「月の聖女」いつかそう呼ばれるのだとしても

序)第1話 霧の森

 陽光ふりそそぐ、みどり豊かな森。

 歩むようにゆっくり馬車を引く馬たち。

 ガラガラと車輪が鳴るのも心地よい昼下がり。


(あら……)


 一転、森は霧に包まれました。

 地の底から湧き立ってきたそれは白い闇。

 深い海の底に沈み込んだようとも。

 楽し気に鳴いていた小鳥たちも、驚いたように隠れてしまいました。

 妖しげな気配に御者ぎょしゃも馬も緊張。

 馬車のなかの貴婦人は窓からそっと、外の様子を確かめました。


「止めてください」


 凛とした声。

 亡き夫に代わり、この地を収める侯爵こうしゃく夫人のめいです。

 御者は迷わず手綱を引きました。


「どうして、こんなところに?」


 見間違いではありませんでした。

 霧のなかにうずもれるようにして倒れ伏していたのは小さな女の子。

 泥だらけ、傷だらけ。

 馬車のスピードが落ちなければ。

 窓を見なければ。

 白い壁にはばまれ、きっと見落としてしまっていたに違いありません。

 これは神の啓示けいじやも。

 侯爵夫人は馬車から飛び降りて、少女を助け起こしました。


「しっかり、しっかりして」


 侯爵夫人は必死に呼びかけました。

 でも、黒髪の女の子はぴくりともしません。

 息はあります。

 か細く、どんどん細く。この世から別れを告げるような。


「ダメよ! 戻ってきなさい! 私が許しません!」


 ぎゅっと、侯爵夫人はきれいなドレスが汚れるのもかまわず彼女を抱きしめました。

 その光景はまるで絵画のよう。

 年の頃、十ほどの少女をかきいだいて。

 我が子のようにいつくしみ。


「う、うう……」


 少女のまぶたや唇がかすかに震えました。


「さあ、お水を」

 御者が差し出した水差しを、侯爵夫人は手ずから彼女の口へ。


(こくん……)


 彼女は水を飲み干しました。

 とくん、とくんと、少女の胸は鳴っています。

 呼吸も深く、確かなものへと。

 生まれたての子犬のように目は開かないけれど。


「あなたのお名前は?」

「わ、わたしは……」

「そう、思い出して」

「わた……し……」

「ゆっくり。そう、ゆっくりでいいから」


 侯爵夫人はうながすように呼びかけます。

 この世に呼び戻すために。


「ナナシノナナコ……」


 侯爵夫人は端正たんせいな眉をひそめました。


「ナナシ? 名無しということ?」


 悲劇を見たように、侯爵夫人は天をあおぎました。

 親鳥が傷付いたヒナ鳥をいだくように、少女を強く抱きしめました。


「いけません」

「え……」

「どうしてそんな悲しいことをいうのですか」

「な、に……」

「あなたは確かにこの世界にいる。私の胸のなかにいる。鼓動も呼吸もしています」

「あ、あ……」

「あなたは名もなくさまよう幽霊ではありません。世界に存在を刻む、名がないなんていわないで」


 白い闇のなかに、あたたかな光が差し込んだかのよう。


 うっすらと涙が一筋、少女の頬をつたいました。

 侯爵夫人はにっこり微笑むと、細く、軽い彼女をかかえました。


「さあ、この子を連れ帰りましょう。早く治療をしなければいけません」


 ▼▼▼


『あなたの命に輝きを』


 、少女は聞いた気がしました。


 かがやき?

 わたしに?


 そんなのはうそ。

 わたしにはなにもない。

 わたしにはなんのかちもない。

 ひかりをもらえるわけがない。


 だれもわたしをみつけてくれない。

 わたしにひかりなんてさすはずない。


『すべての命に祝福を』


 もしも、わたしにしゅくふくなんてくれるなら……。

 もしも、わたしをうけいれてくれるなら……。

 それならわたしは……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る