序)第2話 侯爵夫人

 少女は何も覚えていませんでした。

 なぜ森のなかにいたのか。

 倒れていたのか。

 何があったのかも。


 ナナ。

 12歳。


 名前と、おぼろげな年齢だけ。

 それも確かなものかは分かりません。

 誰かに植え付けられたものかも。

(『名無し』などとみずから名乗るわけありません)

 侯爵こうしゃく夫人は哀しみ深くため息ついたものです。


「いやなことは思い出さなくていいの。今はゆっくり、おやすみなさい」


 ナナの夜空を写したかのような黒髪、黒目はこの地の人の特徴ではありません。

 侯爵夫人はそれだけで察するものがあったようです。


 侯爵夫人はひそかに孤児院の支援も行っています。

 奴隷の解放にも尽力してきました。

 その経験がいうのです、ナナはきっと、逃げ出してきたのだと。


 侯爵夫人はベッドの脇にただ寄り添い、ナナに微笑んでくれていました。


 ナナにとっては初めての愛。

 暗く閉ざされた冷たい記憶を追いやる、あたたかい春の日差し。

 雪解けを導くような。


「あらあら。なにを泣くことがあるの?」

「う、うう……」

「安心なさい。ここにはあなたをいじめるような人なんていないから」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

「何も謝ることはありません。あなたは何も悪くありません」

 侯爵夫人はそっと、ナナの頬をなでました。


「さあ、おやすみなさい」


 ふかふかの、まるで雲のような、お布団。

 額に添えられた侯爵夫人の手のあたたかさ。

 ナナは赤子に戻ったよう。

 母の庇護ひごのもと、安からな眠りの底へ。


 ▼▼▼


 真夜中。

 ナナはふと、目を覚ましました。

 あたたかな布団に包まれていること、まだ夢のなかのようでした。

 つぅ……、と、またナナの頬を涙がつたいました。

 その涙のわけを、ナナは自分でも分かっていませんでした。


(神さま……。神さま……)


 ナナは祈りました。

 どこの誰とも。

 どこにいるのかも分からない神さまに。


(わたしは何か、罰を受けるようなことをしたのでしょうか?)


 思い出そうとしても思い出せない。

 でも、胸の奥がチクチクと痛みます。


 冷たい目が見下ろし。

 熱い鞭が打つ。

 大勢の凍えるような笑い。


 ナナは身を強張らせました。

 まるで今まさに痛みがぶりかえしたように。

 それがなにかも分からない。

 なぜ責められるのかも知らない。


 けれどきっと、


(わたしは何か、過ちを犯したに違いない)


 ナナは自分を責めるのです。

 だから傷だらけになっていたのだと。


(神さま、神さま……)


 ナナは手を組み、ぎゅっと目をつむり、心のなかで必死に祈りました。


(わたしは本当に、こんな幸せなベッドを与えられていいのでしょうか?)


 神さまは応えてくれません。


(あの方はわたしをどうしてこんなにも愛してくれるのでしょうか?)


 ああ、かわいそうなナナ。

 どれほどの痛みを強いられたら、そんなにも愛情を信じられなくなるのでしょうか。

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