第3話「そんなことが通用するなら、俺は異世界転生してない!!」(CV:櫻井ヒロ)

 櫻井ヒロ。


 それは一度その道を究めた、否、極めた腐女子ならば、無視しようして無視できぬ、一種の一里塚的存在である。


 その類まれな程に端正な美声と、ただひたすらに声優としての己の技を磨き続けるひたむきさ、そして老若男女全てを完璧に演じて魅せる演技力から『乙女ゲーム界のプリンス』とまで称される、その道の第一人者。


 出演作品はゆうに一千作品を越え、彼が声を当てればどんな脇役でも主人公すら喰らいかねない存在感を発揮してしまう稀代の名優である――。


「――と、ここまではいい?」


 アストリッドは黒板に様々なアニメやゲームのタイトルを列挙し、その真ん中に一際デカデカと書かれた『櫻井ヒロ』の文字をチョークでドンドンと叩いた。


 もうこの時点で三十分以上も姉の乙女ゲーム講義を聞き流すだけの時間を過ごしているヴィエルは、まるで補修を受けるおちこぼれ学生のような渋面で腕を組んだ。


「まぁ、俺だって名前ぐらいは知ってるけどさぁ……」

「名前を知ってるぐらいでわかった気にならないでちょうだい」


 アストリッドは小馬鹿にしたようなため息をついた。


「全く、これが我が弟かね。姉の私が一心にイケメンたちと愛を育んだり愛を育むイケメンたちを見ていたりする横でアンタは何やってたの? 櫻井ヒロが誰を演じて代表作が何かなんて今や新たなる一般常識として注目されてるぐらいなのに」

「一般常識は急に注目されたりしねぇだろ。それにどこの世界の一般常識なんだよ。半径二キロぐらいのせっまいせっまい世界の話だろソレ」

「もうちょい広いわ。少なくともこの界隈は小岩井農場ぐらいの広さはある」

「余計わかんねぇよ。東京ドームで例えるといくら?」

「六百四十個分よ」


 ゴホン、と咳払いをしたアストリッドは「ここからが本題よ」と口にした。


「ヴィエル。アンタはもちろん知らないでしょうけど、櫻井ヒロにはとある都市伝説があるのよ」


「都市伝説?」


 ヴィエルは器用に片眉を上げた。


「声優の都市伝説――って、なんじゃそりゃ。まさか表舞台に出てるのは実は影武者だとか、実は外国の王様のご落胤だとかそういうこと?」

「それが本当だったらそれも面白いけど、んなこっちゃないわ。というより、これは彼自身というよりも、彼が演じたキャラクターについての都市伝説ね」


 そこでアストリッドは何事なのか眉と声とをひそめ、顔を寄せてきた。




「え――何?」

「耳貸せ」

「洗ってすぐ返せよ」

「裏切んのよ」

「は?」

「裏切る」

「裏切る?」




 思わず、ヴィエルは姉の口元から顔を離し、目だけで姉を見た。

 アストリッドは怪談師が怪談を語るときの表情で、なおも繰り返した。



「だから、裏切んのよ。櫻井ヒロが演じたキャラはね、必ず最後に裏切るの」



 裏切り――普通に聞いていたのであれば重すぎる言葉だったけれど、それは実際、乙女ゲームを一ミリも知らない彼にとっては、何の理解も伴わない綿埃のような言葉であった。

 言われたことの意味がわからず、ヴィエルは姉の顔を見た。


「必ず裏切る、って何? 聞いてもわかんないんだけど」

「ああもう察しが悪いな。とにかく言ったまんまよ。裏切る。櫻井ヒロが声を当てたキャラクターはね、最後に裏切る可能性が高いってことよ」


 裏切り、裏切りと、アストリッドはとにかくその単語を繰り返した。


「いつからこんなことが囁かれるようになったのかは正直わからないわね。櫻井ヒロは大御所だから主人公やヒーローの声を当ててる場合も多い。けれどそうでなかった場合はね、そのキャラはとにっかく裏切るのよ。なんでなのかは知らないけど」


 どうしてなのかしらねぇ、とアストリッドは額に手をやった。


「まぁそういうイメージがついてしまったってだけの可能性も否めないけど――とにかく、櫻井ヒロが声を当てたキャラクターは如何にイケメンだろうと如何にフレンドリーだろうと如何に性癖どストライクのキャラだろうと、最後には裏切るものとして疑ってかかるのが定石。櫻井ヒロイコール裏切るキャラクターという話は東京ドーム六百四十個分の中では常識的な話なのよ」


 フゥ、とそこでアストリッドは息をついた。

 息をついてから――アストリッドはズバッとヴィエルを指さした。


「然るにお前! ヴィエル・アンソロジューン!!」

「な――何?」

「アンタも当然その常識に漏れない! アンタは裏切るの! この『妄執と欺瞞のCinque』、通称もぎチンの世界でもね!」


 今まで声を潜めていたんじゃなかったけ、と首を傾げたくなるような大声でアストリッドは宣言した。




「ヴィエル・アンソロジューン! それはこのゲームの世界『妄執と欺瞞のCinque』、通称もぎチンの悪役令嬢であるアストリッドの弟であり、タイトルの通り五人いる攻略キャラクターには含まれないシークレットキャラの腹黒糸目青年! 血縁上の姉であり悪役令嬢でもあるこの私・アストリッドをも凌ぐ、吐き気を催す邪悪! それが今のアンタよ!」




 どうだショックだろう、というようにアストリッドは声を張り上げた。

 鼻息荒く一息に言い切った姉に向かい、ヴィエルは首を傾げた。


「それがどうかしたの?」

「どうかしたの、だと――?」


 弟のこの反応におそらく肩透かしを喰らったのだろうアストリッドは、額に手をやって首を振った。


「ハァ、察しが悪いわね。ヴィエルに、櫻井ヒロが演じたキャラクターに転生してしまったことへの恐怖。お前はこの恐怖をわかっていない。わかっていないのである」

「である?」


 ぐいっ、と、アストリッドはヴィエルに顔を寄せて。

 そして、あっけらかんと言い放った。




「端的に言うなら――アンタ、もうすぐ死ぬわよ」

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