていた汗がどっとわいてくる。
そして一目散に部屋まで逃げ帰ったのだった。
一夜が明けた。
高校への道すがら、仰いだ日光が眩しく感じる、昨日のあれは何だったのだろうと思考を巡らせる。普段よりも厚着で。薄着だと昨夜を思い出し肌寒く感じてしまうから。とは言え五月の陽光の中、ブレザーの中は汗を吸って湿っぽくなっていた。
「あれ、紗羅来てない?」
クラスメイトが首を振る。嫌な予感しかしなかった。
普段学校を休む様なことはない。隣の家と言う事もあって家を出たのも音と声で確認している。ただ一緒に登校する気分ではなかったのだ。家を出るのが正直怖かった。だから、一緒に来なかった事を後悔した。
「ごめん、私休む」
教室を飛び出し、鞄をもったまま響が走る。
「どこ? どこ」
学校からの道すがら、全身に電気が走った様な違和感を感じて公園の前で立ち止まった。
「紗羅っ!」
五十メートルほど先に呆然と立つ友人がいた。じりじりと近づくスライム状の物体に響が一瞬固まる。勇気を振り絞って駆け付けた響が、紗羅を引っ張り倒した。足元を通り過ぎたそいつは雑木を溶かしながら突っ込んでいく。
「紗羅っ。大丈夫?」
助け起こそうとする響に紗羅のくぐもった笑いが応える。
「やっと解けた」
「えっ?」
「そっか、そうだったんだ」
ぶつぶつと呪文の様な言葉を繰り返す。そして最後に、
「~~ェオール」
と叫んだ。手紙? 紗羅が手に持っている紙には赤茶色の文字が浮かび上がっている。
今迄不完全だったスライム状の物体が、紗羅の声と共に一つの形をとろうとしていた。
「何っ? 何なのっ? シェオールって何。ねえ紗羅っ!」
今度は響の単語に応える様に徐々に死神の様なシルエットへと変わっていく。
風も無いのに手紙が蠢く。紗羅の目がその手紙の文字に注がれている。
(手紙だ。あの手紙が……)
響はその手から手紙をもぎ取るとびりびりに引き裂いた。
「ちが、う、もや、して。何度も破い」
頭を押さえた紗羅が苦しそうに言葉を吐き出した。死神は一旦ばらばらになり再び一つの形へと戻ろうともがいていた。
「火なんてどこにっ!」
思わず響は叫ばずにいられなかった。命がかかっている。自分と紗羅と。辺りを急いで見回す。ない。切れ切れになった死神はまだ動けないらしい。ちらりと見やる。普通なら二人で逃げればいいだけと思うだろう。だが、それは明確に紗羅を見ていた。空洞の虚ろな眼で。(今倒さないとこいつは。
そうだっ! あれ。あれなら燃えるはず)
鞄をまさぐり取り出した制汗スプレーをうごめく紙片へと掛けまくる。使い終わったスプレーを投げ捨て、携帯の電池部分を上に乗せる。そして、スライムが溶かした木まで走り、枝の付いた棒を拾ってきてぶち叩いた。
一回、携帯が歪む。二回、カバーが壊れ電池がむき出しになる。
三回、遂に爆発が起こった。ついで制汗剤塗れになっていた紙が燃えていく。
「やった」
死神が悶える。その体が燃えている。もし手紙がなかったら、もし、一つでも足りない物があったなら、響達二人は死んでいたかもしれない。
尻もちを付いて口から笑いが漏れると同時に涙が流れた。
同時刻。住宅街で何かが燃える音と長く続く悲鳴が響き渡っていた。段々と声が弱弱しくなっていき。ついには途絶える。
救急車のサイレンが響く頃には火は消えていた。
あの後紗羅は病院へと運ばれ昨日退院した。今日は四日目だ。あの手紙を送った主は分からなかった。しかし、中間で学年三位だった女子生徒が焼死体で発見されたらしい。
「で、シェオールって何」
元気になった紗羅に響が聞いた。
「なに? それ?」
え? と思わず呟くも、そっかと納得して二人はまた他愛無い雑談を繰り返すのだった。
「シェオール。地獄かあ」
ネットであっさり見つかったのはそれから更に時がたってからのお話だった。
カース 神原 @kannbara
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